第4話 「ドミナントセブン 3」

 曲のイントロが好きだ。

 まだ形になっていないイメージが無限に広がって、どこまでも期待に胸が膨らむから。

 始まりのようでいて、実はその先の全てを、すでにその身に宿しているから。


     *


 ——放課後。

 お昼休みを終え、午後の二時間分の授業を無事に一ノ瀬さんと会話することなく乗り切った俺は、ついにその時を迎えた。

 一ノ瀬さんが待ち合わせ場所に指定したのは、咲陽さくよう高校の最寄駅から電車で二駅のところにある比較的発展した大きな駅——町田まちだ駅だった。二つの路線が通るこの駅の周りには多くの商業ビルが立ち並んでおり、駅の周辺も飲食店やカラオケ、ゲームセンターなどがのきを連ねているとても賑やかな街である。時々本当に勘違いしている人もいるのだが、一応ここは東京都に該当する地域、発展の理由はそこにもあるのかもしれない(ここで一応とつけてしまうのが町田なのだ)。

 しかし、一ノ瀬さんに指定された場所はそんな街中の喧騒から一歩距離を置いた、橋の上だった。線路沿いを流れる浅くコンクリで舗装された川の上に、道をつなぐ橋がかかっている。見回すと辺りは建物の壁と駐輪場で、通行人の数も少ない。この駅は咲陽高校の生徒が大勢利用するため、他の生徒に見つかるのを避けようとしたのだと思う。

 チラリとスマホで時間を確認すると、十六時前。俺と一ノ瀬さんはクラスが同じなのだから、一見すると到着時間に差は生まれないように思うだろう。しかし、実際にはそうはならない。授業終了と共に黙って教室を出ても問題ない俺と違い、一ノ瀬さんは友達との会話をないがしろにできない。彼女ほどの人気者が、授業後何も言わずに教室を出ようとすれば、必ず誰かが声をかける。もしもそれすら振り切ろうものなら、確実に不審がられるだろう。仮に俺が全く関係のない第三者だったなら、多少違和感を覚えると思う。

 ともかく、俺は彼女より先に待ち合わせ場所に着き、彼女を待っていた。

 本心としては、ありがたい。女の子を待たせるなんてことをしたくないというカッコつけもあるが、正直心を整える時間は欲しかった。

 高まる未知なる期待を全身で感じながら、俺はなんてことない顔をして橋の柵にもたれかかった。


「——野中くん!」


 その直後、思っていたのとは逆の方向から、カーテンを踊らせる春風のような声が聞こえてきた。

 振り返るとそこには、肩ベルトを両手で握り、少し肩を上下させながらはにかむように笑う、栗色の髪をした女の子が立っていた。

「ごめん! 待った、よね……?」

「あぁ、いや別に……」

 思わぬ事態に気を取られ、俺は煮え切らない返事をしてしまう。

「じゃあ、行こっか!」

 そう言って、彼女は俺のブレザーの裾を掴み、歩き始めた。

「え、ちょっ! 待って一ノ瀬さん、行くってどこへ⁈ っていうか、その背中に背負ってるのって……」

 彼女の背中に背負われていたのは、リュックサックよりもずっと大きな角張った物体。どこか「ひょうたん」のようにも見える形をした布地のそれは、誰もが知るあの有名な楽器を運ぶカバンと瓜二つで——


「そ、ギターだよ! わたし実は、音楽活動みたいなことしてるんだよね!」


 一ノ瀬さんは笑うようにそう言って、そのまま走り出した。

 俺は、彼女に手を引かれるようにして、大きく一歩を踏み出した。


     *


「ここって……」

 一ノ瀬さんに連れられるままにたどり着いた場所は、いわゆるレンタルスタジオという場所だった。

 手頃なサイズの防音室を数十分から数時間単位で借りることができ、必要に応じてアンプやスピーカー、マイクなどの機材を借りることもできる場所で、バンド活動をする人間などが利用することが多い。もちろんバンド以外にも、個人での楽器練習や演奏録音など様々な目的で利用される施設である。

 状況が飲み込めない俺をよそに、一ノ瀬さんは淡々と受付の手続きを行っている。

 やがて店の人から部屋の鍵が手渡され、俺たちはちょうど人が二人向き合って演奏できるほどのスペースがある、かといってダンスができるほどの広さはないこじんまりとした部屋に入った。

