雪待ち月のころ

第80話 騒擾のフロイライン#1

「以上見てきたように、生物は自己の利益、

より厳密に表現するならば、表出型の自己を作出した生体旋律の利益にのみ忠実な存在である。

でありながら、時に献身的・博愛的とすら映る協調が、自然界の広汎において確認されている。


真社会性の等翅目昆虫は、彼女らの腸内に原生動物や細菌類といった微生物を住まわせ、自らは分解できない木質の消化の用に供している。

この共生関係により、昆虫は未利用であった食材からの栄養素の獲得が、

微生物の側は居住環境の獲得と、未到達であった食材へのアプローチが可能になる。


このように相互に利益のある関係においては、自律創出の力は、両者が他方の自己保存比率を高めんとする方向に働く。

昆虫は、幼虫の保育を通じて体内の微生物を次代に継承し、彼ら微生物の繁殖を保証する。

微生物は、他種の、昆虫にとって有害な微生物に対抗する物質を生産し、彼女ら昆虫の免疫向上に資する。

昆虫と微生物、出自の全く異なる生物同士が相互協調し、他方の発展に進んで貢献しているわけだ。」


休み明け、月曜日の5講目。

クリプトメリア教授の生体旋律基礎論は、今日も淀みなくテンポよく進む。

今日は、7割ぐらい理解できるかな。

こっちは聞き流しているだけだから気楽なもんだけど、これを後でテストするぞ、って言われたら大変、

どうしていいかわからないでしょうねぇ。

ルピナスさんが講義についていけなかった、っていうのもわかる気がする。


「然し乍ら、この心地よく心温まる協調は、それ自体に無謬の価値を賦与されたものではない。

同じく昆虫と微生物という組み合わせではあるが、相互利益的でない共生関係では、大きく異なる現象が見られることがある。


鱗翅目昆虫の体内に共生するある種の細菌は、母系、すなわち雌性配偶子を通じてのみ次世代の昆虫に継承される。

従って、雄として発生する表出型に収まることは、細菌にとって、次代に継承される見込みのない、自己保存の袋小路に入り込むことを意味する。


この問題に細菌は、我々の目には搾取的で実に禍々しく映る対処をとる。

詳細は未解明な部分も多いが、細菌は宿主である昆虫の生体旋律の発現を、自己の利益に沿う形へと操作し、

旋律上は雄である個体を、雌の表出型を持って発生させるのだ。

これは宿主である昆虫にとって好ましい性比を歪曲して雌の個体数を増やすことを意味し、

宿主の自己保存比率を犠牲にして細菌のそれを高める、片利的な操作であると言える。


共に宿主たる昆虫の活動に、共生者たる微生物が自己保存を依存する構図でありつつ、

片や相互協調的であり、片や搾取的であるのはどうしたことであろう。

おそらく、後者では宿主の雌性配偶子を通じてのみ、共生者の自己保存が達成されるという事情が関係しているのであろうが、

未だに実証された理論はなく、実に興味深い現象であって、更なる研究が待たれるところだ。


本日の講義は以上とする。

質問がある者は挙手したまえ。」


時刻は17:40。

16:30に始まって90分の講義枠だが、クリプトメリアの授業は今日も終わるのが早い。

それだけに密度の濃い時間から解放されて、学生たちは軽い放心状態にあり、

用語の解釈や、聞き逃したところを確認する声がぽつぽつ上がるほかは、講堂の空気は弛緩している。


と、そこへ。


教授マギステル。」


「どうぞ、フロイライン。」


凛々しく手を挙げたのは、黒縁眼鏡にショートカット、化粧っ気なし、

磨けばそこそこ光るんじゃないかっていう素材でありつつ、本人には全くその気がない、

典型的なマグノリア大の理系女子学生リケジョ


「昆虫と微生物の間に、共生関係のパターンがいくつかあるということを理解しました。

更なる研究が待たれる、とのことですが、その必要性は理解できません。

時間とお金を投入して解明するほどの価値があるとは思えないのですが。」

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