最終章/蒼き奔流 第3話/聖塔と赤獅剣と
一
方錐形の石───
高さはアサドの腰ほどしかない。
その方錐の一つの面に、ビッシリと文様の様なものが刻まれている。
松明を近づけて見入っていたアサドが、サウド副官を振り返った。
「これは、ただの装飾ではなさそうだな」
「古代の……楔型文字のようですが、かなり古い書体ですな。私も初めて見ました」
「内容は? サウドでも読めぬか」
サウド副官が、悔しそうにつぶやく。
「古代の楔形文字には、庶民用と神官用の二種類あったそうですが、これは…神官文字のようですな」
「なんで、そんな面倒なことをしたのさ?」とミアト。
「もちろん、為政者にとって、衆は政治から遠ざけておくに越したことはないからのう」
「情報の独占か…いつの時代も、人間のやることは同じだよな、うんうん」
一人納得しているミアトを後目に、サウド副官は松明を近づけて舐めるように碑文を読みはじめた。
「庶民文字の方はかなり学びましたが、神官文字は文献自体が少ないのです。判然とはしませんが、両者で共通する言葉ならば拾い読みが出来ます。…獅子……水……剣………これは?」
何か気になる文字を発見したのだろうか、サウドの声に、熱がこもる。
もっとよく字を見ようとして、副官は碑文の表面に手を触れた。
その瞬間、
「うおおッ」
突然、サウドは後方に吹っ飛んだ。彼の義足が鏡の床に当たり硬い音を立てた。
「サウド?」
駆け寄ったアサドは、サウド副官の灰色の髪の毛が逆立っているのに気づいた。彼の身体がピクピクと小刻みに震えている。
「ひ…碑文に触ったら突然、指先から身体に何か痺れるような痛みが走って……」
「毒物が仕込んであったのか?!」
アサドが素早くサウド副官の右手を確かめる。
墓泥棒避けとして、墓所内部の微少な突起物に毒物を塗布しておくことは、古来よりよくある方法だ。だが、サウドの手には針で突いたような傷跡さえ、認められない。
二
ミアトが、恐る恐る短剣で碑石をつついてみる。
バチッという耳ざわ地な音と共に、切っ先に青白い火花が散った。
「わっわわわ、何だ、コリャ? でも痛くないぞ」
切っ先が碑石に触れる度に、バチッ、バチッと火花が熾る。
「これってさ、羊の毛で編んだ服がときどき
「そうだな、その強力なものだと考えて良いようだな」
ようやく落ち着いたのか、サウド副官が体を起こした。
「どうやら、身体にはこれ以上の害は無いようですな。しかし、驚きました」
「サウドのおっちゃんは、さっき何に驚いてたのさ?」
「おお、そうだな。実は碑文の中に驚くべき単語があったのだ」
サウドは碑文を指差した。
「ここです……アサド…と」
「アサド? 獅子か。別に獅子が文章の中にでてきても、不思議はあるまい。昔は大陸の至る所にいたそうだからな」
「いや、これは四角で文字の周りを囲んであります。これは楔形文字で書かれた文章では、人名を顕す決まり事なのです」
サウド副官の興奮が、理解できずにミアトが首を傾げる。
「ふ~ん、これで〝アサド〟って読むのかぁ。でもさぁ、な~んで大昔の石に、大将の名前が書いてあんの?」
ミアトが不思議そうな顔で碑文を見つめる。
「それは…俺の事ではないな。おそらくナザフ朝の始祖の名だろう」
苦笑しながら答えたアサドに、サウドも頷いた。
「天より来たりし聖剣ジブリールの加護を得て、初めて大陸を統一したという王ですな。アサド殿の名も、確かその王にちなんでつけられたと聞いております。やはり、この遺跡はナザフ朝の遺構でしょう」
しかし、ミアトは二人の言葉に納得いかないらしい。
「でもさ、その人は伝説の中の王様でしょ? ユフラテ大河の治水に終生尽力したって言う。なぁんにも無いとこから水を取り出して、民に分け与えてとかさ。変な伝説が、い~っぱい残ってるよね」
「伝説の総てが架空の作り話ではないかもしれん。俺は以前中原で、永遠に水が湧き出るという水盤を見たことがある。それも、彼の王朝の遺産だと言われていたな」
