B地区解放戦線

宗真匠

プロローグ

 ピリピリと張り付くような重い空気。呼気で喉が詰まりそうな緊張感。


 この指に、この一瞬に、俺たちの今後の人生がかかっている。


 手の震えが止まらない。それは多分、俺だけじゃない。


 テーブルを取り囲み、ただ一点を見つめる夏木。神への祈りを捧げる秋山。神妙な顔つきで思い詰める冬野。


 全員がこの選択に命を懸けている。


「皆、覚悟はいいか?」


 冬野の問に俺たちは静かに頷いた。


「せーの!」


 その掛け声に合わせ、俺たちは決死の覚悟で手を伸ばした。




「いや春川、それはねえわ」

「は? 男なら巨乳一択だろ。夏木こそ、そのロリコン治したらどうだ?」

「ロリコンじゃねえ! 華奢で小柄な歳上が良いんだろうが!」

「ま、まあ、二人とも落ち着いて」

「秋山、お前もどうかと思うぞ」

「だな。ボーイッシュどころかそれ男だろ」

「うっ。筋肉に目が行っちゃって……」

「皆、静粛に!」


 各々言いたいことを言い合った俺たちは、冬野の一声で静寂を取り戻した。

 が、夏木は冬野にも文句を言いたいようで、大きくため息を漏らした。


「お前は熟女好きどうにかしろよ。それもうオバサンじゃねえか」

「貴様ァ! もう一度言ってみろ!」

「四十五はババアだって」

「今日という今日は許さんぞ! 表に出よ、決闘だ!」


 お前の言う決闘はただのカードゲームだろ。外に出る必要はあるのか?

 ヒートアップした冬野とそれ軽くあしらう夏木を横目に、俺はパイプ椅子にどしりと腰を下ろした。


「やめだ、やめ。こんなことしても意味無いだろ」


「同感だな」と夏木も首を縦に振り、テーブルに置いていたファッション誌を放り捨てた。


 冬野が「好みの女史をせーので指さそう」と雑誌を持って来た時には面白そうだと話に乗ったが、蓋を開けてみれば性癖露出のオンパレード。バカバカしいったらない。


「こんなことして彼女が出来るならこんな場所にいねえっての」


 そう言ってヒラヒラと手を振っているのが夏木。見た目は厳ついヤンキーだが、中身は純情そのもの。女の子と対面するだけで狼狽える童貞だ。


「夏木には無理だろ」

「あ? やんのかてめえ!」

「ふ、二人とも喧嘩しないで……」


 俺と夏木の間に割って入ったのが秋山。中性的な顔立ちで、服装次第では女の子にすら見える。体の引き締まった女の子、と言うより筋肉フェチで筋肉さえあれば男でもイける童貞だ。


「そうだ、秋山の言う通りだぞ。我々が仲違いしても良いことなど一つもない。今こそ結束の時で」

「さっき一番ぶちギレてたのは冬野だよな」

「ああ。女なら誰でもいいからって秋山に良いカッコしてもなぁ」

「ぼ、僕、冬野君はちょっと……」

「はは、振られてて草」

「やべえ、ツボった」


 俺と夏木がゲラゲラ笑う横で頭に血を上らせているのが冬野。如何にも優等生みたいな喋り方と眼鏡のせいで勘違いされるが頭は悪い。童貞を拗らせ過ぎて異性なら誰彼構わずアタックする童貞だ。


