第10話 揺れる感情

 婚約相手の釣書を読んでないとは何事か!と会場で散々叱られてしまった裕翔は、自室の机の中にしまいっぱなしだった有栖の釣書を出してきた。

 普通に考えてみれば、失礼極まりないよな…と感じたが、あの時は読むことすら悪だと思い込んでいたのだが、どうしてそうなったのかは、裕翔には分からなかった。


「何で…僕は…」


 呟いても何も変わらない。

 とんでもなく失礼なことをしたばかりではなく、着物も汚してしまった。


「クリーニング代、出さないと…」


 裕翔も、そして樟葉も、次期当主としての業務には少しずつ携わっている。

 阿賀の家は主に医療関係の仕事についている者が多く、祖父母は医者、両親は医者と薬剤師、という仕事をしている。

 裕翔自身は進路をどうするのか、正直なところ悩んでいた。医者になりたいという思いと、現場ではなく研究職としての医師を目指し、より良い薬の開発や病気の治療法を探すための研究もしてみたい。

 医学部に進学するのはほぼ決定しているようなものだが、病院経営もやってみたいから経済学部等にも興味はある。

 進路としては樟葉と離れてしまうが、友情に変化はないだろう、と勝手に思っていた。今の今まで。


 このままでは樟葉との友情にまでヒビが入ってしまう…というか、もうヒビが入りかけていることに改めて気付いてしまったので、釣り書きを読みながらも頭を抱えるという奇妙な技を披露してしまった。


「……まずい」


 口に出すと更にまずさが理解できてしまって、裕翔の顔は青ざめた。

 視線を下に落とすと、有栖の釣り書きが目に入る。そこに書かれていた『翡翠眼については、現在封印中』という文章に、あれ、と思う。


「何で」


 翡翠眼を封印する理由が、裕翔にはさっぱりわからなかった。いいや、もしかして聞いていたのかもしれないが、覚えていない。覚えようともしていなかった。

 さてどうしたものか、と考えていると部屋の扉を蹴破る勢いで、玲が入ってきた。いつもならばノックをしてくれて、こちらが『はいどうぞ』というまで入ってきたりはしないのに、今日はそうではない。


 これはつまり。


「ねぇ、お兄ちゃん。ちょっとぶん殴っていいかな」

「いきなり物騒だな」

「何がいきなりよ、人の親友にあんなクソみたいなことしてくれて私が怒ってないとでも思うわけ」


 マズい、目が完全に座っている。そう思えるだけの迫力があったのだが、怒る通り越して、本当にブチ切れている。


「…悪かったと、思ってる」

「そう思ってるなら、おじいちゃんち行くの、もうやめなよね」

「何で!」

「はぁ?」


 何で、と言った瞬間、玲の目がきつくなる。

 あれ、そういえば、と裕翔は目の前がぐわん、と回ったような気がしていたけれど、玲に胸倉をつかまれてしまっており、ただ目が回りそうな気分だった。


「れ、い…!」

「おじいちゃんとおばあちゃんに、偏見まみれの思考回路植え付けられたくせに!それでもまだ行くって言うの!?」

「だ、って、当主、教育は」


 ぎりぎりと絞められ、意識が遠くなりそうな感覚がやって来る。というか、どうして玲がここまで力が強くなっているのか。

 身体強化の術を自分にかけているとしても、これは強すぎるのではないか。


 裕翔がどうにか思考を回していると、玲は『あぁ』と小さく呟いてから締め上げていた手を離した。


「ぐ、っ…!げほ…!」

「今日、お兄ちゃんが先に帰らされてから、私と樟葉さんが結びの儀を執り行ったからよ」

「……え?」


 有栖への暴言と、ある意味暴行のせいで、話し合いのすぐ後で裕翔は早々に帰宅させられていた。

 樟葉と玲が婚約するところまでは知っている。自分もその場にいたから。

 だが、もう既に結びまで行っているとは思っていなかった。


「何で」

「私と樟葉さん、利害も一致したし。何より、私、樟葉さんが初恋の人だから」

「は!?」


 聞いてない!と絶叫しかける裕翔に対して、玲はあっけらかんとこう言った。


「当たり前でしょ?言ってないもん」

「えぇ…」

「有栖にしか話してないわ」

「え、あの子には…話していたの、か」

「当り前よ、友達だから」


 フン、と呆れたような目を向けてくる玲を見て、本当に自分は何も知らなかったんだと思い知らされたような気がしていた。


 有栖と玲が親友同士だということも、玲の初恋が樟葉だということも。

 しかも、今日、その初恋が叶ってしまった、ということも知らなかった。


 身内のことまでも知らないのか、と呆然としているが、玲の言葉によって現実に引き戻された。


「お兄ちゃんさ、ほんとどうしたの?ちっちゃい頃の失言はともかく、最近のお兄ちゃんの有栖への暴言やばいよ?」

「…っ」

「学校でもそんなんなの?」

「まさか、そんな、わけ」

「なら、何で有栖にだけキッツいの?」


 ――祖父母のいうことが当たっていすぎたから、妄信していた。


 これは理由なのかもしれないけれど、『祖父母のいうことならば間違いはない』という根拠のない自信に満ち溢れていた。

 両親の言葉すら、耳に入らない程度には信じ切っていたから、『有栖が能無しでハズレ』だと思い込んでいた。


 改めて今釣り書きを見て裕翔はゾッとした。


 有栖の能力の高さもさることながら、生まれたその日から桜華に大切にされ、愛され、両親や親戚からも除け者にされてということ。

 翡翠眼を持っているからといって、ここまで大切にされるものなのだろうか、と考えるが、分からなかった。


 異能を持つ家に生まれた限り、能力が無かったり低かったりすれば、疎まれる。それが、裕翔の中での常識だったのに。

 どうしてあの子はあんなにも愛されて、大切にされているのだろうか。


「…だって…能力が、無ければ」

「有栖は能力がないわけじゃないわ。高すぎるがゆえに封じられているだけ」


 玲の声は、先ほどまでの怒りに満ちたものではなくなっていた。


「…どうして、あの子は…愛されて…」

「皆、有栖が大好きなのよ」


 迷うことなく、玲は言い切る。


「お兄ちゃんは、おじいちゃんたちに選民思想植え付けられすぎなんじゃない?大体、どうして有栖の能力が封じられているのか、理解もしてない…ううん、理解しようともしていないでしょう」

「封じられている、理由?」

「私は有栖本人から聞いたから知ってるけど、その釣り書き読んでみなさいよ。多分、ううん、間違いなく書いてるから」


 それじゃあね、と付け足してから玲は部屋を出て行った。

 裕翔は言われるまま、釣り書きを読み始める。少しでも、今は有栖のことが知りたかったから。


 そうでないと、有栖との関係が一切合切、断ち切られてしまうような焦りとも恐怖ともつかない気持ちに、襲われていた。

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