笑い話

仙石勇人

笑い話

■50代男性死亡、殺人事件か 凶器は見つからず

2023年11月20日夜、兵庫県神戸市長田区の横山克己さん(会社員・56歳)が、自宅近くの路上で何者かによって刃物で頭部や首を複数回刺され、遺体として発見された。県警は関係者に捜査を進めている。調べによると…


 隼也は、ニュースアプリの画面から逃げるように目を背け、スマホをダッフルコートのポケットにしまった。文章から惨状がイメージtとして立ち上がり、電車の揺れと相まって気分が悪くなる。先ほどまでの楽しい気持ちがいとも簡単に上書きされる。鳩尾がぞわぞわするような不快な気分を味わわせるだけに存在しているような記事。読まなければいい記事を無意識で開いてしまうクセを律したいと思いつつ、電車の窓から外へ目をやる。

 大阪駅が東に流れていく。

 運良く座れた二人がけの座席の傍に立つグレーの薄いジャンバーを着たおじさんが、なにか口の中でブツブツとつぶやいているが、電車の揺れる音が重なって聞き取れない。色褪せた阪神タイガースの野球帽を被ったそのおじさんは、吊り革を右手で握り、左手にワンカップ大関を掴んでいる。容器から、液体の表面が波打つのが透けて見える。

 何か危害を加えられたわけでもないが、反射的に顔をしかめてしまう。電車での飲酒は禁止してほしい。もしかしたら、もう禁止されているのかもしれないと、スマホで【電車 飲酒】と検索する。一番上に表示された『なぜ電車を禁酒にできないの?』というタイトルに、記事を開くまでもなくため息が出る。うっすら漂ってきた酒臭さが鼻をさわる。仮に禁酒されていたとして、自分はこの人に注意できるだろうか。

 電車の揺れがなだらかになると、「この国はワシがなんとかせなあかん」という声が聞こえた。よく見ると、股間のチャックが下がり、トランクスのえんじ色が覗いていて、うんざりする。こんなジジイに、なにができるものか。この国がこのおじさんをなんとかしてほしい。その気持ちが届くはずもなく、中年男性は吊り革から手を離して鼻をほじった。

「おもしろかったなぁ」

 生は違うなぁ、迫力あったなぁ、と隣に座る鷹村先輩がうなる。

「あの人らが一番好きやったな、ほらあのツッコミがメガネかけた、なんやったっけ、ほら」

 即座にコンビ名を答える。「さすが、詳しいなぁ」と賞賛を与えられると、こんなことでも反射的に誇らしくなってしまう。たしかに、今日の中では彼らが一番よかった。趣味の知識を褒められたことより、部分的でもこの人と同じ感性であることがうれしい。

 忘れんように写真撮っとかな、と、先輩はポケットから今日の公演のチケットを取り出して、スマホで撮った。シャッター音の直後、券面には、「よしもと漫才ライブ」と記入されている。しょっちゅう劇場に通う隼也は、はじめこそチケットを大事に保管していたが、今となっては公演が終われば、ゴミ箱を見つけ次第、躊躇なくのど飴の包み紙やティッシュと一緒に捨ててしまう。

「ちょっと、入って」

 鷹村先輩は、スマホのカメラを内向きにして構えている。枠内の左端に自分の顔を、それに少し重なるように中央にチケットを構図に入れた。開いた右側のスペースに、隼也は顔を収めた。

 軽い振動と共に、先輩のスマホの上端に、ヤマダ電機のアプリの通知が表示された。先輩は顔にたかったハエを払うようにそれを即座にスワイプして、シャッターを切った。鷹村先輩の首筋から、せっけんに似た香水の匂いがする。隼也は思い出したようにバッグから除菌シートを取り出し、自分のスマホを丸洗いするように拭いた。

 二十七歳の隼也は、自分が少しずつ「おじさん」という存在に変わっていく自覚をしつつも、そこに抵抗している。社会人になり、年を重ねれば運動不足になり、腹が出て、シミが増え、うっすらと悪臭を放ち、デジタル機器に疎くなる。これは、職場の先輩方を見れば当然の、いわば自然の摂理とすら思えてくる。ある日、自己啓発本を読んでいると、「人間は周囲の5人を平均した人間になる」という一節があった。その方程式に自らの周囲の環境を当てはめると、自分の容姿が崩れることは確定事項になってしまう。まだ、おじさんをおじさんと呼ぶ側でいたかった。

