第6章/碧き烈母 第1話/裏切りの日の夜

   一


 あの夜…十三の俺は、アハマル朝アル・シャルク王のラハマト三世と正妃──父と母と共に、川中の離宮の広間にいた。

 弟と二人の妹は、ひと月前から、父の乳兄弟の部族に預けられていた。

 広間には王宮の武器庫から運ばれた総ての武器や油が積まれ、その間に煌々と篝火が焚かれていた。

 当時アル・シャルクは東隣のジェッダ神聖公国との戦いの渦中にあった。

 遊牧を主とするアル・シャルクの経済は、天候に大きく左右される。

 三年来の旱魃かんばつ飛蝗ジャラハッドゥの害で、アル・シャルクは深刻な食糧難に陥っていた。


 それを狙い澄ましたようにジェッダが攻め込んできたのだ。

 同時に委任自治領だったバンダルが独立を宣言し、ジェッダと呼応して西の国境を侵した。

 アル・シャルクは東西から挟み撃ちにされたのだ。

 もともと、遊牧民を主としたアル・シャルクの兵は、ひょうかんをもって知られていた。

 旱魃によって、その兵力を著しく減らしたとはいえ、アル・シャルクも善戦した。

 兵力を東西に分けよく闘ったが、戦いは膠着状態に入っていた。


 荒廃した国と疲弊した民を憂えた父はジェッダに休戦を申し入れ、使者として太陽シャムス神殿の大神官・シダットを立てた。

 当時のアル・シャルクにあれ以上の戦いは無理だったのだ。休戦が実現しなければ……国は滅亡する。アル・シャルクはそこまで追いつめられていた。

 太陽神殿はこの世界のあらゆる国で崇敬されているし、その立場は建前上、常に中立だ。

 そして、太陽シャムス神殿が戦争状態にある国々の仲介を勤めるのは、古来より珍しいことではなかった。

 だから父は、あの戦争の和議の仲立ちに、神官シダットを立てたのだ。


 神官シダットが帰ってきたのは、アル・シャルクを発ってから十日後のことだった。

 最悪の場合を考え、父は川中の離宮へと身を移していた。あそこならば守るに易く攻めるに難い。

 シダットは旅装もそのままに離宮の父の前に立った。

「……して、神官シダットよ、ジェッダの返答はいかに?」

 待ちかねた使者の帰還を受け、離宮の広間に父王の声が響いた。

「ご安心召されよ、陛下。和議は成立いたしましたぞ」



   二


 シダットの言葉に、父だけでなく周囲の者達はいっせいに安堵の溜息をもらした。この言葉を誰もが待ちわびていたのだ。

 長い戦いがようやく終わると、歓声が上がった。

「篝火を消せい! もう不要じゃ」

 宰相が篝火を囲んでいた兵士達に命じる。


 もし和議が不調に終わった時、父は広間に詰まれた油に火を放ち、全てを灰燼に帰する覚悟だった。

 あの広間にいた者はすべて、その覚悟をしていた。

 だが和議が成立すればその必要がなくなる。

 兵士達はほっとした表情を浮かべて、次々に篝火を消していった。

「和議の使者がジェッダより参っております。どうぞお言葉を、陛下」

「わかった。使者をこれへ!」


 シダットに促され、ジェッダの使者がしずしずと父王の前に歩み出る。

 頭から黒衣をまとった子供のような小さな身体から、なにか異様な気配を発していた。頭巾の下の顔立ちは何故か判然としない。

「おお、よくぞおいでくださった、ジェッダの使者殿。太陽神殿の神官とお見受けするが」

 和議の使者に、精一杯の例を尽くそうと、父は自分から歩み寄った。

 だが、黒衣の使者はピクリとも動かない。

 差し出した右手の行き場に窮したのか、父の眉が微かに顰められた。


「いかがなされた?」

 父の言葉にも、使者は石像のごとく微動だにしない。

 いや、小刻みに肩が震えていた。

「…ククククククククク…」

 最初、その声は泣いているようにも聞こえた。

 だが、そうではなかった。

 水面に漣が立つように、広間に幽かな笑い声が広がっていった。

 広間にいる者総てが怪訝な表情を浮かべる。



   三


 笑っているのは誰だ?

 この侮蔑を含んだ笑い声の主はいったい何者か?