 そして俺、春川。他三人と違って紳士的で顔も良いが、そのせいで女の子には手の届かない存在と思われているらしく、悲しいことに童貞だ。


 これが人生二十年、大学生活を二年送ってもなお、女の子と手を繋ぐどころか付き合った経験すらない哀れな男たちの末路。

 何が悲しくて講義の空きコマに性癖暴露大会をしなきゃならないんだ。


「野郎四人でくだらないことやってる暇があるなら、女の子でも口説きに行こうとか思わないのか」

「じゃあお前が行けよ。電工の男女比わかって言ってんのかよ」


 思わず口から漏れた悪態に夏木が食いかかる。

 電工、つまり電子工学科は野郎の溜まり場だ。その男女比は四十六対三。圧倒的男子校のノリである。


 女子はと言えば、とっくに講義室から姿を消し、今頃学内のテラスで女子会トークに花を咲かせている頃だろう。

 俺も混ざりたい。「あの童貞三人組、マジきついよねー」とか言いたい。


 しかし、そんな願いは叶うことも無く、夏木の言葉には肩を竦めるしかない。

 俺たちがここで貶め合おうと、傷を舐め合おうと、優位に立ったやつに彼女が出来るわけじゃないんだ。

 ここに居る時点で同じ穴のムジナ。いや、俺はこいつらより多少なりともマシだが。


「あー、女が空から降ってきたりしねえかな」

「そんな、アニメじゃないんだから……」

「お前はいいよな、秋山。この前電工の女連中と出かけたんだろ?」

「は? 俺聞いてないんだけど」


 夏木から齎された新事実に、俺は秋山を睨みつけた。まさかあのホモ疑惑の秋山が抜け駆けを?

 怪訝な目を集める秋山はぶんぶんと首を横に振る。


「あ、あれはそういうのじゃないんだよ!」

「じゃあどういうことだ? 白状しろやオラァ!」


 夏木にヘッドロックされながら、秋山はちょっと頬を染めてその時の話を語った。その状況で興奮出来るのは最早異常者だ。


「ぼ、僕はただ、彼氏へのプレゼントを一緒に選んでほしいって言われて」

「ちょっと待った。彼氏? 誰に?」


 俺たちの電工女子に彼氏がいるという聞き捨てならない言葉に反応すると、夏木も同じ思いなのか、その腕に力を込めた。秋山はさらに興奮する。もうこいつらで付き合えばいいのに。


「き、桐谷さんだよ」

「なんだ、じゃあいいか」

「だな。他の二人は?」

「い、いないって」

「夏木、離してやれ」

「おう」


 夏木から解放された秋山は机に突っ伏して咳き込んでいる。それで済んで良かったな。

 桐谷さんは三十代半ばのスレンダーな美女だが、巨乳好きの俺や歳上ロリという異常性癖の夏木の好みではない。

 もしこれが、俺の想い人である園原さんや夏木のお気に入りである篠森さんだったら、今頃秋山の死体は裏山に埋められていた頃だろう。


 俺と夏木が安堵する横で、冬野は茹でダコのように顔を真っ赤にして、ぷるぷると小刻みに体を震わせる。パッと見体調不良にしか見えない。

 風邪ひいてるのに無理して登校してた山田みたいだな、と小学校の思い出に耽っていると、冬野は机をバンッと勢いよく叩いた。

 そういえば、桐谷さんは冬野が狙ってる相手だったな。


「この世界は理不尽だ!」

「あー、始まったよ。冬野の英雄譚」


 夏木はこれから起こることを予感して頭を抱える。俺と秋山も同じだ。何もかも冬野の英雄譚が悪い。

 説明しよう、冬野の英雄譚とは!