 ただ、おじさん化は今のうちから運動を習慣化し、食事に気をつかっていれば、理論上回避は可能だということも、違う本に書いてあった。事実、隼也は周囲からストイックすぎると囁かれるほどジム通いを欠かさなかったり、彼女の美鈴からは「しゅんくんウサギみたい」と呼ばれるほど野菜を毎食しっかりと食べた。

 アンチエイジングの旗印を掲げた日々を繰り返すうちに、いつしか「おじさん」を嫌悪の対象として見ている自分に気づいた。

 たとえば、部長が自分のデスクに来て指示を言い渡すとき、何げなくデスクに掌を置いて体重を預ける仕草も、気味悪く感じるようになってきた。こっそり、コンビニでもらったおしぼりの余りをキャビネットの二段目の引き出しから取り出し、部長が触った部分を、本人が席を離した隙に拭き取ることもある。

 隼也は、健康的な生活習慣によって自分の身体が内部から清浄化されていく反面、「汚さ」への嫌悪感が膨らんでいくのを自覚するようになった。不潔なものへの耐性が低いのに、それを警戒するあまり、不潔な物に目が行きやすいのが悩みだった。

 その点、鷹村先輩は、違った。

 すっかり過敏になった神経に触らない、稀有なおじさんだった。

 三ヶ月前、隼也は元々勤めていた食品メーカーから、現在のIT関連の会社に転職した。

 四十三歳の鷹村先輩は、一つ隣のデスクで、隼也の教育係を務めた。未経験の業界で精神をすり減らさずに半年やってこれたのには、この人の指導力によるところが大きい。

 鷹村先輩は、運動会の玉入れのように、隼也の頭にこの業界のいろはを放り込んでいった。

 この人の周りには、他部署からもアドバイスを求める社員が足を運ぶ。抱えている業務量が膨大であることは明らかなのに、そのひとつひとつに丁寧に対応していた。こういった親切で優秀な社員は、周囲からの信頼と引き換えに長時間残業を強いられる、というのが前の職場で隼也が見てきた通例だったが、鷹村先輩は効率良く仕事をこなして、ほぼ毎日定時で帰る。

 仕事ができるのはもちろん、腹や首周りは中年にしては珍しく引き締まり、精悍で清潔感があった。二人が今日のように休日にも出かけるほど親しくなったのは、たまたま通うスポーツジムが同じだったからだ。

 同僚との仲がさらに深まるというより、「スポーツジムでの鷹村」という別個の人物との仲を新たに深めていくような感覚だった。実際、初めてジムで鷹村を見た隼也は、彼を別人だと思って見過ごした。上部にぶら下がったバーを引き寄せて背中を鍛えるマシンを使用している最中、向かいのマシン越しに声をかけられたときは、混乱した。メガネをコンタクトに変え、シカゴブルズのタンクトップ姿から大砲のような腕を出しているその男性は、聞き覚えのある声で話していても、職場で知性を発揮して活躍する姿とうまく重ならなかった。

 パーマをかけた髪とフレームの太いメガネ、もみあげにつながったヒゲは、見ようによっては既婚者にふさわしくないチャラさが漂うが、隼也には柔軟で冗談がわかる彼の洒落っ気を体現しているアイコンのように捉えていた。

「これ、さっき言ってたマンガ」

 鷹村先輩が差し出したスマホには、夕方のお笑いライブの開演数分前にその魅力を熱弁していたマンガの表紙が表示されていた。

「読んでいいよ。右にスワイプしたらめくれる」

 隼也は、鷹村先輩のスマホを受け取る。自分のスマホより、ひと回り大きくて、目上の人間からの借り物ということもあり、手が馴染まない。何かの拍子に落とさないように気をつけなければ。

