素人のエッセーなど誰が読むのか
遠藤伊紀
序文
エッセーとは、goo辞書によると以下の通りである。
1 自由な形式で意見・感想などを述べた散文。随筆。随想。
2 特定の主題について述べる試論。小論文。論説。
ではどの様な人がエッセーを書き、またエッセーを読むのか。
これは簡単である。
著名人がエッセーを書き、その著名人に興味を持つ人がそれを読むのである。
何かの学説や思想が先にあって書かれるのではない。
そういうのは学者の仕事である。
エッセーは、あくまで最初に「興味のある人の考えが知りたい」という需要があり、それに応える形で供給がなされるのだ。
突然であるが、私は無名の中年男性である。
ではこのエッセーは一体誰が読むというのだろう。
名も顔も知らないおっさんの意見や感想に興味があるというマニアックな人などまずおるまい。
したがって、恐らく一切の需要を持たないこのエッセーは誰にも読まれることはないだろうが、無駄は贅沢であるという理屈に則り、私は徒然なるままに贅を書き綴りたいと思う。
・・・
・・・
・・・!
今、私は徒然なるままにと書いた。
聞くところによると、今は昔、ブログ最盛期の時代に於いて、一番多かったブログタイトルは徒然日記であったそうである。
これはとても興味深いことだ。
当時の若者は、みな古文が大好きだったのだろうか?
いや、そうではあるまい。
これは格好つけなのだ。
「退屈しているからこういうことしちゃってるのよ、別に特別なことをしているつもりはなくて、ええ?いえいえ、別にパソコンに詳しいとかじゃないから、嫌だわ~、暇人なだけなのよ」
という照れ隠しと格好つけを同時に表すタイトルが、徒然日記なのである。
これは識字率が高かった中世の文化人が、照れ隠しをしながら教養をひけらかす気持ちと酷似しており、それほどに一昔前はパソコンとインターネットと使って文筆活動を行うということは目新しいことであった。
SNS世代の若者には思いもよらないことであろうが、当時のブロガーは誇りと期待をもってブログを書いていたし、その照れを隠すためには徒然なるままに書いていると嘯くしかなかったのだ。
では私はなぜ先程徒然なるままに書き綴ると書いたのか。
これは単純な話である。本当に暇なのだ。決して格好つけているわけではない。
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