Episode1-1「朝日奈さつき という女」

「そんな、話が違うじゃないですか!」


 大きな屋敷のある一室で、まだ二十代と思しきスーツ姿の女性が、恰幅の良い四、五十は越えているだろう男性を怒鳴りつけた。言われた男性側は、嫌味な顔を浮かべてヘラヘラと笑っている。


「話が違うんじゃない、話は、事情は変わったんだ。時代も、君もな」


 その言葉に、スーツの女性はわなわなと肩を震わせる。


「だ、だからって、事務所の若手を一人寄こせだなんて、そんなマクラみたいなことできません!」

「君が言えるような立場か? 君だって散々私と寝たくせに、ちょっと立場が上がったら途端に裏切るのか。ずいぶん薄情な女になったものだな」


 この女性、朝日奈あさひな さつきは、とある芸能プロダクションの事務員をしており、相手側の男性は、その芸能プロダクションと繋がりのある業界じゃ有名な番組プロデューサーの漆原うるしばら 東彦はるひこである。


 二人の関係は、もう五年以上前にさかのぼる。


 朝日奈さつきの勤める芸能プロダクション……、眞城ましろプロダクションが、いまほど有名でなかったころ。その事務所の今後の運命を左右する出来事があった。地上波放送を行っている朝売テレビの番組プロデューサー・漆原 東彦から、新進気鋭の若手アイドルを起用した番組を制作するため、有名無名問わず多くのプロダクションに出演オーディションのオファーがあったのだ。


 この番組でプロダクション所属のアイドルが番組に出ることになれば、アイドル本人のみならず、プロダクション自体の名前も知られる。このオファーは、当時弱小の眞城プロダクションとしては、またとないチャンスであった。


 しかし、全てのアイドルが出られるわけではない。当然有名な芸能事務所からは、既に輝かしい経歴を持つアイドルを差し向けてくることだろうことは想像に難くなかった。


 この時、朝日奈さつきは、いかにしてこのオーディションに自身のプロダクションのアイドルを合格させることができるか一人で悩み続けることになった。


 一回の事務員でしかない彼女をそこまで駆り立てたのは、彼女自身が眞城プロに大きな恩があったからだった。


 彼女は今でこそ事務員ではあるが、少なくとも一般人よりも……いや、もしかしたら今まさに活躍しているアイドルや若手女優と並んでも見劣りはないいくらいには美人で、スタイルも申し分なく、むしろなぜ芸能活動をしていないのか、周りからすれば不思議なくらいだろう。


 ではなぜ、彼女は芸能人として活動していないのか。そもそも彼女自身、かつてはアイドルの卵で、別の芸能事務所で日々メジャーデビューを夢見ていた少女であった。


 しかし、その事務所はお世辞にも良い事務所とは言えなかった。


 朝日奈自身にマクラ営業を強要し、心身を削ってそれを受けたとしても、そうして得られた出演権も気づけば別のアイドルに回され、果てには同じ志を持っていたはずの同期からもいじめを受け……。


 彼女は、ついに限界を迎えてしまった。壊れてしまったのだ。


 気付けば、彼女はもう清純ではなくなってしまった。一時期は、自死を考えていたくらいだった。


 そんなとき、今の眞城プロダクションの社長が偶然街中で彼女を発見したことから急展開を迎える。


 平日の昼間から美人画やつれた表情をしている。そんな状況の彼女を心配した眞城プロ社長は、人目も憚らず朝日奈さつきに声をかけた。


 ほぼ自暴自棄になっていた彼女は、急に話しかけてきた男性に対しても大した抵抗を見せなかった。この時点で既に、身売りに近い生活になりつつあったからだ。


 ああ、この人も体目当てなのだろう、もういいや、なるようになってしまえ。


 この時の彼女は、そんな感覚になっていた。


 しかし、男は一枚の名刺を渡して自身が弱小ながら芸能プロダクションの社長であることを明かし、親身に話を聞いてくれたのだ。


 近くの喫茶店に移動して、ぽつりぽつりと社長に身の上話をする。今まで誰にも言えなかったことを他人に打ち明けられたことが解放につながったのか、この時彼女はつきものが落ちたのかのように号泣した。


