最終章/蒼き奔流 第5話/最終決戦の無惨
一
ラビン新司令官の元には既に、太守の娘ファラシャトの戦死と、それに伴うアサド追放を記した密書が、城内の間者から送られていた。
だが、彼はその報告には半信半疑であったのだ。
「あの男が、黙って追放されるはずが無い」
それが、開戦以来アサドの鬼謀に翻弄され続けてきたラビンの、偽らざる実感であった。
確かに、これまでの数度の戦闘により、現在の兵力は両軍ほぼ五分になってはいる。
妖魔ハイヤットの力を借りてまで決行した、城内突入作戦の失敗は、アル・シャルク北方方面軍全軍の士気を、大きく下げもした。
だが、辺境最強を謳われたアル・シャルク軍は、戦闘訓練を受けた正規兵のみで構成されているのに対し、ウルクル軍は傭兵や強制徴兵された農民兵からなる、雑多な寄せ集めの軍であった。
両軍の兵士個々の能力が格段に違うことは、誰が見ても明らかであろう。
戦闘力の劣る軍の、その総ての兵力を持って正面攻撃を仕掛ける事など、まともな思考力を有する武人ならば、決してあり得ない選択であった。
「これは、罠か?」
とっさにラビンの脳裏をよぎったのは、アサドの周到な戦略の可能性であった。
自らを追放されたと見せて油断させ、正面攻撃を仕掛け、アル・シャルク軍を誘い出す……あの男ならば、やりかねない。
「アサドは? アサドの居場所を確認しろ!」
「アサドの姿はありません。赤獅団も確認できません!」
「斥候はどうした? アサドを発見次第、狼煙矢を上げるように命じておいたはずだが、まだ見えぬか?」
苛ついたラビンの声に、物見の兵が即座に反応した。
「ウルクル軍、総指揮を執るのは太守自身のようです!」
それを聞いてラビンの両眼がカッと見開かれた。
「どうやら、アサド追放は事実のようだな。では、望みどおり奴等を正面から迎えてやろう!」
ラビンの右手が剣の把にかかった。
「全軍、突撃っ!」
この時点で、勝敗は既に決していた。
二
一方的な殺戮が始まった。
無謀な戦い、勝てるはずのない戦いであった。
太守の狂気に煽られた兵達は、遮二無二突撃を繰り返す。
だが野戦で、アル・シャルク北方方面軍に、勝てるわけがなかった。
唯一、ウルクルの勝機があったとすれば守城戦のみであり、それすらも、アサドという男の統率力と鬼謀を得て、初めて可能たりえたのだ。
戦端が開かれたとたん、ウルクル軍にはアル・シャルク軍との緒戦での恐怖が甦っていた。
あの時も、ほぼ惨敗に近い状態だった。
だがあの時は、傭兵隊長アサドと赤獅団の驚異的な働きによって、辛くも全滅を逃れたのだ。
だが今、この戦場にアサドはいない。
たった一人の男の存在が、ウルクル軍の兵達の士気には大きく影響していた。
戦場という死地において、己の持てる力の全てを出しきれる兵など、数えるほどしかいない。
十人に一人、いや百人に一人いるかどうか……。
ましてウルクル軍は烏合の衆でしかない。
その烏合の衆も、類い希なる指導者の存在の有無によっては、実力以上の力を発揮することもある。
例えば、アサドのような指導者がいれば……。
だが、今、この戦場にアサドはいない。
「進めぇ、突撃じゃあ! 何をしておる、突撃じゃ。……こ、これ退却するな、戦えぇっっっ!」
砂塵の中に、太守の裏返った声が虚しく響くが、その絶叫は兵士達の悲鳴と怒号にかき消される。
必至に防戦につとめる一部の兵とは裏腹に、早くも散開し戦場を離脱し始めている兵が半数以上にものぼっていた。
「くくぅ……負けるのか? 儂は此処で負けるのか! させんぞぉ……」
太守の狂気で血走った眼が、さらに異様な輝きを増す。
その眼にはもはや正常な思考力のかけらも見出せない。
「ヴィリヤー! ヴィリヤー軍師はおるか? これより城に退却する!」
「退却? 再び守城戦に入られるのですな、太守」
「守城戦? ククククク……なぜ我が傭兵風情の戦い方を、まねねばならぬ?」
三
太守の言葉に、ヴィリヤーは悪寒が走る。
