耳
京野 薫
前編
もう3月だというのになんでこんなに寒いんだろう。
冷たい風は何故か孤独感を増し、悲観的にさせる。
人の心を追い込むにはきっと光と熱を奪ってしまえば簡単なんだろうな、と考えながらマフラーをキツく巻き付けて隙間を少しでも無くそうとした。
早く家に帰りたい。
まるでサイモン&ガーファンクルの歌の様な言葉が浮かび、思わず失笑する。
でも、それと共に家に帰った時の事を考えると、そこで待つ温もりに僕の心はお湯に浸かったかのように柔らかくほぐれる。
家に帰れば彼女が待っている。
彼女の声が聞ける。
思えば玄関を出てからまともに誰かと話していない。
でも大丈夫。
今の僕には彼女、
思えばひと月前までの僕はカラカラに乾いていた。
工場でライン作業の仕事をして、ただ流れてくる自動車の部品を組み付けるだけの仕事。
自分も機械の一部になったかのような……いや、実際そうなのだろう。
緑色の細長い床をネズミのように行き来し、インパクトドライバーとネジやナット、それに自動車のパーツや細かい部品の入ったカゴのようなラックを抱えて早歩きや時には小走りで動き続ける。
次に組み付ける車の部品表を見て、適切な物をただ組み付ける。いかに間違いなく手際よく、素早く組み付けられるか。
それだけ。
文字通り代わりなんていくらでもいる。
僕である必要なんてどこにもない。
休憩中にスマホでゲームをしたり、電子書籍で異世界転生の小説やコミックスを読むことが楽しみだった。
そういった作品を読んでいると、自分が主人公になって頼れる仲間、無償の信頼や愛情に包まれ、変化に富んだ旅の日々を送れているように感じ、しばし陶酔できた。
自分も異世界に行けないかな……
そこで信頼し合える仲間や、無償の愛を与えてくれる美少女に出会って。
もちろん何があっても絶対裏切らずに僕のそばに居てくれる。
そして「僕で無ければいけない舞台」「僕が主人公になるために用意された舞台」を得て生きることが出来れば……
オンラインゲームをしたこともあったけど、すぐに止めた。
あそこは僕が主人公になれない。
無償の愛情や無償の信頼も得られない。
まるで現実世界のようなヒエラルキーやシビアさに満ちていた。
やっぱり小説がいい。
文章だけだから、美味しいキャラは全て僕に出来る。
そんな世界を想像して心地よさに浸っていると、いつも鼻を突く埃っぽさと鉄の焼けるようなネットリとした焦げ臭さで我に返る。
工場内のこの匂いやスポットクーラーのうるさい音は慣れることなく、自分のすり減っていく日々を否応なしに自覚させる。
そんな仕事を終えて家に帰っていると、将来への不安が湧き上がっていた。
このまま自分は独りぼっちで人生を終わらせるのだろうか。
愛する人に出会うこともなく、キラキラした夜を、明日を楽しみにすることもなく。
工場の他の人間の話すスロットや競馬の話題を聞いているだけで終わるのか。
もっとカフェや小説の話題を話したいのに。
SNSを使ったこともあるけど、文字だけだと何とも言えない威圧感があって結局見ているだけ。
それだとほかのみんなが凄く幸せそうに感じて、余計に腹立たしくなるし惨めになる。
畜生。
どうせ僕は友達もいないし、仕事の後に飯を食いに行く仲間だっていない。
ゲームの世界だって上手くやれない。
なんでアイツらに出来て僕がダメなんだろう。クソ、クソ。
でも、それは半月前までの自分。
今は満ち足りている。
恵麻が待ってるのだから。
彼女の声が脳裏に鮮明に浮かぶ。
笑い声や食事を作る音。
好きなテレビやゲームの配信者の声。
それを思うだけで、周りの殺風景な雑居ビルが色鮮やかな光を含んでいるように感じる。
そして、周囲のカップルや親子連れにも優しくなれる気がする。
僕だってお前らに負けてないんだ。
そんな優越感に浸りながらアパートの自分の部屋に入る。
最低限の家具があるだけの部屋。
充実しているのはパソコン周りとゲーミングチェアのみ。
僕は着替えもそこそこにゲーミングチェアに座り、パソコンには目もくれずその隣にあるトランシーバーのような受信機を手に取る。
それは無機質な備品のはずなのに、温もりを持っているような気がした。
安いプラスチックのボディも美しく見える。
「ただいま、
僕はそうつぶやくと受信機のスイッチを入れて耳に当てた。
早速聞こえてきたのは彼女が最近お気に入りのサスペンス物の海外ドラマの声。
彼女がその日の気分で見るドラマを変えているけど、今日はいいことがあったんだな。
そういうときは大抵サスペンス物を見ている。
逆に沈んでいるときはコメディ。
なので、僕はホッとした。
良かったね。今日は言い一日だったんだな。
そして、電気ケトルでお湯を沸かす音。
エスプレッソを飲もうとしてるんだね。
恵麻、僕も君と好みを合わせたくて、そのドラマも見てるしエスプレッソも飲むようになったんだよ。
おっ、フライパンで何か焼きだした。
今日は頑張ってるな。
いつもはコンビニ弁当とか、冷凍食品なのに。
ああ……何を焼いてるのか分からないのが残念。
野菜も切り始めている。
凄い、今日はよっぽどいいことあったんだ。
良かったね。
それからしばらくして、料理を作り終わったのか彼女はお風呂に入り始めた。
慣れたせいか、行動の細かい音まで聞き分けられるようになった。
いや、慣れじゃ無いな。
彼女への思いがそうさせてるんだ。
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