鈍色

ムラサキハルカ

鈍色の空

 雨の日。幼稚園からの帰り道。六月の雨にやられて、工事現場で働いていた父は早く珍しく帰ってこられたらしく、迎えに来てくれた。

 実のところ、亜紀は父が少しだけ怖かった。熊みたいに体が大きくて、普段もあまり喋らず、ムスッとした顔をしていることが多い。父がいることによって起きる、微かに引き締まった空気が、なんとなく苦手だった。

「ぴっちぴちちゃぷちゃぷらんらんらん」

 その空気を打ち破りたくて、特に愉快でもないのに、亜紀ははしゃいでみせた。なんとなくある澱みみたいなものを打ち払いたかったが、別段、自身も明るく振舞うのが得意というわけではなかったため、無理をしている、というのが実情に近い。同じ傘に入りながら、早く帰りたいな、というのが正直なところだった。

 唐突に、父の足が止まる。その視線を追えば、あまり見慣れない薄い赤色の果実を見つけた。

「な~に?」

 指さし尋ねれば、

「あれは鬼灯ほおずきって言ってな」

 ほうじゅき、と呟いた亜紀に、そうそう綺麗だろ、と薄く笑う父。

 きれい、という言葉がいまいちピンと来ない亜紀は、思わず、

「たべられる?」

 より身近な設問を口にした。

「ああ、どうだったかなぁ。たしか、毒があった気がする。食べると痛い痛いだったり、苦しい苦しいだったりするかも」

「そっかぁ。おいしそうなのになぁ」

 食べてみたいな。食欲を刺激する見た目に、ついつい手が伸びてしまいそうになる。程なくして、父に首根っこを捕まれた。

「あーちゃん」

 どことなく真剣な声に、怒られる、と思い、

「たべないよぉ」

 と抗議する。しかし、父はなぜだか苦笑いをしてから、ちょっとだけつきあって、と告げると、数歩後ろに下がった。

「見てごらん」

 なにをだろう? という疑問に父の視線を追えば、あるのは美味しそうな鬼灯。

「ほうじゅき?」

 さっきから見てるのに、なんで、あらためて見てごらんなんて言うんだろう? 亜紀の疑問に、

「あーちゃんはあれを見て、どう思うかな?」

 ぼんやりと尋ねてくる。

「おいしそう」

 思わず出てしまった言葉とともに、口を押える。

「たべないよ」

 どきどきしながら伝えると、

「あーちゃんは素直だね」

 なぜだか、父はいつになく楽しそうだった。

「お父さんはね、綺麗だなって思うんだ」

「きれい? きれいだね」

 その通りだな、と思いながら、相も変わらず、きれい、というものがピンと来ていない。ぼんやりとした疑問に、

「綺麗だから綺麗だって言ったんだよ。それだけだ」

 返ってきた父の物言いは、よりぼんやりとしていた。

 それがどうしたの、と尋ね返したところで、

「綺麗なものを、覚えておくといい」

 父のそんな言葉を、幼かった亜紀はぼんやりと受け止めた。よくわからなかった、というのが正しいかもしれない。

 直後にやってくる浮遊感。数瞬遅れて、だっこされたんだと気付き、わっ、と声をあげると、

「見てごらん」

 そう促される。言う通りにしてみれば、先程と同じ風景がある。雨に塗れた地面と草。土手に映える薄い赤色の果実。ただ視界が少しだけ高くなった分、ほんの少しだけ新鮮さが増した。ただただ、もっとも気を引いたのは、雲に覆われた空が近くなったことだった。元より、亜紀はこの落ち着く色を好ましいと感じていた。

 ありがとう。お礼を口にしようとして、父を見て気付く。穏やかではあったが、どことなく虚ろな、それでいて疲れたような顔をしていた。

「おとうさん、くるしいの?」

 父は、そんなことないよ、と応じたあと、

「あーちゃんといれて嬉しいよ」

 そう付け加える。嘘は言っていない気がしたが、だからといって、苦しくないわけでもないはずだ、と亜紀は結論付けた。

 このままは嫌だ。素朴な想いに、どうすればいい、と頭を捻ったあと、父の首に腕を回す。

「あーちゃん、おとうさんといっしょ」

 できることはこれしかない、と思った。父はピンと来ていないらしく、うんそうだね、と答えた。

「ちがうの」

 口にしたあと、どう伝えればいいのかわからず、こめかみを何度かげんこつで叩き、止めなさい、と父に怒られた。だが、どうしても伝えねばならないのだと、亜紀は思う。

「ずっと、いっしょ!」

 ようやく見つけた言葉に、亜紀は大きく満足する。

 きっとお父さんは、嬉しいままだ、なんて奢りにも近い気持ちがある。しかしながら、

「そうだね」

 父は嬉しそうでこそあったものの、気持ちは晴れ渡らないらしかった。

 亜紀にとっては不本意だったものの、天気と同じで程よく曇りなくらいがちょうどいいのかもしれない、と思い直したあと、より腕に力を込めた。

 鬼灯と降りかかる雨、その上にある鈍色の空。ずっといっしょにいよう、と亜紀はより誓いを強めた。


 

 

 


 

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