第6話 「倚音(いおん)」
——ない。足りない。
愛しい風景に、あなたがいた。あなたがいる風景が、愛おしかった。
けれど今、まぶたの裏に映るのはあなたが欠けた風景だけだ。あなたがいないこの世界で、あなたを思い描くことすら叶わない。
怖くて、悲しくて、痛くて、どんなに願ってもそれが拭えない。
——だから僕は、歌を歌った。
*
——ピピピピ、ピピピピ、ピピピピ。
スマホのアラーム音で、俺は目を覚ました。
閉められた厚いカーテンの隙間から、わずかに光が漏れ出ている。
こめかみのあたりにわずかな水滴がつたい、俺は目を細めた。
「……昨日のせいだな」
俺は再び目を閉じて、静かに歌を奏で始めた。
何度も歌ったその歌を口ずさみながら、頭の中では彼女の明るい歌が流れていた。
*
——キーンコーンカーンコーン、キーンコーンカーンコーン。
「いやぁ〜、授業キツかった〜! さ、飯だ飯だ! ……あれ、秀叶どっか行くの?」
「うん、ちょっと別のクラスに用があってね」
お昼休みの開始を告げるチャイムと共に、俺はいつもお昼を共にする男友達からの声をよそに二つ隣のクラスへ向かって席を立った。
ふと、窓際の友達と会話をする弦華の姿が目に入り、なんだか不思議な気分になった。
『明日の放課後、あの空き教室で!』
昨晩、弦華から送られてきたメッセージだ。MVについての話し合いがしたいのだという。二十四時間前まで、俺と一ノ瀬弦華はただのクラスメイト、知り合い程度の関係だった。それが今では、秘密を共有する仲間のような関係にまで変化している。
「我ながら信じられん……」
あ、そういえばさっき
弁解するように頭の中で呟きながら、俺は目当ての教室にたどり着いた。
「……すみません、
「え? ああ、
首尾よくドアの近くにいた女子生徒に声をかけることに成功し、そのまま廊下で待っていると、教室から一人の女の子が姿を現した。
身長は絵梨歌よりは少し高い一六〇センチほど。弦華と同じくらいだろうか。長く伸びた髪は金色に染められていて、それが左側で高めのサイドテール状にまとめられている。前髪の下から覗く視線はどこか鋭く、ブレザーを脱いでワイシャツの袖をまくったその装いからも、彼女の気の強さがうかがえる。
「……よ、凛音」
「野中……、一体何の用?」
彼女の名前は
ともあれ、俺がそんな彼女——門咲凛音を尋ねた理由がそんなことではない。
「ちょっと聞きたいことがあってさ。凛音、MV制作とか詳しい?」
「なんでそれを私に聞くの……」
「いや、身内にアーティストがいる人間なら、その手の情報に敏感になるんじゃないかなって思って」
「ウザ。敏感どころかストレスだっての……」
凛音には双子の姉がいる。名前は
凛音は、姉に対して複雑な感情を抱いている。俺はいたことがないからわからないが、兄弟や姉妹がいて、そこと自分を絡めて見られるのには大変な部分もあるのだろう。実際、凛音は「自由奔放に走り回ってそれで多くの人から愛されている姉」とは違う存在であろうとしている。それは憧れなのか嫌悪なのか、恐れなのかプライドなのか、きっと俺にはわかり得ないことだ。
「別にお姉さんがどうしていたかを聞いてるんじゃない、凛音の意見が欲しいんだ。凛音が思う、アドバイスや役に立つ情報、それが知りたい。何かないかな……」
「MVって……。何? 野中、MV作るわけ?」
「まあ、そうだな。知り合いのMV制作を手伝うことになってさ」
「ふーん……、知り合いね。まあいいわ。どんな規模でやるのか知らないけど、外注するわけじゃないんだよね?」
「そうだな。自分たちで撮影する予定。何を撮るのかはまだ決まってないけど、俺がカメラマンとしてその知り合いの子を撮るんだと思う」
「……なら、スピーカーを持っていった方がいいよ。人の映像を撮る時、音源が聞こえる状態の方がイメージがしやすいから。実際、未来がMVを自作してた頃はそうやってた」
「なるほど」
「あと、人避け用のスタッフもいた方がいい。わざわざスペースを開けてもらうようなことまではしなくても、人が来るタイミングを見計らって合図を出すような人も、場所によっては必要だから」
「別のスタッフ、か……」
「実際、私も未来がMV自作してた時はよくそうやって手伝ってた」
「…………」
「何?」
俺は少し笑いながら、目の前にいる少女を見た。
「やっぱり凛音って、ツンデレっぽいとこあるよな」
「——んなっ‼︎」
その発言で、凛音の顔に恥ずかしさの感情が浮かび上がる
「バカじゃないの⁈ あ〜もう、これで話終わり! とっとと帰って! お昼の時間なくなる!」
そう言って、彼女は強引に話を切り上げ教室の方へと戻っていった。
「……貴重な情報サンキュ」
スタスタと去っていくその背中に、俺は声をかけた。
姉の手伝いをしていた時のことを得意げに語る凛音の声を思い出して、「やっぱツンデレだよな」と改めて思ったのは内緒だ。
*
——放課後。空き教室で会う約束をしたはずの弦華は、俺の部屋にいた。
あまり本の入っていない本棚の横に立てかけられたギター、その側には寝るためのベッド、その反対側の壁にはデスクトップパソコンが置かれた机があり、その脇にマイクスタンドやマイクなどの機材が適当に積まれている。見慣れた風景、俺の部屋。
その、今となっては俺以外誰も入ることのないこの部屋に、女の子の甘くて優しい香りがただよっている。
……なんかとんでもないことになってないか?