 あれだ、世界は理不尽だの世界は俺に優しくないだのと文句を垂れ、最終的にこの理不尽な世界に目にもの見せてやると締めくくられる一通りの事象だ。

 つまり、ただの童貞の嘆き。負け犬の遠吠え。世界に一人で立ち向かわんとする様から俺たちは蔑みを込めて英雄譚と呼んでいる。


 これはいつものことなので、俺たちは当然スルーの方向だ。


「で、今日はどこ行く?」

「駅前でナンパ」

「お前にその度胸はないだろ」

「あぁ? 俺だってその気になりゃ」

「それ、いつまでも出来ない奴のセリフ第二位な」


 因みに第一位は「時間がないから」だ。そう言う奴は時間があってもやらない。

 俺の正論が気に食わないのか、夏木は野獣のような鋭い眼光でこちらを睨みつけている。その目が怖いから毎度毎度ナンパに失敗するんだろ。


 夏木のヘッドロックを食らうのも面倒だ。少しくらい付き合ってやろう。


「この前やってたプランAは?」

「あれは惜しかったな」

「惜しかった、じゃないよ! 良い調子だったのに二人が邪魔したから……」

「いや、あれは仕方ないだろ」

「秋山だけ美味しい思いすんのは気に食わねえしな」


『女の子に警戒されない秋山を利用してあわよくば合コンをセッティングしよう大作戦』、略してプランA(あきやま)は、夏木の言うように、秋山だけがお姉さん系の女の子に連れられてホテル街へ向かおうとした結果、俺たちから私刑を受けることとなった。


