秘密
TARO
秘密
"秘密は守られた。
須く話せよ
「…基本色である青は青、碧、蒼、濃いものを藍、群青、呉須などと表現される。薄いものでは空色、水色。緑色をあおと表現することもある。
人々はその色を用いるため、高価なラピスラズリの粉末、ウルトラマリンを使ったり、コバルトを化学変化させたりして顔料として、絵画に用いてきた。染料としてはやはり藍が有名で、インディゴブルーと呼ばれて衣服に用いられて来た。
発酵させた漆黒の藍用液の中に布を漬け込み、空気に晒し、また漬け込み、思う濃さになるまで繰り返す…」
ここまで言ってその患者は口を閉じ、目を伏せ、やがて啜り泣いた。
全体が白で統一された室内。広めの空間で、対話に必要なものだけが置かれている。患者をソファに座らせるか、丸椅子に座らせて対面するかはその都度決めている。ここは精神科医Nの診察室である。
いささかやつれた様子の三十代後半の女性がNの前に座っている。見なり、化粧ともに上品であった。カウンセリングの経験は初めてのようで、緊張している様子が見てとれた。
対話によって患者の奥底の本心を掴み、心を快方に向かわせるよう、誘導する、そして適切な処方をする。Nは評判の名医だった。
「夫のことで悩んでおりまして…」とその婦人は伏し目がちに話し始めた。
婦人が言うには、それまで真面目に働いていた夫が次第に様子が変化していったようで、自室に籠る時間が長くなり、怪しんだ彼女は食事後のわずかな時間を見計らって問い詰めた。すると夫はすんなりと白状した。と言うより、聞かれるのを待っていたかのように、今自分がハマっているものについて語り出したのだ。
それが青だった。青色のものが生まれつき好きだったが、ラピスラズリの鉱物標本を通販で見かけて、つい注文してしまったのがきっかけで、それ以来青に関するものを調べたり、集めたりするのが趣味になってしまったそうだ。それ以来、
「お前にも素晴らしさを教えてやろう」と二人で話すたびに、青の由来や藍染の手順などを延々と話すようになった。
「私は興味なかったんですの。けれどもいつの間にか暗唱できるほどに聞かされ、覚えてしまって」そう言って夫人は青に関する来歴や顔料の成分、種類などをNに聞かせるのであった。そして途中で言葉に詰まり、顔を伏して泣き始めた。
「そして今日、風呂場で保温状態にして発酵させた藍用液の中に夫が浮かんでいたんです。真っ黒の暖かい液体に、うつ伏せになって!」
ワーッと声をあげてその夫人は泣き叫んだ。覆った手の隙間から液体が滴り落ちた。Nは反射的に自分のハンカチを出した。それはお気に入りの藍染のハンカチだった。
「先生ーッ!」
患者が突然襲いかかるようにNに迫る。払いのけるわけにもいかず、両肩を押さえて距離を取った。患者の目からは青い液体が流れ出ていた。それを手で覆ったため手と顔は真っ青に染まっていた。
(こんな症例は、知らないぞ、こ、ん、な、の)患者の力が思いのほか強く、押さえるのに必死になってしまって従来の冷静さを欠いてしまった。
ふっと圧力が軽くなって、気づけばいつの間にか、襲いかかる前の患者と対面した状況に戻っていた。彼女はNに差し出されたハンカチで目尻を少し押さえて顔を上げた。
「ごめんなさい少し取り乱しました。ハンカチは洗ってお返しします」
その顔は涙でやや目元の化粧が滲んでいたが、自分の見た真っ青に染まった顔ではなく、普通の顔に戻っていた。Nが呆気に取られていると、
「色々お話しして、気分が楽になりました。ありがとうございました」
彼女は一礼してから笑顔で診察室を出ていってしまった。
「何が起きたんだ一体…」
そう呟いてから自分の手を見ると真っ青に染まっていた。
秘密 TARO @taro2791
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