凪の海底

霧谷

✳✳✳

──いったい誰の姿を追い求めていたのだろうか。


誰かに会いたい、誰かに会いたい、と。俺はそればかりに思いを巡らせながらすっかり日の落ちた暗い道を歩いていた。冬の灯りが街のあちらこちらに咲くなか行き交う人々は身を寄せ合い、ときに急ぎ足で、または浮かぬ顔色で家路を辿る。絡めた指先も、急く爪先も、一点を見つめる眼も。全ては誰かのもとへ帰るためのもの。


「……」


俺は道行く人々の感情のさざなみと、網膜を焼く灯火に胸を灼かれた気がした。自分には会いたい人が居ない。何をしていても充足感を感じられない。心の底から誰かを、何かを追い求めたことがないのだ。


『なにを若人の戯言を宣うか』と心のうちに住む先人が声を荒げた気がしたが、仕方がない。今まで何年を経ても変わらなかった性根だ、今後幾年を経ても変わりはしないだろう。変わったのは他人よりもぐんと伸びた背の丈ばかり。……今更性根が変わったところでということもある。なにせ若人の専売特許である戯言を口にするには、いささか年齢が行き過ぎた。


「……帰るか」


俺は短く刈り上げた襟足を掻いて賑わう街から踵を返す。負け惜しみがわりの舌打ちは誰に届くこともなく、虚しく冷えた地面に落ちていった。今日は帰ったらすぐに寝る。無為に考えを巡らせたところで物悲しくなるだけだ。


──と、そのとき。道行く人々の中から視線を感じた気がした。刺すような、痛みを感じるほどに熱を帯びたそれにぐるりと辺りを見渡す。だがしかし視線の主は見当たらない。誰かから恨みを買うようなことはした覚えはないぞ、と、うそ寒い心地に二の腕を擦った。


「なんだよ、チクショウ……!」


感傷に浸っていたかと思えば、これだ。近頃この道を歩いていると必ず今の視線を感じる。視線の主はおそらくいつも同じ。その視線の主は声を掛けるでもなく、肩を叩くでもなく、道を外れるまで俺をじっと見つめている。気味が悪いなら道を変えろという話になるのだが、このルートが自宅に戻る最短の道なのだ。


「クソ」


視線から逃れるべく早足でその場を後にするも、その眼が逸れる気配はない。撒こうと脇道に入るにつれ灯りの数も、行き交う人もだんだんと減っていく。だが今日は眼が逸れる気配はない。──悲しき歳の性かな、徐々に息が上がってくるも視線は変わらず俺の背中に突き刺さり続ける。灼けつくようなそれは、ちりちりと、じりじりと背を苛み続ける。


やがて視線は背中に、うなじに迫り、吐息の音すら聞こえそうに──……吐息の音?


待て、待て。


すぐ後ろに、いる。


「っ……!!」


俺は灯りの点っていない寂れた店の前で勢い良く振り返った。ここのところ自分を悩ませていた視線の主をこの眼で確かめて、叶うことならどんなつもりであんなことをしていたのだと詰問するつもりで。


「あ、驚かせちゃいましたか。すみません」


……視線の主、もとい追い掛けてきていた人影は高校生くらいの少年だった。細い月の明かりを受けて艶めく瞳は黒く、少し癖のある柔らかそうな髪の色も暗い。降参の意味を含ませて掲げられたであろう両手は同い年の少年よりも少しばかり華奢。どこにでも居る平々凡々とした子供だった。


灼けつくような視線は、霧散している。


「アンタか、ここ最近俺を見てたのは」

「はい。気付いてたんですね」

「あれだけ熱烈に見つめられてりゃだいたいの奴は気付く。で、このくたびれたオッサンに何の用だ」


──くたびれたオッサン。先ほどは自己について掘り下げる時間などを設けていたというのに、現実はこれだ。自分で口にしながら次第に悲しくなってきた。


「……あの」


少年は俺の葛藤など意に介することもなく、掲げた両手を胸元で握り込んで強く顔を歪めた。胸のうちに溜め込んだ言葉を言うべきか言わざるべきか迷っている気配を感じ取る。俺は少年の真摯な様子に茶化すことを止めると、続く言葉を静かに待った。


ややあって、絞り出された声に目が点になる羽目になるとも知らず。




「お兄さん、絵画のモデルに興味はありませんか」


「──……は?」


「僕は部活には入ったりしていないんですけど、絵を描くことがすごく好きなんです。学校の帰りにデッサンの題材を探してたりするんですけど、それで……」


晴天の霹靂。俺は慌てて少年に問い掛けた。



「念のために聞くが、からかってるワケじゃあ──」


「ないです」


少年は抱えていた学生鞄からクロッキー帳を取り出すと、今まで描いた人物を一枚ずつ俺に見せてきた。同級生と思しき少年少女の活気溢れる笑顔や描かれる緊張に強ばる表情は青春の日を確かに切り取っており、ページを捲った先に描かれた子連れの女性は抱き上げた我が子を愛おしむような眼をしている。さらに一枚。犬を散歩させている老婦人は、孫同然の命と共に歩む幸せを感じさせるまなじりをしていた。──どれも、だれも、かれも。みんな幸せそうだ。


ならば、尚のこと。


「──なんで今回は俺にしたんだよ」


この幸せなページの数々に俺を並べることはない。




だが、少年の答えは意外なものだった。




「お兄さんは他の誰とも違う目をしてたんです。上手く言えないんですけど、なにか、こう……この例えをするのも失礼だと承知で言わせてもらえるなら、




──暗くもなく、黒くもなく、空っぽのような」


「──!!」


俺は世辞にも目つきがよろしいと言えない眼を見開いた。こんな若者に見抜かれていた。否、こんな若者に何が分かると言うのか。きっと日々に倦んで疲れていた俺の眼が「らしく」見えたに違いない。




少年は、俺の驚いた表情を見て仄かに笑う。



「僕、絵を描く人間の端くれなので人の表情を見るのは好きなんです。……モデルになってもらった人たちには心を満たす何かが必ずあって、目に生気が満ち溢れてたんですけど……お兄さんのような目は初めて見ました。



何かに心躍らせるわけでもなく、かといってそれを理由に誰かを疎む様子を見せるわけでもなく。街を見つめる目がただ空っぽなんです。




最初に見た時は、凪いだ海のようだと思いました。


──だから、この人から別の表情を引き出して描き出すことが出来たら絵描きとしてどんなに幸せだろうと思って」




少年はそこまで一息に告げると、深々と頭を下げる。


「……っ!!」




──そうしてゆっくりと上げられた顔、黒く澄んだ眼の奥に。隠しきれない熱量の炎が燃えていた。揺らぐこともなく、揺れることもなく、ただ煌々と燃えていた。……あの、視線だ。




耳が、頬が、まなじりが、確かな熱に炙られていく。




この少年の頼みを請ければ、もしかしたら。




「──……まずは名前を教えろよ、少年」






『探していた自分』に会えるのかもしれない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

凪の海底 霧谷 @168-nHHT

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