短編集1
宙色紅葉(そらいろもみじ) 週2投稿中
食人欲求の代替行動
ふわり、焼かれた肉の香ばしい匂いと香辛料が食欲を刺激して、待ちきれない、と腹が鳴った。
恋人が綺麗に括られた黒髪を揺らして、こちらを振り返る。
「まだ、全然焼けてないよ。夕飯だって食べたのに、困ったお腹だね」
八の字に眉を下げて、それから、コロコロと笑った。
「でも、お腹が空いて仕方がないんだ。それは牛肉なんだから、表面さえ焼ければ十分だろう? 早く食べさせてくれよ」
彼女の手元にあるのは、スーパーで購入した牛のブロック肉を適当に切って作った大きな肉の塊だ。
それがフライパンの上で焼かれ、表面が灰色っぽく変色している。
再び腹を鳴らして弱ったように後頭部を掻くと、彼女は苦笑いになった。
「駄目だよ。まだ、ちゃんと中まで火が通っていないんだもの。いくらレアが好きだからって、本当に生のお肉を食べるわけにはいかないでしょう? もうちょっとだけ、待っていて」
目線を俺からフライパンに映して、彼女は肉を焼き続ける。
少しすると「こんなもんかな?」と呟いて、真っ白い皿の上に分厚いステーキを盛った。
「結構、焼けてるな。だから俺が焼くって言ったのに」
空気越しに伝わる温度と、こんがりとした表面に文句を垂れると、対面に座った彼女がむくれた。
「せっかく作ってあげたんだから、文句言わないの。それに、貴方に任せたら、一秒だけフライパンに押し付けて終わりにしちゃうじゃない。いくら牛だからって、そんなのを食べたら病気になっちゃうよ」
不機嫌に尖った唇や、火元にいたせいで汗の流れる真っ白い首筋を見つめると、無意識にゴクリと唾液が喉を通り、舌なめずりした。
『ああ、不味いな。喰らいたくて仕方がない。この際、表面の焼けすぎたステーキでもいいさ。どうせ、内側は俺のために、血の滴るレアステーキにしてくれているんだろうから』
少し焦りを感じて、俺は忙しなくナイフとフォークを動かし、大きな塊を半分に割った。
断面は白っぽい焼けた肉の色とピンクっぽい赤色の二層になっており、真ん中からは血のような肉汁が滴っている。
少々、行儀は悪いが、俺はナイフの側面を肉に押し当てて肉汁を塗りつけ、それを軽く舐めた。
少し気分が落ち着く。
それからは肉を雑に切り裂いていき、それを食っていく。
肉を歯で食い千切る時、咀嚼する時、飲み込む時、俺は彼女を見つめた。
彼女の細くかわいらしい声を生む喉に、歯を突き立てる。
白く柔らかい肌をふつりと噛み千切って、引き裂く。
黒くてコシのある美しい髪を咀嚼する。
優しさの奥に強い意志の宿った、愛しい瞳を飲み込む。
そういうつもりで、俺は分厚いステーキ肉にがっついた。
『腹が満ちていく。大分、落ち着いてきたな』
いつからかは分からない。
けれど、いつの日からか、俺は彼女を喰いたくなった。
甘い夜の比喩ではない。
物理的に、今、俺がステーキ肉を噛み砕き、飲み込み、血肉にしているように、彼女を喰いたくなった。
しかし、別に彼女を殺したいわけじゃない。
むしろ、彼女にはいつまでも五体満足で、かすり傷の一つすら負わず、健康に笑顔で暮らしてほしいと思っている。
そんな彼女の隣に立ち続けたいと思っている。
俺は彼女を喰らいたくて仕方がないが、同時に、決して喰らいたくない。
矛盾が心の中で諍いを生むようになった。
いつか彼女の喉笛に噛みついてしまうのではないか。
そんな漠然とした恐怖を抱えて過ごしてきた。
けれど、ある日、彼女と入ったステーキ店でレアステーキを注文し、ウェルダンの肉を頬張る彼女を見つめながらソレを喰らったら、驚くほどに欲求が満たされた。
それ以来、俺は一、二か月に一度、彼女を見つめながら生に近い牛のステーキを喰った。
欲求の解消は、ずっと成功している。
『自分を見つめながら、定期的にステーキ肉を荒々しく喰う俺を、君は、どう思っているんだろうな。不審に思うか? 本心を知ったら、恐ろしく思うか? だが、俺は、スーパーで千円も出せば買える、安い牛のブロック肉一つで、衝動を殺せるんだ。君を、大切にできるんだ。だから……』
ナイフとフォークをテーブルに置き、赤く汚れた口元を手の甲で拭った。
そして水を飲むと、同じように水を飲む彼女と目が合う。
彼女は身を乗り出して、テーブル越しに優しく俺の頭を撫でた。
「そんなに見つめて、どうしたの? 寂しくなっちゃった? 大丈夫。私はどこにも行かないよ」
白い絹のような指が自然に動いて、俺の日焼けした、角張った指に絡んだ。
左手の薬指に嵌った指輪が、美しい銀の輝きを放っている。
虚を突かれて固まる俺に、彼女は微笑み、小さな唇を動かす。
「寂しくなると、貴方は大食いになって、お肉をたくさん食べたくなるんでしょう? それも、私に見守られながら。いつからか、貴方は酷く寂しがり屋になったから」
俺の奇行を、随分と突飛に、可愛らしく解釈したものだ。
零れた苦笑いを照れ笑いだと勘違いしたらしい彼女は、悪戯っぽく笑った。
頬にキスを落として照れているのが、愛しくて仕方がない。
『ああ、どうか一生、その可愛らしい勘違いを続けてくれ』
静かに祈って、つい先ほどまでは齧りたくて堪らなかった、白い指先にキスを落とした。
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