アサドの言葉をサウドが補足する。
「アサドというのは民がそう呼んだ名であって、彼の本名ではないといわれているのだ。水を司るその力が、獅子座の水性になぞらえられたのであろう」
三
「へえー…じゃあ、この聖塔も水に何か関係があんの?」
「それは俺にはわからんな。サウド、ほかには何か?」
アサドの言葉を待つまでもなく、石の前に座り込んだサウドは必死に碑文を解読しようとしていた。
自分の知識と記憶だけを頼りに、未知の文字を解読するのだから、いかに博覧強記のこの男と言えど、容易なことではない。サウドの額に玉のような汗が浮く。
「どうやら、これは台座のようです。この上に〝何か〟を載せろ……と書いてあるらしいのですが、その〝何か〟が、とんと判らぬ……」
「台座、だと?」
アサドの視線の先に、頂上部がわずかに平らになっているだけの、方錐の石が黙然と立っている。
「ここにいったい何を載せろと言うのだ?」
「せめてここに、庶民文字の辞書があれば、もう少し解読できるのですが……」
額の汗を拭い思案に暮れるサウドに、ミアトが声をかけた。
「ねぇ…なんか、その台座、光ってきてなぁい?」
「なに? 光る? そんなバカな」
ミアトの言葉を、サウド副官は苦笑して否定する。
「いや待て、確かに光を放っているようだ」
「でしょ? キラキラしてるよね? なんでだろ?」
アサドは碑石の表面ぎりぎりまで、指を近づけた。
だが今度は、火花は飛ばない。
「これは……水だ」
「水? ……ふむ、確かに表面に細かい結露が」
結露とは、空気中の水蒸気が、気温が下がることによって、再び水に戻る現象を言う。
彼らが開けた扉から吹き込んだ熱い大気が、この閉じられた空間によって冷やされ、再び細かい水に戻ろうとしているのだ。
「ガラスの杯の中に冷えた井戸水を入れると、周りに水の玉が出来るのと同じこと?」
「そうだ、水は温めれば湯気となって消えてなくなり、冷やすと露となって再び姿を現す。ウルクルではそれを利用して張り巡らせた網から水を得たのだよ、ミアト」
四
最初は小さかった水滴は、しかしすぐに隣の水滴と融合し、
あっと言う間にその体積を倍々で増やしていく。
やがて水滴がその張力の限界を超えると、
磨かれた台座の表面を滑って、
下へと流れ落ち、
台座の周囲の鏡の床に小さな水たまりが出来始めた。
アサドは腕を組み眉根を寄せて、台座をじっと見つめていた。
「アサド殿、どうなされました?」
動かぬアサドを不審に思った、サウド副官が声をかけた。
「台座のここ、この平らになっている頂上に穴があるな」
腕組みを解いたアサドが一点を指差した。
「穴? ああ、確かに菱形の穴が。しかし、これが何か?」
薄く平らな菱形の穴の淵には何かの金属が嵌め込まれていた。
「この穴の側にも小さく何か書かれているが、読めるか? サウド」
サウドは再び松明を台座に近づけ、覗き込んだ。
「銀の月をこの穴に穿て……と書いてあります」
「銀の月? 月をここに置けというのか」
「おそらく月そのものではありますまい、何かの比喩でしょう。月の光をここに当てよ…との意味でしょうか?」
サウドの問いには答えず、台座を凝視していたアサドはハッと眉を開き、いきなり背中に負っていた長剣をはずした。
鞘を払うと両足を開いて立ち、静かに頭上に振りかぶると、優美な弧を描く巨大な剣が彼の頭上でピタリと静止する。
「大将、何を?」
「水を司ったという伝説の王よ、これが答えか?」
アサドは低い声で呟くと、一気に頭上の剣を振り降ろした。
松明の光を受け、周囲の鏡に無数の煌めきを撒き散らしながら、剣が方錐の台座の頂に突き刺さる。
「あああッ!」
剣の幅と幾らも違わない溝は、アサドの振り降ろした剣を受け入れ、
その両刃の部分が完全に台座の中に呑み込まれた後、
ピタリと止まった。
■最終章/蒼き奔流 第3話/聖塔と赤獅剣と/終■
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