「電子書籍なんですね。さすが」

「紙だと置くとこ困るからな。すまんけどちょっと寝させて」

 鷹村先輩はシートに背を預け、目を閉じた。

 たしか昨日は奥さんの誕生日だと言っていたような。あまり寝ていないらしい。

 誕生日といえば、今日は俺の誕生日だ。隼也は人ごとのように思い出す。

 彼女の美鈴と一日過ごすつもりが、あちらの仕事を理由に会えず、別日に祝ってもらうことになった。

 浮気が頭にチラついた。そんな自分を女々しく思った。

 そのことを鷹村先輩に伝えると、「じゃあ俺が祝ってやるよ」ということで、昼から今日は二人で過ごした。難波の劇場でお笑いを観て、裏なんばで海鮮丼を食べた。チケット代と飯代はおごってもらった。誕生日に、職場の先輩に大阪で自分の趣味に付き合ってもらうのは、ありがたかったものの、どこかズレた誕生日の過ごし方のような気がした。

 一人で過ごすよりはマシだ。そして、この人はいい先輩だ。恵まれている、と言い聞かす。

 この漫画にあまり興味はなかったが、鷹村先輩が読んでいるものを読みたい、という気持ちがページをめくらせた。

 漫画自体、久しぶりに読む。仕事柄、ディスプレイに映る細かい字を見続ける時間が長いので、できればプライベートは目を休ませたかった。

 一コマが画面いっぱいに表示されるよう、拡大しながら読み進めた。

 万年補欠のサッカー少年が、ある日目の前に現れた悪魔と契約して、その力でインターハイ優勝を目指す、というストーリーは斬新だったが、それ以上でも以下でもなかった。これが、休みの日に「一巻のみ試し読み無料!」という、ネット広告を踏んで読み進めているなら、すぐやめてしまうところだが。

 ちらと横を見る。鷹村先輩はやすらかに寝息を立てている。この人が大きいサイズのスマホを使っているのは、漫画を読みやすくするためかな、と漫画の内容とは関係ないことを考える。

 電車の天井を見上げ、目を思い切りつむって、開いた。鼻から息が漏れた。画面に目を戻す。あとで感想を伝えられる程度には内容を把握しておかないといけない。

 画面をめくる。

 二話が終わる。

 三話の扉絵。

 三話の一ページ目。

 と、鷹村先輩のスマホが手の中で震えた。

 同時に画面上部から、

【なかむらみすず:今晩、たのしみすぎる!】

 と見慣れたアイコンで、LINEの通知が降りてきた。

 隼也は目を見開いた。そして、生気が頭のてっぺんから抜けていくような感覚に襲われた。

 間違いなく、美鈴からのLINEだった。

 電車が大きく揺れ、横に立つ野球帽のおじさんが「うお」と声を漏らしたのち、ワンカップ大関の中身が一滴、隼也の手の甲に落ちた。

 しかし、隼也はそれを拭うこともなく、先輩から預かった画面を見つめていた。美鈴からのLINEの通知は、彼をからかうように、画面の上端へ引っ込んで消えた。

 自分の知らないうちに、尊敬する先輩と彼女が連絡を取り合っていた。その事実に、彼は今打ちのめされている。

 五日前、美鈴のベッドで彼女は隼也の腕に抱かれながら、「ずっと一緒がいい」とつぶやいた。それは、ここ最近でもっとも幸福を感じた瞬間だった。その余韻は、長らく消えずに残った。

 鷹村先輩のスマホに表示されたLINEの通知を見るまでは。

 漫画どころではなかった。自分が今とるべき行動がわかりかねた。電車が速度を落とし、芦屋駅に着く。外気が流れ込んでくる。横に立つ野球帽のおじさんがワンカップ大関の中身をすする音が聞こえた。

 

                  ◆◆◆

 

「着きましたよ、降りましょう」

 鷹村先輩の肩を担いで電車からホームへ降りる。ホームの端で、二人になった。隼也に肩を担がれた鷹村は、まだ寝ぼけている。

 アナウンスが、人身事故による遅延を伝えている。

 機関銃を乱射したような貨物列車の走行音が、次第に大きくなりながら近づいてくる。隼也は、鷹村を大きな盾のようにして前に立たせ、背中に両掌をぴったりとくっつけた。

「短い間でしたが、お世話になりました」

 思い切り押された鷹村が視界から下へ退場し、轟音を鳴らしながら貨物列車が線路を横切る…鷹村の体が砕け散る…

 

