第8話

 幼い時分の憧れだった魔術学院は、実際に通った彼にとってどんな場所だったのだろう。

 潜入を開始して、早四日。解決を急ぐアルドリックの心の裏側で、過去の彼に思考を馳せる時間は少しずつ増え始めていた。


 ――もっと、明るい場所だと思ってたな。


 夢にあふれて、きらきらとした場所だと、そう。

 けれど、実際の学院は、事件が起こっているという状況を差し引いても、あまりにもギスギスとした空気で満ちていた。

 優秀な魔術師を育てる気概ゆえと言えば聞こえは良いが、教師陣の多くは積極的に生徒を競わせている。その結果できあがったものが、明確なヒエラルキーだ。

 成績――とりわけ実技――が良い者、教師に気に入られている者が最上位。次いで気の強い者、見た目の良い者。ヒエラルキー上位の人間は、なにをしても許される。

 そうでない人間は、うつむきながら踏ん張ることしか許されない。たとえば、ゾフィアのように。



「レオニー・ランゲと申します。ご指導よろしくお願いいたします!」


 昼休み、構内を回っていたアルドリックは、演習場から聞こえた声に足を止めた。入り口には生徒の人垣ができている。


「これはいったい……」


 入り口付近にいた同じ寮の男子生徒に声をかけると、彼はアルドリックを見て破顔した。


「そっか。アルドリック、編入したばかりだから知らないんだよな。ビルモスさまだよ」

「ビルモスさま?」


 王国の誇る五大魔術師の名前に、思わずにゅっと背伸びをする。前列の隙間から内部を窺ったアルドリックは、たまらず目を輝かせた。

 中央で大きな杖を構える赤毛の生徒は、名乗りのとおりレオニー。彼女と相対する位置に立っているのがビルモスだ。

 ひとつに束ねたくすんだ金色の髪に、臙脂のローブ。背の高い彼の横顔は青年のものだが、実年齢ははるかに上と承知している。

 エリアスの言うところの「人間をやめたやつらの集まり」の証左のひとつ。


「うわぁ、本物だ」


 もれた感嘆に、「本物って」と男子生徒が苦笑をこぼす。


「たまにこうして指導に来てくださるんだよ。激しいから、魔術兵団を目指す生徒以外は縮こまっちゃうんだけど」

「ああ、レオニーさん。優秀だって言っていたものね」


 ――うちの学年は女子が怖いから、気をつけたほうがいいよ。例えば、レオニー・ランゲとかね。クララとイダがいなくなって一番得をしたのは、間違いなく彼女だよ。これで今年度の実技トップはレオニーになった。


 編入二日目にしてレオニーと揉めたアルドリックに、親切に忠告してくれたのは彼である。

 そう、そう、と彼が打った相槌が、とんでもない衝撃音で搔き消えた。

 土埃のような噴煙と、静まり返った空気。衝撃音が響いた方向にぎこちなく首を巡らせば、壁にぶち当たったらしいレオニーが声もなくうずくまっている。


「なんだ、なんだ。先陣を切って出ておいて、この程度とは情けない」


 ほとんど変わらぬ位置から彼女を一瞥し、心底つまらないという調子でビルモスは吐き捨てた。

 生まれてはじめて見た圧倒的な魔術に、冷たい汗が流れる。


 ――お、女の子にもまったく容赦なかったな……。


 戦闘狂、問答無用で叩きのめされる、教育的見地ではなく嗜好の末。頭に浮かんだエリアスの台詞の数々に、背伸びをやめ、半歩ほど後じさりをする。絶対に目立たないほうがいいやつだ。


「目ぼしいやつは、と」


 必死に気配を消そうとするアルドリックの努力むなしく、演習場内を見渡したビルモスは、入り口の人垣に足を進めた。銀灰の瞳が見定めるように動き、なぜかアルドリックで止まる。


「おまえ」


 いや、そんな、まさか。自分がお眼鏡に叶うはずがない。念じて目を伏せたものの、彼は容赦がなかった。


「そこのおまえ。最後列左から二番目。茶色の髪のぼんやりした顔の」

「……はい」


 自分の前の人垣が割れ、周囲からも興味津々とした視線が集まる。観念をして、アルドリックは名乗り出た。


「アルドリック・ベルガーと申します。あの」


 事情があって、実技をすることは叶わないのですが、と。紡ごうとした言い訳が喉の奥で消える。至近距離に迫ったビルモスが腕を取ったからだ。


「エリアスのにおいがする」


 掴んだ腕を見下ろし告げられた台詞に、顔が青くなる。その下になにがあるか、においの意味を悟ったのだ。

 そう言えば、エミールが「天才は鼻も格段に良いらしい」と呆れ半分で笑っていたような。


「あ、あの」

「なんでだ?」

「ビルモスさま。あの、これは……」


 周囲の生徒が耳にしても、問題のない理由。フル回転で頭を働かせていたアルドリックは、背中に触れた手のひらの温度にはっと背後を振り仰いだ。


「ま……」


 飛び出しそうになった呼び名を慌てて呑み込む。呆れたふうにこちらを見やると、エリアスは口火を切った。


「あまりいじめないでやってくれ。俺の弟子なんだ」

「弟子?」


 不可解そうに繰り返しながらも、ビルモスが手を放す。解放された腕を引き寄せ、安堵を覚えたのも束の間。続いた声は、不信にまみれたものだった。


「フレグラントルの連中のようなことを言う。どんな修行をすれば、おまえの気配そっくりの弟子ができあがるんだ?」

「機密だ」


 しれっとした返事に、アルドリックもこくこくと頷く。適当すぎないかと心配になったものの、それ以外に言いようもないのだろう。

 胃が痛くなる沈黙の最後、白けた顔だったビルモスが、好戦的な笑みを浮かべた。


「そういうことにしてもいいが。その代わり、エリアス。今から一戦やらせろよ」

「またにしてくれ。見てのとおり、杖もない」


 五大魔術師の要請を、よくも、まぁ、簡単に切って捨てるものだな。恐れおののくアルドリックを「行くぞ」とエリアスが促した。

 迷っていると、興を削がれた様子でビルモスが肩をすくめる。


「次は逃げるなよ」


 その一言で、彼は志願者探しを再開したようだった。騒動に隠れた、悪意を含んださざ波のような笑い声。

 教務棟に向かう背中に押し寄せたそれに、アルドリックは静かに拳を握りしめた。

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