第20話:愚者の末路

 青城祭まであと16日 2022年9月14日am 21:11:加藤昭明


 ————今日も一日を無駄にした。正確に言えば金銭が発生している為、無駄ではないのだろうが、毎度変わらぬオフィスで缶詰になり、更には業務時間外でさえ、上司の酌を注ぎ、ご機嫌を取らされていると、虚無感を感じずにはいられない。


 それに、この池袋という街の構造も悪い。駅を跨いで分断された、歓楽街とオフィス街。毎度、居酒屋を求めては、駅の地下を潜ってオフィスと歓楽街を往復する羽目になるばかりか、俺の用いる在来線に向かうには、再度地下道を潜って一キロ近くも駅構内を歩く必要がある。

 責任者は誰だ。戦後からの再興を指示した人物か。ならもう死んでいるか。

 ならば、そいつの墓を一度殴ってやらんと気が済まない。学生時代に他校との諍いで鍛え上げた、この右ストレートをその顔面にお見舞いしてやる。


 酒に酔った男は、千鳥足のまま公園を歩き進む。


 蕩けた脳の所為もあって、彼は帰路へ着く事も出来ずに只管に直進を繰り返し、池袋平和記念館を含有する、豊島平和記念公園に立ち入った。

 公園の中枢に据えられた巨大な噴水。平和のために必要な、『循環』と、没した生命の『再生』を願って作られた純白の三段造りのそれは、眩い照明に照らされ、煌びやかな水を布のように、しなやかに変形させている。


 男は、暖色の街灯が照らす噴水広場を進む。大理石の床を、足先の腐った革靴が叩き、無人の公園の闇に、ぽつぽつと、音が灯る。


 男は、光に群がる虫のように、噴水へと近づく。その流麗な動きを見ていると、ふと喉が渇き、男は噴水の水に口をつけた。冷たさが臓腑に染み渡るのを感じていると、噴水の横に、鞄が落ちているのに気づいた。よくある、黒い長方形の革鞄。その横には鼠色の背広が綺麗に畳まれている。


「おおい、誰か、忘れ物してますよう!」


 男は、叫ぶと甲高い笑い声をあげた。その場に座り込んで、間抜けな存在をひとしきり笑い尽くすと、今朝の会議で資料を忘れた事で、上司に叱責された事を思い出した。


『加藤さんさぁ、もういい歳なんでしょう。忘れ物の確認位、今時小学生でも徹底していますよ。やって来たけど家に忘れました、は社会では通用しないって分かりませんか?』


 男は、噴水前に立ち上がると、靴を脱いで噴水内に立ち入った。足先に伝う、冷えた心地よさを感じながら、1段目に溜まった水を蹴り上げては水飛沫をあげる。


「あんの、クソ餓鬼……。東大卒がなんだ。受験なんぞ金持ちの知識道楽だろうが!」


 背徳感と興奮で、酔いが覚めるばかりか深まっていく感覚に、夢中に足を動かす。スーツが濡れる事も気にせずに足を動かしていると、何かに足を取られ、正面から倒れ落ちた。


 ばしゃん、という水が弾ける大きな音と共に、男は全身で水に浸かる。酒で灯された熱も、気温が下がり始めた九月の夜、更には絶えず循環する冷水に浸かった事で、消え失せる。男はくしゃみをして、身震いをする。


「何しているんだ、俺」


 男は、我に帰り、噴水から出ようと立ち上がる。水をかき分けて進むと、再び何かに足を取られ、倒れ込んだ。固い底にぶつけた痛みと、羞恥心とが、汗となって彼の全身から溢れ、男は、慌てて立ち上がる。そして、足元に目を映すも、何もない。


 ————俺は一体、何に躓いたんだ……?


 哲学的にも聞こえる考えが浮かぶと、男は、膝を噴水につけ、手で探り始める。膝下にスーツが張り付く感覚と、水の重さを感じながら手を動かしていると、何か、柔らかいものに触れた。思わず飛び引いて、男は尻餅をつく。床に打ちつけた全身の痛みも忘れて、男は恐る恐る、指先を、先ほどの場所に伸ばす。


 すると、虚空に触れた。


 まるで、水が質量を持ったように、透明な何かが指先に触れている。男は、ゆっくりと、その感触を確かめるように指先を動かしていく。一際柔らかな大きな風船にも思える部位から、ハリのある細長い長方形。そして、その先端に、五本の細い、小さな枝があった。


「うわああ!」


 視覚的には何ら掴み所の無い状況だったが、男は、この重みを持った柔らかさに覚えがあった。


 ————これは、人体だ!


 今まで何度も人を殴ってきた彼にとって、その感覚はまごう事もなかった。男は、もはやこの感覚が酒によるものなのか、現実かの区別もつかずに、噴水から転がるように飛び出し、全速力で公園を去った。


 池袋警察署 捜査報告書


 発見日時:2022年9月15日 午後9時30分頃

 発見場所:東京都豊島区 池袋平和記念公園『再生の噴水』

 被害者氏名:笹山 大輝


 概要:2022年9月15日、午後9時30分頃、東京都豊島区池袋平和記念公園内で、男性の遺体が発見された。目撃者による通報を受け、現場に駆け付けた警察官が噴水内を確認した所、『透明化した遺体』を確認。被害者の身元は、発見現場に遺されていた個人所有物(携帯電話、財布など)から特定された。


 遺体の情報:被害者の遺体は、池袋平和記念公園内の『再生の噴水』内で、透明化した状態で、衣服を纏う事なく横たわっていた。遺体そのものは視認する事が困難であり、現場において物体が「存在する」ことを確認する為に、周囲に配置された水の動きや空間の歪みなどで遺体の位置が特定された。

 透明な状態での発見となり、遺体の損傷や外傷の有無を肉眼で確認することは不可能であった。そのため、死因を特定するための検死作業は著しく困難なものとなっている。物理的に触れることで遺体の位置や形状は確認できたが、透明であるため内外傷や皮膚の状態を把握するのが不可能であった。加えて、血液を採取した際も同様であり、現時点では、遺体の解剖を実施しても、死因の確定が困難であると予想されている。


 現場の情報:現場検証により、被害者が透明化した原因については全く不明である。遺体は明らかに物理的には存在しているものの、何らかの異常な手段により目視確認が不可能な状態となっている。被害者がどのような経緯で透明化に至ったかは捜査中である。なお、透明化の持続性や解除方法についても現在のところ不明であり、専門家の協力を仰ぐ必要があると考えられる。

 池袋平和記念公園内における周辺環境には目立った異常は確認されなかった。現場周辺の監視カメラ映像の解析がを進めた所、遺体の搬入なども映像としては確認出来なかった。


 結論:透明化した遺体の発見という前例のない状況に対し、異常事態としての対応が求められる。本件は、先日発生した『旧豊島中学校透明化事件』とも関連性が高いと考えられる。今後は、同事件の専門家および科学捜査班の協力と共に、調査を進めていく。


 現在の捜査状況:

 • 透明な遺体の物理的存在を確認済み。

 • 死因の特定は困難。検死に必要な技術や対応策を模索中。

 • 周辺の監視カメラ映像を解析したが、被害者の搬入映像はなし。

 • 被害者の透明化の原因および背景を調査中。


 池袋警察署 刑事部

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