「ククククククククク……フハハハ、ハァッハハハハハァ!」

 泥炭の中から吹き出す泡沫のように、粘着質の笑い声が広間の高い天井に響いた。

 その笑い声が、間違いなくジェッダの使者の口から発せられていることを確認するのに、たいして時間はかからなかった。


「きさま、何がおかしい? 王の御前で無礼であろう!」

 最初は呆気にとられていたが、自分を取り戻した宰相の凛とした声に、使者の笑い声はピタリとやんだ。

「…………」

 しかし、声はやんだが、パカリと大きく開かれた黒衣の使者の口はそのままの形を保ち、かえって無礼さを印象づけている。

 無言のまま開かれた口で、頭巾の下の小さく光る眼で、小柄なその全身で、黒衣の使者は俺の父アル・シャルク王を、否その場にいるアル・シャルクの人間達総てを嘲笑っていた。


 ズルッ…………

 突然、開かれた使者の口の中から、何かが姿を現した。

 それは青黒くヌメヌメと濡れていた。

最初舌かとも見えたそれはその肉塊は長さをどんどん増し、胸元まで垂れ下がってゆく。

 ………シュウシュウシュウッ!

 哭いた。

 それは息を吐き出すように、哭いた。


 耳に不快な、きしるような高音。

妖魔ジンか?!」

 誰かが叫んだ。

 それが宰相であったか、俺自身であったか、未だに判然としない。

 ただ、圧倒的な恐怖と戦慄がその場を支配していたことだけは、疑いもなく確かだった。

 ジェッダの使者は……いや妖魔は四つん這いになった。

「グウェエエエエエエエエエ…………」

 腹の底から汚物を吐き出すように、呻き声を洩らしながら使者は、口から青黒い肉塊を吐き続けた。

 肉塊は大きさを増し、使者の頬の肉を切り裂いてゆく。


 メチッ……


 顎の骨が裂かれる音が響いた。



   四


 口の両端から始まった亀裂は一気に使者…いや、妖魔の首へと走り、肩口まで広がる。そこから青黒い肉塊が血を滴らせながらと這い出てきた。

「カハアアアアアアアア!」

 生臭い息を吐き出すと、今度は低い音を立てながら息を吸い込む。

 いったいあの小柄な身体のどこに潜んでいたのだろうか、窮屈な皮を脱ぎ捨てたそれは、広間の高い天井に届くほど大きかった。

 そして空気を吸う度にさらに巨大になっていった。数度空気を吸い込んで妖魔の身体が膨れ上がった。


「逃げよっ!」

 咄嗟に父は、俺と母の背を押して窓から突き飛ばした。

 妖魔の中で急速に膨れ上がった恐怖と殺戮の匂いに、敏感に反応したのだろう。

 広間の出窓から身を踊らせた俺が最後に見たのは、妖魔の身体から発せられた空気の刃だった。

 一瞬視界が真っ赤に染まった。

 川面に叩きつけられ、水を飲みながら必死に身をよじって身体を浮かび上がらせた俺に、母の声が聞こえた。

「ああ、アサド、アサド、大丈夫だったのね……」


 声は震えていた。

 母に声をかけようとした時、大勢の人間の絶叫が離宮の窓から響いた。

「あれはっ…!」

 暗い川のなか、俺の隣で母が息を呑む。 

 振り返ると岸には無数の松明の灯が燃えている。

 その数はどんどん増し、対岸を埋め尽くした。

明かりの中に浮かび上がったのはジェッダの黒い旗と、父の従兄弟、アーバス家の長ディフィディの黒い蠍の旗。

「ああ……」


 瞬時に母は事態の全てを察し嘆息した。

 その溜め息が、俺の耳にこびりついた。

「アサド、私達は罠にはまったようです。狡猾なディフィディのこと、隙間なく離宮を囲んでいることでしょう。私達がいっしょに行動しては…危険です」

 母は灯がまばらな下流の方角を指さすと、俺の頭を抱き額にくちづけた。

「行きなさい!」

 俺の眼をじっと見つめて言った母の言葉に短く頷くと、俺は抜き手を切って暗黒の大河に身を沈ませた。

 俺は下流に、母は上流に──二手に分かれて泳ぎだした。


 僅かばかりの生存の可能性に賭けて。



■第6章/碧き烈母 第1話/裏切りの日の夜/終■

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