                  ◆◆◆


 隼也は、そこで想像をやめた。横から、鷹村先輩の規則的な寝息が聞こえる。

 実際には、電車も降りていない。走行中の車窓は、さらに濃くなった夜に浸かった街を映している。

 こんなこと、生きていれば誰でも一度くらい経験することだ。たぶん。

 座席の後方から、べち、という音が聞こえた。次いで、ぱす、という音が聞こえた。べち、ぱす。また鳴った。なんの音だろう。どうでもいい。

 俺は、この二人の浮気を見逃す。その代わり。

 隼也は、視線を下げる。鷹村先輩から預かったスマホには、相変わらず漫画が表示されている。

 隼也は電子書籍アプリを閉じ、ちらと鷹村先輩がまだ寝ているのを確認して、LINEのアプリを開き、「なかむらみすず」とのトークルームをタップする。

 浮気されたんだ。覗き見くらいさせてくれ。

 既読がつくけど、もし問いただされたら、たまたま手が反射的に通知に触れたと言おう。そもそも先輩の方がは重罪だ。謝るべきはあなたの方だ。僕にはあなたを責める権利がある。

 貨物列車が並走し、ガタガタと激しい音が聞こえ続け、しばらくして去る。

 べちぱすべちぱすべちべちぱす。また後方から音がする。だからなんの音なんだよ。どうでもいいけど。

 視線は、一番下の最新のメッセージから、上へと遡る。



【なかむらみすず:今晩、たのしみすぎる!】

【鷹村雅人:今から5分後に、例のラインして。】

【鷹村雅人:そうしよう。うちの嫁さんも同席で、最高のプラン考えよう!】

【なかむらみすず:私も、こんなに安心できる彼氏と付き合えたの初めてなんです。いつもワガママ聞いてもらってるから、お祝いは妥協したくなくて。じゃあ、今度の料理教室のときに打ち合わせしましょっか。】

