Ep Act.
記憶の扉
とても幸せな一日だった。
パジャマに着替えてダブルベッドへダイブしたガルガは、パクトを開いて今日撮った写真を眺めて一日を振り返る。
ワイバーンの事件から一週間。保安局への報告書などの諸々の残務処理が終わってようやくミラージュから言い渡された非番の日。約束通り、マホロは六番通りにできたパティスリーへ連れて行ってくれた。
若い女子ばかりの行列に男二人で並ぶのは少し気恥ずかしかったけれど、テーブルに運ばれてきた大きなホールケーキを前にすれば、些細な羞恥など全て吹き飛んだ。
代替食品ではない本物のイチゴと生クリームがふんだんに使われた夢のような一品。あまりに興奮しすぎて、らしくなく写真を撮りまくってしまった。艶出しのコーティングをされたイチゴはまるで宝石のよう。当然値段も宝石並み……とまではいかないが、二週間分の食費が溶けるくらいのお金を貰ったばかりのボーナスから奮発してくれたのは、素直に嬉しい。愛されていると感じる。
滅多に味わうことのできない幸せな甘さを思い出しながら眺める写真には、ケーキと一緒に映るマホロが何枚も収められている。甘い生クリームに負けないくらい甘ったるく笑う視線の先にいるのは、もちろんカメラを構えるガルガで。
マホロも同じように幸せを感じてくれていたのだろうか――そう考えたら、毛繕いを終えたふわふわな尻尾がふるりと揺れた。一人では広すぎるマットレスの空いたスペースを眺めて「そうだといいな」と、祈るように呟く。
本当に本当に、幸せな一日だった。
特別な日のためのちょっと高いシャンプーとトリートメントをたっぷり使い、ブラッシングも普段よりも時間をかけて丁寧にしてくれて。
ドライヤーの熱と、頭を撫でる指の心地良さを思い出す。意外だが、手だけはマホロの方がガルガより大きくて、指も太い。
あの手に労わられると、途端に蕩けてしまいそうになる。大きな安心感を与えてくれる、唯一無二の手。世話が焼ける上に危なっかしいし振り回されっぱなしで本当に腹立たしい時もあるが、ガルガにとっては最高の主人であり、替えの利かないたった一人の家族だ。
だから早く、この冷えた布団を温めてほしい。
「……さむ」
一人きりの広すぎるベッドの上で身震いして、毛布を引っぱり寄せる。
どれだけの幸せを与えられようと、愛情を注がれようと。マホロを
❖
マホロの脳内犯罪者団地には、一か所だけ実在する部屋がある。
2DKの古い団地によくある、取っ手のついた一枚扉。二段に仕切られた昔ながらの押し入れをリメイクした、いまいち使い勝手の悪い埋め込み収納だ。
照明が消えた暗いリビングダイニングに立ち尽くしたマホロは、ガルガが先に寝ている寝室に背を向け、その使い勝手の悪い収納扉をそっと開いた。
無駄に奥行があって使いづらい棚付き収納を異様なほど埋め尽くしていたのは、とある武装組織に関する調査記録。構成員の画質の悪い顔写真や捜査記録のコピーが並ぶ片隅にひっそりと置かれた遺影に、つい先ほどまでガルガを愛で慈しんでいた指先が触れる。
「やっとオフィシャルシティガードになれたよ、父さん」
誇らしい報告であるはずなのに、マホロの口調は硬く冷たい。なぜなら彼をここに導いたのは父への哀悼ではく、父を奪った者たちへの尽きない憎しみだけだから。
――例のワイバーンの薬に関してですが、捜査線上に『
保安局に報告書を提出しに行った際、アメリアから聞いた話だ。
麻酔薬が切れて意識が戻った男から聞き出した薬の受け渡し場所に保安局の捜査班が突入した際、捜査に勘づいた犯人はすでに拠点にしていたアパートを放棄していた。通信機器や薬に関する資料は一切残されておらず、捜査は行き詰ったかに思えた。
だが犯人にとって、この部屋を突き止められることは想定外だったのだろう。手書きのメモを一枚取り残してしまったのだから。
メモに書かれていたのは『トワイライター』――
十年前にとある凶悪事件を首謀した武装組織であり、保安局が今もなおその仔細を掴めないでいる底知れぬ巨悪。
だから少年はシティガードになった。自らの手で、仇敵を捕えるために。
「今度こそ奴らを見つけ出して――……皆殺しにしなくちゃ」
仄暗い復讐心を扉の奥に閉じ込めて、ガルガの待つ寝室へ向かった。
耳まですっぽり
群れに捨てられたのか、はぐれたのか、何者かに連れ去られたのか。真相は分からないが、生まれてすぐに孤独を知ったオオカミの内側は、驚くほど繊細だ。それにガルガは敏い。あの扉が開かれたことも気づいているだろう。だから悲しくなって、こんな風に自分を抱きしめて眠っているのだ。
「ガルガは何も心配しなくていいんだよ」
復讐などという虚しい戦いのために、この美しいオオカミの牙を汚すつもりはない。待ち望んだその時が来たら、血飛沫を浴びるのは自分だけでいい。
艶のある髪を撫でて愛情深く囁いた声は、却ってガルガを残酷なまでに突き放した。
ちょうど一人分空いたスペースに寄せられた一回り小さな背中を、薄っすら開いたシルバーアイズが切なく見つめる。「復讐なんてやめちまえ」と言えたらいいのに。でも、ガルがは言えなかった。マホロが受けた仕打ちを思うと、どうしても彼を止められなかった。
――博士とマホロなら、二人でツキミソウの花畑に行ったよ。
研究所を兼ねた自宅に訪ねて来た見知らぬ男に居場所を聞かれ、幼かったガルガは素直に答えた。
本当はガルガも二人と一緒に見ごろのツキミソウを摘みに郊外自然エリアへ行く予定だったのだが、前日にくだらないことでマホロと言い争いになり、意固地になって家に残ったのだ。
二人が帰って来たら、ちゃんとマホロに謝ろうと思っていた。心配をかけてしまった博士にも。お小遣いを切り崩してマホロが好きなお菓子を用意して、片付けが得意じゃない博士のために家の中を掃除して。ガルガはとても心細くなりながら、一人で帰りを待ち続けた。なのに。
その日、二人はとうとう家に帰って来なかった。
警戒心のない馬鹿なオオカミから情報を得た
帰って来ない二人の代わりに現れたのは、保安局の捜査官。拉致現場の花畑に残されていたというツキミソウのブーケを受け取った。踏み潰されてくしゃくしゃになった手作りのそれを見て泣きじゃくった時のことを、ガルガは今でも夢に見る。
『ひどいこといって、ごめんね』
拙い字のメッセージカードが添えられた、仲直りのための花束。
もしマホロが帰って来てくれたら。その時はもう二度と、何があろうと絶対に、そばを離れない。
あの時の誓いをずっと胸に秘め、ガルガはこの世で最も大切な存在を腕に抱いて、今日も眠る。
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