 それから、アイドルという夢の道は閉ざされても、かつての自分のようにアイドルを夢見て、そうして眞城プロに入ったアイドルの卵たちを、絶対に自分のような目に合わせまいと考え、眞城プロの事務員として日々尽力することになったのである。


 そんな中訪れたこのチャンスは、眞城プロの飛躍には欠かせないと、他の誰よりも朝日奈さつきは思っていた。オーディションの内容、合格者の傾向、番組が求める人材……。


 あらゆる策を考えていた、そんな折、オファー承諾してオーディションまでの打ち合わせを行った後、朝日奈さつきは漆原に声をかけられた。


 それは、とんでもない提案の話だった。


 マクラ営業である。


 ただ、眞城プロ所属のアイドルをマクラ営業させる話ではなかった。この時漆原は、まだ当時二十代前半の朝日奈に目を付けており、自分と関係を持ってさえくれれば、オーディションに関して便宜を図る、と言い出したのだ。


 普通だったら断っていただろう。しかし、朝日奈さつきは既に落ちるところまでいったん落ちていた身だった。


 もし、ただ一人、自分の犠牲だけでプロダクションや所属アイドルを輝かせられるのなら……。


 直りかけていたとはいえ、まだ壊れていたのだ。この時の彼女は、まともではなかった。その提案を受けてしまったのだ。


 結果的に言えば、おかげで眞城プロ所属のアイドルは、その新番組のレギュラーを獲得し、以降漆原の番組に多く呼ばれるようになった。だがしかし、朝日奈はこのときを一生後悔することになる。


「朝日奈ちゃんだってさあ、君もうアラサーでしょ? もう女としての旬を迎えてることくらい、君自身分かってるでしょ」

「なっ……。だ、だからって、所属アイドルを売るような真似、するわけ……」


 漆原は、朝日奈さつきの声を遮って、鼻で笑った。


「ハッ、最初にマクラを受けた君がそんなこと言うようになるとはね。もし眞城プロの社長やアイドルたちが、今テレビで輝けている理由が自分たちの努力じゃなく……朝日奈ちゃんのマクラのおかげだって知っちゃったら、どんな顔するかねー」


 嫌味な言い方で漆原は挑発する。


「……それは脅しですか」

「なんとでも言ってもらって構わないよ。ただ、バレたところでつぶれるのは君たちだ」

「!」

「僕は朝売テレビの中でも特に重宝されてるからね。何か不祥事があったところで、局が頑張ってもみ消してくれるさ。でも君は……君たちはどうかな。あくまでも一芸能プロダクションの事務員が、マクラしてプロダクションとアイドルのチャンスを掴ませましただなんて、こんなスキャンダルをバラされたら……」


 朝日奈は唇を噛み、ジワリと鉄の味が口に広がる。


 その時だった。突然この家のインターホンが鳴ったのである。


「あ? こんな時間に客……。あーそうだった、一人呼んでた子がいたんだった……。悪いんだけど朝日奈ちゃんさ、ちょっと隠れててくれない? ばれると厄介だと思うからさ」

「えっ、ちょ、急に何……」

「ほら言いから、隣のバスルームに隠れててよ。バラされたくないだろ? 言うこと聞けよ」


 漆原の圧に勝てず、部屋の隣に備わっているバスルームに促された。


 大きなベッドのある部屋の、その隣にバスルーム。つまりは、そういうための部屋なのだ、ここは。


 バスルームの隙間から、いったい誰が来たのか、恐る恐るのぞいてみる。


「やあやあ、待っていたよ。こんな時間にすまないね」

「……」


 漆原に案内されて、部屋に入ってきたのは、一人の少女であった。


 朝日奈さつきは目を疑った。


 その少女は、眞城プロダクション所属のアイドル……、まだ15歳の高校生の、四ノ宮しのみや 日向ひなただったのだ。

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