第36話 ファカルティハウス・トリルリウム
マグノリア大学敷地の中央部には、キャンパス内を流れる小川の水が一時的に滞留する、大きな池がある。
その岸辺の木立の中に、最近建てられた”ファカルティハウス・トリルリウム”にて開催されたパーティに、クリプトメリアは
何とも仰々しい名前をつけたものだが、要は会議室と多目的ホールにレストランを併設したようなものだ。
学外からの賓客を招いての会合や、研究会、小規模なものであれば学会もこなせる。
昼食も、安さが取り柄の学生食堂へご案内、というわけにもいかない相手もあるわけで、近からぬ距離を歩いて街に繰り出す必要がないのは有り難い。
会合後に懇親会、となれば、施設のケータリングサービスが飲み物も食べ物もあっという間に用意してくれる。
池に面した一面の大窓の外には、明媚な風光かはともかく、大池を横切るカルガモ親子の姿などが愉しめる。
以前は、学内でこういう集まりをしようとすれば、初代学長の名を冠したような、古めかしく薄暗く埃臭い「***会館」しかなかったわけで、
こういう明るく清潔で近代的な、何より気の利いたサービスを手がける施設が出現するのは実に好ましいことだ。
只残念なのは、本日の集まりの趣旨が、クリプトメリアはまるで面識のない、どこぞの教授の退官記念パーティであるということ。
そういう催しは知己の内にて取り計らうがよかろうと思うところだが、
なんでも理学部長の経歴がある某とのことで、そういう”格”にある人物の引退にあたっては、学内から広く出席を募ることが本学の伝統であった。
これもまた、”ムダ”という名の都市の宿業だ。
泡沫めいた会話を撒き散らす来賓は申し訳程度にしか手をつけようとしない、なかなかどうして美味な食事を胃袋に収めたことで出席の義務は果たしたわけで、
大学関係者と酒を飲むなら学生と、もしくは数少い気の合う同僚と、という主義のクリプトメリアは、適当なところで切り上げて研究室に戻るつもりでいた。
ところが、先刻までの彼と同様、壁際の椅子でひとり、皿に盛った料理を無感動に消化している、黒縁眼鏡にヘリボーンのスーツの男を見つけて気が変わり、
カウンターからビールのグラスをもうひとつ取り上げると、歓談する人々の間をすり抜けていった。
「クリプトメリア先生!
これはどうも、ご無沙汰しております。」
大学附属図書館副館長、でありつつ、どうにも下っ端感の拭えない相手は、膝に載せた皿を隣の椅子に除けて起立し、新入社員が上長に見せるような礼を執る。
クリプトメリアは適当にそれをいなし、彼と並んで腰掛けた。
「その節にはありがたいご厚意を頂き、誠に感謝千万。
ときに拙宅がアマリリス嬢の勤務ぶりはいかがです?
さぞご迷惑をおかけしておりますでしょうな。」
謙譲を装いつつ、忌憚ない実情を聞き出そうと水を向けた言葉だった。
迷惑をかける程度のおおらかな働きぶりならまずは心配ない、という方向性の期待でもあった。
ところが。
「いえいえ、流石はクリプトメリア先生のお身内ですな。
これはお世辞ではなく、有能な方に来ていただいて、非常に助かっています。
上席からの評判もなかなかのものですよ。」
ほう?
「人間ですものね、そりゃ、思い違いや不注意からのミスなどはごまんとしますよ。
しかしアマリリスさんが感心なところは、上席からの指摘を真摯に受け取ってくれて、
同じミスを繰り返さないようにご自分で工夫してくれるところです。
なかなか、そうあってほしいと思っても、あの年代の娘さんには期待できない資質です。」
「・・・本当ですか?(それは本当にウチのアマリリスですか??)」
「本当ですよ。
先生も次に参考業務をご利用の際は、彼女を担当にご指名なさっては如何ですか。
迅速的確な仕事なので、との名指しの依頼が来るほどです。」
それは本当に、アマリリスの職務能力のみをあてにした依頼だったのか??
という疑念はあれど、そして副館長の言葉からお世辞のぶんをある程度差し引いて受け止めたにせよ、
アマリリスが周囲に一目置かれる働きぶりを見せていることは、どうやら事実のようだ。
あのアマリリスが、何かにつけおろそか・ないがしろ・雑、と形容されるアマリリスが。
本人に聞かせたら、あんたにだけは言われたくないわと怒りを買いそうであるが、こと職業上の責務に対しては違った一面を持っているらしい。
それが知れたのは、都市の功罪の功の側の一面であった。
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