単身赴任の終わり
猫又大統領
拘束
両手は結束バンドで動かすことはできず、無理に動かせばバンドが食い込み、肌を赤色に変える。額から流れた汗は頬をゆっくりと這うように進み、やがてシャツに染み込んでゆく。最初のころのような元気はない。
昼過ぎのマンスリー契約の狭いアパートの一室。床には薄っすらと汚れたクマのぬいぐるみ、白い壁側には段ボールがいくつか重なっていた。
生活の匂いが急速に消え始めている。そう感じた。その部屋で、女子高生の私と会社員の白山は、備え付けの木製のテーブルに向かい合い座る。
そのテーブルの上には画用紙が一枚。クレヨンで幼児独特の輪郭と色使いで大人二人と子供ひとりが描かれ、端にはパパがんばって、とメッセージと『321』『たき』『はな』『がわ』という平仮名が純粋に汚い文字で書かれていた。
その絵を見つめる私に機嫌を悪くしたのか、白山の息遣いは荒く、眼光は刃物のように鋭い。私は思わず視線をそらせた。
白山には普段のような清潔感、知性、温厚な雰囲気はまるでない。これがこの男の本性なのだろうか。白山の口からは唾液が垂れていた。今何を考えているだろうかと、思うと嫌悪感が溢れ、制服の下の白い肌着に汗がじっとりと染み込む。
ドンッドンッドンッ。
沈んだ沈黙をドアの叩かれる音が響く。その音に私よりも反応を示したのが白山だった。
目を剝き、ドアの方をまるで真っ暗な洞窟の先に見えた一縷の光をみるように。
「警察です。少し事情をお聞きしたいので、開けてもらえますか? 白山さん? 白山さん?」
ガチャ。
私はドアを開け、ふたりいた警察官の一方の胸に飛び込む。
新鮮な空気が玄関から室内に入るのを感じた。
「だ、大丈夫ですか!」
私は部屋の奥を指差し、男が凶器を所持していることを伝える。
「おい!いるのか!」警察官のひとりが、靴を脱ぐこともなくゆっくりと床を踏みしめ奥へと向かう。
もう一人の警察官は私に優しく声をかけ続けたてくれた。
「君、もう、大丈夫だから、ここで、待っていて。応援がすぐに来るから」そういって、先に入ってい行った警察官の後を追うように、土足で部屋に向かう。
「白山か? お前は白山か?」先に部屋に入った警察官の声が聞こえる。
「ちょっ、待って、ここいてください!」
その声に、振り返ると玄関から顔を出して呼ぶ警察官。
私は足を止めない。そして、走り出す。
靴を履けばよかった。コンクリの硬い感触に後悔した。
痛みより、頭にある。住所を反芻する。
画用紙に、パパがんばって、と書かれていた。横。『321』『たき』『はな』『がわ』。はなたきがわまんしょん321ごうしつ。花滝川マンション321号室。頭の中で何度も繰り返す。忌々しい一家団欒が描かれていた画用紙。パパへの応援メッセージのすぐ横に書いてあった文字。そこさえ、消せば。
単身赴任の終わり 猫又大統領 @arigatou
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