彼の前に立っているのは、口の端からトロトロと涎を流しながらだらしなく笑う、貧相な老人であった。
「城邑に火を放て! アサドの真似をして生き延びるぐらいならば、民もろとも灰燼に帰すも一興ではないか……ククク…フハハハハハア〰〰〰ッ!」
まるで子供のようにはしゃぐ太守を、ヴィリヤーは冷めた眼で見ていた。
「これは、太守の御言葉とも思えませぬな。ウルクルの民は己が私物とでもお思いか? そのような暴挙、断じて許すわけにはいきませぬ」
冷徹な軍師の言葉に、太守の笑いが凍り付いた。
「……ほう、許さぬ…とな。では、いかが致す?」
「今この場で、軍師の任を解いていただきましょう。あなたの狂気に殉ずるのは、お断りする!」
ヴィリヤーは軍師の証である腰の短剣を抜くと、太守の前に静かにおいた。
「儂を、ウルクルを裏切ると、そういうのじゃな、ヴィリヤーよ。そうか、ではこの謀反人を斬首せよ!」
だが、太守の怒声に反応するものは、皆無であった。
居並ぶ重臣を、兵士を、太守の黄色い眼が見回し、睨み付けるが、誰も動こうとはしない。
沈黙の数瞬後、ようやく側近の武官が、腰の彎刀を抜きはなった。だが……
「な…何の真似じゃ?」
武官は抜いた白刃をヴィリヤーに向かって振ることなく、そのまま地面に置く。
同時に、太守の周りを囲んでいた将軍達も、いっせいにジャンビアや円筒印章を地面に置いた。
「き…貴様ら全て、職を辞すと、そう言うのかっ? 儂の元から去るというのか? 許さんっ、許さんぞ!」
取り乱した太守の奇声に、ヴィリヤーは背を向けて歩き出した。
他のものも、彼に続く。
続く
続く
続く……
そして、太守一人が、その場に残された。
四
ウルクル軍は事実上、瓦解したのだ。
ウルクル軍の半数以上が、既に逃亡していた。
それも、敵軍の追手をかわすように、四方八方に、バラバラに、いっせいに、逃げ出したのだ。
これでは、数倍の兵の数がなくては、追いかけてせん滅することは不可能である。
逃げるウルクル軍と追うアル・シャルク軍が入り乱れる中を、太守とわずかな近衛兵は、城邑に向かって一目散に退却した。
それを見てアル・シャルク軍の戦車隊が後を追う。
必死の形相で追撃をかわし、ようやく太守の一団はウルクルの城門にたどり着いたが、門は硬く閉ざされ、開門を促す太守の声にも、閂を抜く音さえ聞こえない。
そして、城壁の前でアル・シャルク軍に包囲された太守の一団は、あっさりと降伏した。
太守を虜にしたアル・シャルク軍が、城門を突破して城内に入るまで、さほど時間はかからなかった。
「伏兵が居るやもしれぬ、油断するな!」
ラビン准将に命じられるまでもなく、アル・シャルク軍の兵は皆、慎重に歩を進めている。
アサドの存在は、彼らの脳裏から片時も離れることなどない。ウルクルの狂気の突撃さえも、あの男の鬼謀の内なのかもしれぬのだから。
「……静かだな。いや、静かすぎる。これは…」
ラビンの元へ、数名の斥候が駆け寄ってきた。
「城内にアサドの姿はありません! また、それ以外の人間の姿もどこにもありません!」
「何だと? 留守を預かる兵も、民も居らぬと言うのか?」
この事態は、ラビン新司令官にも、予想外であった。
当然城内には伏兵が存在すると予想していたのだ。アサドなら必ずそうすると……。
「城内に変わった形跡はないか? 何でも良い、アサドの行方を推定できる物はないのか!」
ラビンの声が怒気をはらむ。
彼にとっては、アサドを倒さずして、この戦における最終的な勝利はあり得ないのだ。
「それが……城の裏門に大量の足跡が残されておりました。おそらくは夜半から先程の戦闘中にかけて、城の住民が脱出したものと考えられます」
「足跡はどこに向かっている!」
「はっ! 瀝青の丘に!」
■最終章/蒼き奔流 第5話/最終決戦の無惨/終■
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