「ごめんね! 説明もなしにいきなりこんなところに連れてきちゃって」

 一ノ瀬さんは背負っていたギグバックをおろしながら、どこか愉快そうにそう言った。

「いやまあ、それはこれから説明してくれれば構わないけど……」

「えへへ、よかった」

「……それで、ここにきた理由は?」

 彼女は少しためらいがちに顔を伏せ、呼吸を整え始めた。その表情には、いつも笑顔の一ノ瀬さんには珍しく、不安が滲んでいるように見えた。

「ここに来たのはね……、ちょっと、野中くんにお願いしたいことがあったからなんだ」

 意を決した彼女の瞳が俺にまっすぐに向けられる。

 ——ああ、こんなに綺麗な瞳をしていたんだな。

 せめて、その瞳が見つめる先が優しい世界であってほしいと祈りながら、俺はまっすぐ彼女を見つめ返す。

「お願い?」

「そう、お願い……」

 そうして彼女はもう一度息を吸い、


「野中くんに、私の初めてのミュージックビデオ作成を手伝ってほしいの……‼︎」


 はっきりとそう言った。

 予想していなかった言葉に、俺は返事につまる。

 そんな俺の「何を言っているのか理解できない」という顔を見た一ノ瀬さんが、畳み掛けるように次の言葉を紡いだ。


「——私、実はシンガーソングライターを目指しているんだ!」


 その言葉で、俺は漠然とした不安に襲われた。

「っつ、なんで……」

「え、なんで、かぁ。……そうだね、きっかけとか理由は色々あったけど、今は『歌を届けたい人がいるから』、かな」

「いやそうじゃなくて……、なんで俺に?」

 一ノ瀬さんがシンガーソングライターを目指しているなんて話、聞いたこともない。ましてや、ギターをやっているなんて話も。もちろん、それは単に俺がまともに会話をしたことがないからかもしれないが、それでも彼女を含むグループの会話は、教室にいれば嫌でも聞こえてくる。これまで、こんな話は聞いたことがなかった。

 ということは、これは彼女にとってとても大切なこと、大切な秘密だ。それは、今まで話したこともないようなクラスメイトに打ち明けるようなものではないはず。


 ——彼女はなぜ、俺を自分の秘密を打ち明ける相手に選んだのか。


 頭の中に流れた疑問を、ほぼそのまま言葉にして一ノ瀬さんに投げかけると、彼女は笑顔で「そんな野中くんだからだよ」と言った。

「私の友達はみんな仲もいいし、いい人達だけど、みんな——一ノ瀬弦華はこういうものだ、って思ってる。普段の私っていうイメージがもう固められているの。そんな人たちに、『実はずっと秘密にしていたことがある』だとか『変わりたいと思っている』って伝えるのって、私にはとっても怖いことなんだ……。だから、野中くんがいいんだよ」

 彼女はふと表情をやわらげ、懐かしむように続ける。

「昨日、あの教室で初めて歌を聴いた時、『この人だ‼︎』って思った。ひとりぼっちで、誰にも本当の気持ちを打ち明けられないでいる私が、初めて心を打ち明けようと思える人だ、って! ……だって、あなたの歌は、どこまでも私を包み込んでくれたから……」

 一ノ瀬さんはそこで言葉を切り、後ろを振り返ると、背負ってきたヤマハのアコースティックギターを手にとった。


 俺はまだ戸惑っていた。——というより、半信半疑だった。

 彼女の話を簡単に解釈するなら、昨日俺の歌を聴いて、それで秘密を打ち明けることを選んだというわけだ。本当に、そんな些細ささいなことで友達にすら打ち明けられない秘密を打ち明けようと決意するだろうか?

 いや、これは俺の嘘だ。一ノ瀬さんが言っていることは、感じている不安は、俺には充分理解できる。俺が本当に疑っているのは——

 ——本当は、気づいているんじゃないか? ということだ。

 俺は音楽室で彼女のスマホ画面を見ている。だからこそ抱く不安。彼女は気づき得る、俺の正体に。

 だが実は、もっと大きな疑念、いや不安がある。

 彼女は俺に、ミュージックビデオの作成を手伝ってほしいと言った。シンガーソングライターを目指している、とも。

 彼女の歌を、俺はまともに聴いたことがない。この申し出を受け入れた後で、もしも彼女の歌が俺に響かなかったら? もしも彼女の歌に対する態度が粗雑そざつなものだったら? 俺はその時、薄い笑みを浮かべて何か小さな、けれど自分を大きく傷つける嘘をつかなくてはいけないのか?

 わかっている、これは彼女に抱く感情としては失礼にあたると。けれどそれでも俺は、そのことが怖くて怖くてたまらなかった。


 ——断ろう。

 俺は頭のどこかで静かにそう思って、

「悪いんだけど、俺は——」


 ——ポーンポーン、ポーンポーン、ポーンポーン


 目の前から聞こえてき音に、言葉を遮られた。

 見ると、目の前では一ノ瀬さんがギターのチューニングを行っている。

「……色々話したけどさ、よかったら聴いてよ、私の曲」

 一ノ瀬さんは笑いながらそう言って、ギターを鳴らし始めた。

 その手が震えていることに、俺はようやく気づいた。


 ——ああ、そうか。この子も不安なんだ。

 だけど、それでも彼女は——


「私の気持ちも、想いも感情も、迷いも不安も喜びも……、そういう、いくつ言葉をつむいでも伝えきれない全てを、音楽なら伝えられるって……、私はそう信じてるから」

 そう言って、彼女は最初の和音を奏でた。そうして彼女は歌い始めた。

 彼女の歌はとてもまっすぐで、前向きで、伝えたいことがあるんだ! って感情が揺らめいていて、

 ——歌が必要だ、って叫んでた。


 ——あぁ、そうか。俺と彼女はどこか……。

 彼女も、きっと……。


 浮かんでは消える言葉になる前の言葉を感じながら——

 俺はただ、まっすぐに、彼女の声に心を委ねていた。


 ——これが始まり。

 俺はここから、紡いでいく。

 まだ何も始まっていないようで、すべてが起こっていたこの瞬間。

 君を想うなら、この瞬間から奏でたい。

 そんなイントロから始まるこの歌が、

 俺に刻むこの歌が、

 君の歌にもなったらいい——

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