『映景写色』〜旅路の上のハーフエルフ〜
班白扇
第1章 「精霊の宿 相競ふ少年」
第1話 出立
初夏。とある森。
緑色の葉はゆらめく日差しにほんのりと透けて、そこにテントウムシの影絵を動かしている。枝を伝って先まで来ていたアリたちの行列は、その道を再び戻りながら大きなナラの幹をこっそりと下りていく。下の方では、去年の落ち葉の隙間から白いキノコが顔を覗かせている。
夏を迎えて少しずつ背を伸ばし、木々の根元を隠しはじめた植物たち。その新しい葉っぱには昨日の雨で草露が乗り、樹幹を抜けた陽光が時折そこに当たって、小さなダイヤモンドのようにきらきらとする。
細長い葉が露の重さでしなっていて、その上を滑った雫が先っぽから落ちると、葉っぱはまるで驚いたかのように身体を起こす。
そんな人里離れた雨上がりの森の真ん中に一本の大樹があり、その巨人の足かと見紛うような太い幹を取りまいて、一つエルフの村落があった。クリスティーエ村、あるいは単にティーエ村と呼ばれるそこには、100人ほどのエルフの他に一人のハーフエルフと一人の人間が住んでいた。レダという名前の少女と、その父親だった。父親は名をアーネストと言った。母親はエルフであったが、レダを産んだときに亡くなっている。
レダの父親は生粋の旅人だった。その旅心は、妻をもち、子ができ、ティーエ村という住み処を得てもなかなか冷めず、ついぞ堪えきれなくなった彼は幼いレダを連れて一度だけ旅に出たことがあった。父親である彼にしてみればずいぶん穏やかで安全な、知名度のある地を訪れるだけの簡単なものであったが、けれどもこの旅こそが、まだ小さきレダの原体験──言わば、この後の彼女の人生を導く
彼女もまた旅人となったのである。
レダは今日、16歳の誕生日を迎える。父親からのプレゼントはマジックポーチ。いろいろなものを収納できる便利な魔道具であり、そしてこれは同時に、一人で旅に出てもいいということの証でもあった。
レダは魔力をあまり持たない父親と違い、魔術師としての母親の才を色濃く受け継いでいる。旅をするのに持ち歩く物資も普通よりずっと少なくて済む。それでもやはり、好きな時に好きな場所で物を出し入れできるマジックポーチは、古今東西、旅人たちの必需品なのだった。
昼過ぎ。
トカゲやヘビが草藪を出て、村人たちの家の前、木造の柵のまわりでひなたぼっこを満喫している頃。
窓際のテーブルで父親と昼食をとり、それからまだ少しかたい桃をデザートに食べたレダは、しばらく本を読んで心身を落ち着かせたあと、マジックポーチや魔法の杖や他にもいろいろの荷物を確認して、家の玄関に立っていた。
小さい頃に何度も頭をぶつけたドアノブが今では脇腹のあたりにある。ふり返ると、食器を洗いおわった父親が腕を組んで壁に寄りかかっていた。
そこはちょうど、レダの背丈が伸びるのを壁に刻んで記録した場所だった。
「んー」
「レダ?」
「いや、長かったなって思ってたんだけど、ここに立ったらそうでもなかったのかもって」
奥に、さっきまで座っていたゆり椅子が見える。あそこで本を読んでいた今しがたの時間は、一体この家で過ごした歳月の何百分の一だったのだろう。数年前には外遊びばかりで目もくれず、赤ん坊の頃には危なっかしくも上ったりし、そしてその前には──自分の産まれる以前には──母親がその上に座って命の宿るお腹をさすっていただろう椅子が、今はカーテン越しの風にひとり揺れている。
レダはそこで、目の前に立つ父親に視線を戻した。その頭にはいつの間にか白髪が増えていて、そのことがより一層、時間とは重ねていくものなのだということを感じさせた。
娘の表情に何を思ったのか、父アーネストが顔をしかめる。
「どうした?」
「ううん。ただ、白髪があるなぁって」
「……お父さんはまだまだ元気だぞ」
「知ってる」
むぅ、と眉根が寄る。
娘の思う「時の流れ」は父親の方こそ強く実感していた。小さくぷっくりとしていた娘の手が、今では大樹の枝から作った大ぶりの杖を片手で握っている。背丈は伸び、複雑に結われた母ゆずりの金髪は腰まで届いて、さらさらと深緑色のローブの上に広がっている。
──旅装の上に羽織ったそのローブ自体も、父である自分のと同じくらいの大きさらしい。
「じゃあ、行ってくるね」
「ああ、ちょっと待った。これを持っていきなさい」
ブーツの紐をかたく締めてドアノブに手を掛けたレダを、父親はそっと引き留める。小首をかしげる彼女に彼は一冊の本を手渡した。革の装丁がところどころ擦られて表題の読みにくくなっているそれを、彼はそっと娘の手に託す。
「『たびほん』──お父さんが旅して見つけた名所を書き記した本だ。地図も載っている」
「くれるの?」
「貸すだけだ、ばかもの」
ぽんっと彼は娘の額を小突く。「いたっ」とレダも口に出して、二人で笑いあった。
「そこを巡ってみなさい。そして──」
「ほかにいい場所があったら、記録する?」
「正解だ」
さすが私の娘だな、とつぶやいて今度はその頭を撫でる。レダは目をつむって、これからしばらくは感じられないであろう、自分よりずっと大きい、ごつごつとした手のぬくもりに浸った。
ドアノブをひねり、扉を推し開ける。視界が白く輝き、それも昼の明るさにだんだん慣れてくると、今度は大樹の幹が目に入った。顔を上げれば緑の葉が生い茂り、そしてそのさらに上ではもくもくとした綿雲が青空に湧いている。
天高くを飛ぶ鳥は豆粒のように小さい。どこからかピピピッという澄んだ鳴き声が入ってくる。
レダは杖を持ちなおした。
「じゃあね。お父さん」
「ああ、たまには連絡をよこしなさい。手紙でも、なんでも」
「うん」
前へと踏み出して外に出ると、目のあたりが熱くなった。
ふり返り、父親に見送られながら、開いている扉に触れる。
たちまち、木製のそれは初夏の風を受けて軽やかに動き、最後にはガチャリという音を立ててレダの家を閉ざした。なぜだか、今これに触れたとしてもきっと開かないような気がした。
扉には両手大の木の板が掛かっていて、そこにはレダと両親の名前が書かれている。レダは魔法の杖を家の壁に立てかけると、その板を左手で持ちあげ、右手には腰から筆記具を取りだして、数回、そのペンを走らせた。
「これでよし、と」
ペンをしまい、音を立てないように板を戻し、魔法の杖を掴む。
そうしてレダは家に背を向け、大樹をまわって、森の方へと歩き出していった。
──── HABITAMUS ────
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