部屋をキョロキョロと見回す弦華を見ながら、俺は自分の置かれている状況に心がついてきていないことを自覚した。
——いいや! これは互いの合意があっての状況だ。いつまでもナヨナヨしてちゃいけない。しっかり彼女をフォローしなければ……!
「……あ、それ下ろしていいよ、ギター。荷物とかも、適当な場所に置いていいから」
「うん! ありがとう」
俺が促すと、弦華は背負っていたギターを下ろし、手に持っていた荷物を床に置いた。それから彼女は、どこかぎこちない手つきでブレザーを脱ぎ、それを荷物の上に重ねた。
「俺、一回出た方がいい?」
「なんで?」
「ほら、色々準備とか、俺がいるとしづらいこともあるかな、って」
「ああ……。ううん、大丈夫だよ!」
そう言うと弦華は荷物の整理をやめ、振り返ってこちらを向いた。
「……緊張してる?」
「……うん、少し。こういうの、初めてだから」
弦華は少し恥ずかしそうに、顔を赤くしてそう言った。
「嫌だったら、やっぱりやめても——」
「——ううん、大丈夫。覚悟はできてる。私、秀叶だったら怖くないよ」
そう言ってまっすぐこちらを見つめる彼女の覚悟に、俺は思わずのどをならす。
「……ありがとう。じゃあ、こっちに来て……」
「……うん」
俺が隣のスペースをポンポンと叩くと、彼女は目を伏せながらゆっくり近づいてきた。
——ポーンポーン、ポーンポーン、ポーンポーン。
アコースティックギターの音が、部屋に響く。
弦華は歩きながら、手元でギターのチューニングを行う。
「……うん、おっけい! いつでもいける」
弦華が指定の位置に着くと、俺は彼女に合わせてマイクの位置を調整した。
——俺たちは今、MVの心臓となる演奏の録音のため、この部屋に集まっていた。
放課後、約束通り例の空き教室で打ち合わせをしていた時、弦華の演奏音源がスマホで録音したものだということが発覚した。とにかく行動することが大事だ、という考えがあっての判断だったらしいが、それはMVに使うにはあまりにも粗末な音源だった。
問題は録音の環境。指向性の広いスマホのマイクでは、演奏以外の細かいノイズ、周囲の音を拾いすぎていた。凛音のアドバイスにあった通り、ロケの際にスピーカーから音源を流すことにした俺たちは、映像よりも先に音源を完成させようということになり、たまたま演奏を録音できる設備があったここ——俺の部屋にやってきたのだ。
ちなみに弦華はこういったコンデンサーマイクでの録音は初めてらしい。
「よし、準備ができたら、何か軽く歌ってみてくれ。マイクの感度を調整する。まだ録音はしないからな」
「おっけい、まかせて!」
俺はパソコンの前に座り、各マイクのレベルを調整する。
「……ねえ秀叶」
「ん?」
「あとで秀叶も歌ってよ! この前みたいに!」
「えっ……‼︎」
何の気なしに放たれたその言葉に、俺は表情をこわばらせる。
「いや、俺は……。……歌わないよ」
弦華は無邪気な表情を残したまま首を傾げている。彼女にとっては軽口の一つのつもりだったのだろう。彼女と俺の作るコントラストが、ひどく
「……弦華がうまいの知ってるんだからな? わざわざ引き立て役なんか用意しなくても、自信もって歌えばいいんだよ! ここで歌うのなんか自殺行為だ!」
俺がそう言うと、弦華はキョトンとした顔を浮かべてから、プッと笑った。
「逃げられたか……。でも、りょ〜かい‼︎ 今は自分の歌に集中します!」
そう言って、弦華はすぐに先ほどまでの真剣な横顔へ戻っていった。
俺はなぜか生きた心地がしなくて、身の安全を確かめるように三回ほど深呼吸をした。
「——秀叶〜、おっけいだよ! 私はもういつでもいける!」
「……了解。じゃあ、始めようか」
——『
弦華の合図を受けて、俺は録音開始ボタンをクリックする。
俺がサインを送ると、弦華は小さく息を吐いて、それからゆっくりと息を吸った。
それでこの場は彼女の世界になる。弦華は静かに、最初の和音を奏で始めた。
一人で歌っていた、俺の歌だけが響いていたこの部屋に、ふわりと甘い春風が吹いた。
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