第10話 アスカとコハル

 アスカの暗闇の瞼の裏に、遠い昔の景色が映る。


―― おいてっちゃやだよ―――!。


 一人で山に行く積もりだったのに、自転車に乗ろうとした瞬間にコハルが遊びにやって来た。

 無視して車庫から出ようとしたら、コハルは泣き出してしまった。


「ちっ、仕方ねえな」


 片手でコハルを抱え、自転車の荷台に降ろす。


「しっかり掴まってろよ」

「うん!」


 アスカの漕ぐ自転車が加速する。

 町の中を抜けて、田んぼ道を走って、落ち葉の残る山道を駆けて行く。


「あはは! はやいやはい!」

「ちゃんと捕まってろよコハル」

「うん! ぎゅ~!」


 ドジでおっちょこちょいで、学校で一番可愛いコハルの感触がアスカを包む。

 心臓の鼓動が速くなって、頬が赤くなるのを感じて、アスカは思いっ切り息を吸い込んだ。


「スゥ―――――――っ!!」


 飛び出て来た小鹿の上を飛び越えて着地し、軽トラを追い抜いてなおアスカの自転車は加速する。

 暴れ出しそうな感情を、虎の咆哮のように叫び上げる。


「全力100パーセントだっ!!」

「行っけえ――――!!」


 疾風の自転車は風の速さも超えて……。


 ……。


―― 私を壊して。


 ……。


 アスカは姉の仇を追って隣国へ渡り、大都市の摩天楼の中で行われた『宴』を襲撃した。


「打破、我……。Break、me……」


 銃声が途絶える。

 大広間には硝煙の臭いが立ち込め、血の臭いが満ち溢れた。


 電灯は全て砕け、床に落ちた蝋燭の火がちろちろと燃える。

 微かな光が照らすのは深い闇を湛えた大広間の絨毯と、息絶えた権力者と呼ばれる大人達の骸。

 

「……何で、お前がこんな所にいるんだよ」


 銃声が響くと同時、アスカの右手の小太刀が銃弾を斬り捨てる。左手の放った棒手裏剣が虚空を走り、最後の生き残りの眼窩を貫いた。


「Break、me……。打破、我……。Break、me……」


 裸の少女の体は巨大な的に張り付けにされ、ダーツの矢が体中に刺さっていた。

 肌には様々な加虐の痕跡が残り、生気の無い両目は壊れた心を映すだけだった。


「コハル……」


 ……。


 ……。


 アスカはコハルを助け出し日本へと戻った。

 義父の病院で治療を受けたコハルは一命を取り留めたが、壊れた心が元に戻ることはなかった。


 コハルを助けてから二週間が経った。

 アスカが見舞いに行った時、病室にコハルの姿は無かった。


 病院からコハルの姿は消え、アスカは直感を頼りにかつて一緒に訪れた山へ走った。

 

 登山道には乗り捨てられた車があり、冷たい風の吹く山頂の崖には病衣姿のコハルが立っていた。


「……よかった。やっぱりアスカ君は来てくれた」


 闇を背にしてコハルが笑う。

 思わずアスカはコハルの足を見て、幽霊じゃないことにほっとした。


「……助けてくれたのにごめんね」


 アスカが踏み出そうとして、コハルは首を横に振った。


「……お父さんが殺されて、お母さんに裏切られて、みんなが私をぐちゃぐちゃにした。優しかった世界は全部嘘だと思ったけど。アスカ君だけは本当だった。だから私は救われた」


 コハルの足が一歩、後ろに下がる。


「……私はもう、動くのに疲れちゃった」


 コハルが後ろへと跳んで、その身を深い闇へと躍らせる。

 アスカは走り、虚空でコハルを掴み取り、垂直の闇を駆け降りた。


 冷たい風が襲い来る十数秒の中で、アスカは自分のコートを強く握るコハルを感じていた。


 幾つもの岩を蹴って、小石の転がる沢の上に着地する。

 アスカにもコハルにも、傷らしい傷は無かった。


「……本当に、アスカ君はヒーローだったんだ」

「うるせえ。それにどちらかと言えば俺はヴィランだよ」


 最愛の姉の仇を討つために一年を費やした。

 死の紙一重前まで迫った訓練を乗り越えて力を得た。

 屈強な大人でも壊れてしまうような無茶を、アスカの中に燃え盛る憎しみの炎が支え切った。


「……ねえアスカ君、私を壊して」

「……バカ野郎」


 コハルの顎を掴み、その目を睨み付ける。


「ならお前は俺の所有物ものになれ! 折角助けてやった命を壊せとほざくんだ! せめて俺の役に立つぐらいのことはしてみろ!」


 まるで獣の咆哮のようなアスカの言葉を叩き付けられたコハルの変化は劇的だった。


 瞳に光が戻り、幽鬼のように青白かった肌が熱を取り戻す。

 奇跡に邂逅した使徒のように、コハルの死んで腐るばかりだった心から、新しい芽が吹き出したのだ。


「……わかった。私はアスカの道具ものになる」


 それは約束の言葉だった。

 そして腐り死にゆく姿から蘇ったコハルと、復讐を果たして空っぽになったアスカを繋ぐ鎖となった。


 ……。


 ……。


 高校で初めてアスカと出会った者達は、凡庸でやる気がなく、ふらふらと女遊びをする劣等生の姿しか知らない。


 高校で初めてコハル、いやハルと出会った者達は、冷静で落ち着いた雰囲気を持つ美しい優等生の姿しかしらない。


 夜の町でアスカと出会ったケントも。

 ある不正事件でハルと出会ったユキも。

 アスカを心配した義父が、許嫁として用意したララも。


「……ハル、君には幸せになって欲しいんだ。君には資格も力もあるんだから、こんな空っぽの僕に構ってちゃダメなんだよ」


 ケントは不器用過ぎた。

 だから日本ではアスカも待つことにした。


 けどアスカ達はこの世界に来てしまった。 

 そしていつも通りハルは無茶をしている。


 時間が無い。

 だからアスカは探した。


 そして一人だけ、託すに足る男を見付けることができた。


「願わくば、もう一度だけ見せて欲しいんだ」


 あの日、自転車の後ろから抱き締めてくれた君の温かさを。

 一緒に山に登って、山頂で感じた風の楽しさを。

 そして、明るく眩しかったあの笑顔を。

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