 抜け駆けは許すまじ。これが俺たちの鉄の掟だ。秋山一人だけがチヤホヤされているのを見ていると黙っていられなかった。あれは仕方ない。


「じゃあ、僕たちはいつになったら童貞を卒業出来るの!」


 雷に打たれたような感覚だった。夏木も秋山の呈した疑問に言葉を失っていた。


「た、確かに……」

「俺たちが足を引っ張り合う限り、誰も大人の階段を上がれねえってことか」

「そうだよ! 一人ずつ着実に成功させないと、僕たちは一生童貞なんだよ!」

「ん? 今のはどっちのセイコウだ?」

「セックスの方じゃね」

「サクセスの方だよ!」

「紛らわしいな。めんどくせえからサクセックスでいいだろ」

「それだ」

「聞いているのか、貴様ら!」


 今度は冬野がキレた。流石に無視し過ぎたか。話長いんだもん、こいつ。


「黙って聞いていれば着実に着床だの性行を成功だのと夢物語を綴りおって!」

「お前は何を聞いてたんだ」


 誰もそんな話はしていない。冬野は童貞を拗らせ過ぎて性器と一緒に耳まで腐ってしまったらしい。あと何が夢物語だ。ちゃんと実現するわ。


「貴様らは我々が置かれた状況を理解していないようだな」

「俺たちの状況?」


 冬野の言葉を繰り返すと、彼はこくりと頷いて前の席に静かに座した。


「我々は今、何歳だ?」

「二十歳だろ。今年で二十一」

「あ、俺はもう二十一だ」

「夏木って誕生日いつだっけ?」

「五月十五日」

「そうだったの? おめでとう、夏木君!」

「先輩だぜ? 敬えよお前ら」

「はは、留年宣言かよ」

「絞め殺されてえのかてめえは」

「いいから聞きたまえ!」


 冬野の怒号に俺たちは渋々口を閉ざした。これ以上喋ってると説教で空きコマが終わる。今聞いておく方が時短になる。苦渋の決断だ。


「いいか。我らは既に二十年、彼女なし女っ気なし新品のマグナムだけありな人生を送っているのだ」

「そのボケはつまんねえからナシ」

「てか、マグナムは盛りすぎだろ。百均の水鉄砲が妥当じゃないか?」

「ふふ、春川君、それは失礼……ふふっ」

「ピュッてうっすいやつが出てきそうだな」

「それは草」

「な、夏木く、やめて、お腹痛い……」

「説教がご所望か?」


 キランと眼鏡を輝かせる冬野に俺たちは揃って「続けてください」と話を促した。俺たちに口を挟む余地を与える冬野にも問題があると思うが。


「貴様ら、大学生活はあと二年も残っていないと理解しているのか? 我々に残された時間は僅かだとわかっているのか?」


 俺たちがこうして集まるようになって二年。

 その最初に全員童貞だとわかった時、俺たちは契りを交わした。

 大学生のうちに童貞を卒業する、と。

 そのリミットまで半分を切った。だから危機感を持て。冬野はそう言っているのだ。


「我々はこの大学生活に全てを懸けたはずだ。命を賭しても童貞を卒業する。そう誓ったはずだ」


 流石に命を懸けたつもりはないが、ここは黙って聞いておく。夏木も秋山もそのつもりらしい。


「そこで! 我々の作戦はこれより、最終段階に移行する!」

「最終段階?」


 俺が首を傾げると、冬野はクイッと眼鏡を上げ、ついでに口角も上げた。にちゃっとした笑顔がちょっとキモい。


「今日をもって、我々は『B地区解放』を宣言する!」


 黙って話を聞いていた俺たちは、冬野の一言で戦慄した。

 B地区の解放。それは俺たちにとっての祈願だ。ずっと夢に見ていた楽園への一筋の光だ。

 二十年の人生で一度も叶わなかった夢。それを今、成し遂げようと言うのだ。


「俺たちに出来るのか?」

「今まで何回挑戦したと思ってんだよ」

「無理だよ。今回もまた、無惨に散っていくしかないんだ」


 急遽前倒しになった作戦の最終手段に俺たちは弱音を吐いていた。

 B地区。それは、俺たちが今まで目の当たりにしたことのない無我の境地。魂の平穏を約束された場所。全ての男たちの目的の地だ。


 しかし、そこへ到達出来る人物はこの世界にもごく一部しかいない。

 己と向き合い鍛錬し、数々の試練を乗り越え、その先のヴェールを潜り抜けた者にしか相見えることのない、双丘の頂点。


 その未開の地へ、俺たちの力で到達する。それがB地区の解放だ。

 要はおっぱいを生で見たいって話だ。わかりやすいな。


 俺たちが注目する中、冬野は語る。


「今成し遂げず、今後何を成す? 過去を思って、未来に何を馳せる? 我々は、前に向かって進むしかないんだ。もう、我々に残された時間は僅かしかないんだ!」


 冬野の熱弁に思わず感嘆の声が上がる。

 珍しく冬野がまともなことを言っている。

 今行動出来ない俺たちが将来童貞を卒業出来るのか。可能性は低いだろう。


 社会人になると途端に出会いの場は減り、仕事に追われて自由な時間もなくなる。

 金でこそ今より融通が利くようになるが、その使い道がない。大方、酒にソシャゲに金が消えて行くだけだ。

 こいつらのそんな悲しい人生なら酒片手にゲラゲラ笑って見てやりたいが、俺はごめんだ。


「プロ相手にフィナーレを迎える手段も確かにあるだろう。しかし、B地区に迎合される最期を迎えていいのか? 我々は自らその地を開拓しなければならないのではないか? 今こそ、我らとその息子が立ち上がる瞬間ではないのか!」


 冬野の言葉は俺たちの士気を高めるには充分だった。

 俺たちは立ち上がり、雄叫びを上げた。

 同じ学科の連中が「またバカやってるよ」と言いたげな目で見てくるが、関係ない。

 奴らにはわからないんだ。これから戦地へ赴かんとする勇者一行の生き様が。今、本当の意味で一つになった俺たちの魂の叫びが。


「やろう、やってやるぜ!」

「そうだね! 狭い暗闇に閉じ込められたB地区を解放してあげるんだ!」

「そうだな、やろう。俺たちの手で」


 自分たちの幸せな未来は、自分たちで掴むしかない。

 ただ座して待っていても幸せが歩いてやって来ることはないんだ。


 そう悟った瞬間、俺たちの思いは一つになった。


「今年こそ、童貞を卒業する!」


 俺たちは高らかに拳を上げ、そう誓った。


 神に? 違う。

 これから出会う女の子に? 違う。

 B地区解放戦線メンバーに? 違う。


 誰でもない。ただ、俺たちの魂にだ!

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B地区解放戦線 宗真匠 @somasho

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