【鷹村雅人:じゃあ、うち使っていいから、合同で祝おうよ。あいつ、マジがんばってるからさ。ほんと、よくやってると思う。しっかり祝ってやりたいんだわ】

【なかむらみすず:鷹村さんも天才です! それでいきましょう! あ、ケーキの前に牛肉のトマト煮食べさせてあげたいな】

【鷹村雅人:天才。あ、俺いい方法思いついた。当日は、まず俺と隼也の二人で会う。で、浮気発覚で下げてからの、ドッキリ大成功で、プレゼントでケーキ渡すってのは?】

【なかむらみすず:なるほど! じゃあ、浮気匂わせてみるってのはどうですか? 私と鷹村さんがデキてるっていう】

【鷹村雅人:あいつの誕生日にさ、あえて美鈴ちゃん仕事だからって理由でドタキャンすんの。それでさ、テンション下がるじゃん。で、当日にサプライズで祝う。】

【なかむらみすず:どうやるんですか?】

【鷹村雅人:イメージとしてはさ、一回下げて、上げたいんだよね】

【なかむらみすず:いいですね! やりましょう!】

【鷹村雅人:あのさ、サプライズしかけるのはどう?】

【なかむらみすず:初耳です! シャインマスカットのケーキ買ってあげよ♪】

【鷹村雅人:あいつ絶対好きな味だと思う。あ、隼也喜ばせたいならヒント。シャインマスカット好きって言ってたから、今度の誕生日、買ってあげて】

【なかむらみすず:わかりました! 今日教えてもらった牛肉のトマト煮込み、しゅんくん美味しく食べてくれたらいいなぁ】

【鷹村雅人:うちら夫婦、スマホにロックかけてないから笑 隠し事なしなの。お互い友達として気楽にやりとりしよう!】

【なかむらみすず:ほんとに。まさかしゅんくんの先輩だなんて…縁ですね! というか、私とLINEしてて大丈夫ですか? なんか奥さんに悪いような…】

【鷹村雅人:うちはゆるくやってるから、無理せず好きな時に参加してね。でも、ほんと奇遇だよね】

【なかむらみすず:こちらこそありがとうございました! 友達の誘いで参加してみたんですけど、みなさん良い人そうで続けられそうです!】

【鷹村雅人:今日は、料理クラブ参加してくれてありがとね!夫婦で細々とやってるけど、よかったらまた来てね。】


「よく寝た」

 眠そうな顔をつくりながら、先輩が目を開けた。

 急いでスマホの電源を消して、返す。

「設定が、いいですね」

 と気の入っていない声で漫画の感想を伝えた。先輩は微笑みながらスマホを受け取る。

「僕も寝ます。着いたら起こしてください」

「いいけど、あと一駅だぞ」

 ダッフルコートを脱ぎ、顔に被せて寝たふりをした。

 心から幸せなときに、怒りと落ち込みを混ぜた表情ができるほど、演技に自信がないから。

 上着で顔が隠れると、思う存分ニヤついてやった。昼間観た漫才のキラーフレーズを思い出して、顔のニヤつきに追い討ちがかかる。笑いを噛み殺す。感情は、いとも簡単に上書きされる。

「おい、あれ、大丈夫かよ」

 先輩が何か言っている。にわかに、車内がざわついている。

 べちぱすべちぱすべちべちぱす。布一枚隔てたのに、先ほどよりも大きくその音が聞こえる。

 あ、これ殴り合いだ。

 そう気づいた途端、「キャー!」と女性の大きな叫び声がした。車内はしん、と静まり返り、電車の走行音だけが聞こえた。

 恐る恐る上着を顔からずらして、目だけ出して振り返る。

 約三メートル後方の出口付近で、薄手のダウンジャケットを着て、油気のない髪を目のあたりまで伸ばした小太りの男性と、グレーのスーツを着てマスクをつけた細い男性が、肩で息をしながら向かい合っていた。これだけならただの喧嘩だ。

 しかし、スーツの男性の手元を見て、血の気が引いた。

 彼の手に握られていたのは、刃渡り十五センチほどの包丁だった。

 スーツの男性の目は、包丁の切っ先のように冷たい目で前を見据えていた。その目線に、首先がぞわりとする。まるで、自分の首筋に包丁を刃を沿わされたように。

 頼むから、奴を刺激しないでくれ。

 声に出さずに、この場の乗客全員がダウンジャケットの男性に祈っていた。頼むよ、俺、誕生日なんだよ。これ切り抜けたら、お祝いしてもらえるんだよ。

 何を思ったか、小太りの男性が手に提げていたトートバッグを振り回して、スーツの男性に攻撃をしかけた。が、トートバッグは手からすりぬけ、半円状に宙を飛んで、ぼさりと落ちた。ダウンジャケットは情けない顔でそれを見つめていた。

 スーツの男性は、目尻に笑みを寄せ、包丁を振り上げた。車内に一瞬で絶望感が伝染する。やめろと誰かが叫んだが、彼は意に介さない。

 その瞬間、隼也は、目の前を、「なにか」が物凄いスピードで通り抜けていくのを見た。それは、スーツの男性の手元に吸い寄せられるように直進した。

 「がっ」という短い悲鳴と鈍い音がして、包丁が床に落ちた。

 男性はもう一方の手で「なにか」がぶつかった手を抑えながら、苦悶の顔をしていた。

 乗客の男性のひとりが、隙を見て飛び出し、スーツの男性は後ろから取り押さえられた。尼崎駅で駅員に連行されるまで、床に落ちた包丁と、ワンカップ大関の空き瓶を不思議そうに眺めていた。

 

 駅を出ると、初冬の寒さが住宅街から吹き付けてくる。

 案の定、鷹村先輩からは「うち寄ってけよ」と誘われた。

 暖色の街灯に照らされた道中を歩く。

 あのくたびれた野球帽のおじさんに握手してもらった右手でスマホを握りながら、先ほどの出来事をどう話せば美鈴は笑うだろう、と隼也は考える。

 

<了>

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