水面の向こう

津多 時ロウ

水面の向こう

 とぷん、と音がして目を開いた。

 泡がブクブクと昇っていく。

 目の前で天藍が揺れ、けれど私の周りはどこまでも透明だった。

 眠りに就く一瞬のいつもの光景は、やはり今日もいつも通りで、疲れた私をどこまでも暗く、深く、水底へと沈めてくれる。


 朝、家を出て帰宅するまでの時間、いったい私はどれだけの色を塗りたくられているのだろうか。

 通学路でクラスメイトに塗られ、授業が始まれば先生に塗られ、帰宅中に買い物などすれば店員にも塗りたくられていく。

 或いは、朝起きたときから、それはもう始まっているのかも知れない。

 だから、私は一日が終わるたびに、塗りたくられた色の重みで、もうすっかり疲れ果ててしまうのだ。


 そうして塗りたくられた色は、ただ唯一、この場所だけが洗い流してくれる。

 眠りに落ちる前のこの一瞬だけは、塗りたくられていない私になれる時間だった。

 だけど、たまに不安になる。

 塗りたくられる前の私は、果たして何色だったのだろうかと。子供の頃の私は、何色だったのだろうかと。本当の私は、何色なのだろうかと。今日の私は、上手に塗りたくられていたのだろうかと。


 私は、何色になりたかったのだろうかと。


 今日も一日が終わり、私は色の重みから解放される。

 耳をすませば波の鼓動が静かに聞こえ、昼間の騒がしい色を忘れさせてくれた。

 ここは、私が透明になれる秘密の場所。

 ここは、私が私でいられる唯一の場所。

 今日も体を沈め、水面の向こう、揺れる青を見る。

 今日も体を沈め、水面の向こう、揺れる白を知る。

 そうしながら、どこまでもどこまでも深く、深く、深く、体を沈める。

 透明になるまで。自分の色が分からなくなるまで。


 だけど分かっているのだ。

 本当の私は、水面の向こうに行きたがっていることを。

 だけど分かっているのだ。

 水面の向こうでも、色を塗りたくられることを。


 それでもなお、私は今日も深く沈み、暗闇に潜む。

 色を嫌い、色を落とし、けれど自分で自分を塗るために。



『水面の向こう』 ― 完 ―

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水面の向こう 津多 時ロウ @tsuda_jiro

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