■シーンⅢ 冷儀-Reigi-

 ――――何故こんなことになったのか。


 人間だった頃は誰もがNOISEの男を下位の存在と見做し、侮り、無視するか、或いは嘲笑してきた。オタク。金づる。サンドバッグ。足係。歩く財布。それが男の代名詞だった。群れるしか能のない馬鹿ばかりの大学では自分のような崇高な頭脳の持ち主は迫害されるものだと頭ではわかっていたが、無能な輩に付き合わされるのは楽ではないと、迫害されながらも周囲の全てを見下していた。

 そんな退屈な人生に転機が訪れた。都内で唯一深淵接続が試せる漫画喫茶。其処で深淵接続を試みたとき、男の鬱屈とした世界が開けたのだ。

 ログインした直後、目の前にどこからともなく幼い少女のアバターが現れて、男に《銀の靴》を一つ手渡した。誰が操るアバターかは知らないが、深淵接続で使用するなにかのアイテムだろうと思い、疑わずに受け取った。男が手に取った瞬間、それは無数の英数字群と化して男を包み込み、抵抗の間もなくするりと頭に入り込んできて――そして。


『ガッ……! ァ……?』


 普通であれば脳を破壊しても可笑しくない情報群が、一瞬で脳内に叩き込まれた。深淵接続の最中でありながら激しい頭痛と吐き気、目眩に襲われ、椅子に固定されている男の体がガクガクと痙攣している。電脳空間に潜り込んでいる男の精神体もその場に蹲り、吐き気を耐えるように肩で大きく息をしていた。

 深淵接続はVRチャットとは違って五感の再現もリアルにされているが、痛覚等はショック死を防ぐために精々静電気程度を上限としているはずだ。それなのに男は、頭を分厚い金属板に叩きつけられているかのような激しい頭痛と胃袋を鷲掴みされているような吐き気に襲われた。一瞬、現在地を電脳ではなく現実だと誤認するほどの衝撃だった。


『ハァ……ハァ……ゲホッ…………』


 それから、どれほどの時間が経ったのか。次に男が顔を上げたときには謎の少女のアバターは何処にもいなかった。

 だが、そんなことは最早どうでも良かった。胸の奥から沸き立つ高揚感と圧倒的な全能感が男を支配していた。やはり自分は優れた存在だったのだと確信した。

 衝動のままに叫びながら駆け出したい気持ちを抑え、男はまず深淵接続を解除して自分のスマートフォンを見た。

 案の定、其処にはこれまで男を金づるとして使ってきたグループからの呼び出しがあった。


『キヒッ……ヒヒッ』


 口角が歪につり上がるのを感じながら、男は過去の惨めで無様なサンドバッグ役であった自分を演じて、怯えるふりで承諾した。これがメッセージツールで良かった。通話だったら声に笑いが滲み出てしまっていただろうから。

 件のグループの男たちは、いつもひと気の無い路地裏にある廃店舗を遊びの舞台に選ぶ。其処なら扉に鍵がかけられる上に表通りから離れているため、獲物がどれほど泣いても、叫んでも、お節介な人は現れない。

 それはつまり、NOISEの男にとっても好都合だということ。

 おどおどと怯える演技をしながら現れた男を、ニタニタ笑いながら複数の男が取り囲む。誰もが派手な身形をしていて、ギラつく品のないアクセサリが耳や指や首元で輝いている。


『オタク君、わかってるよね?』


 正面に立つ、リーダー格の男が手のひらを見せてなにかを催促する。


『オレらのお友達代、今月まだだっただろ?』

『う、うん……いま払うから、だから……』

『はい時間切れー! ぎゃははっ!』


 怯えながら財布を出そうとした男の頬を、ガツンと鈍い衝撃が襲った。シルバーの指輪が輝く拳が不格好に振り抜かれている。以前は恐ろしくて仕方なかった痛みも、いまはなにも感じない。いままでこんな連中に怯えていたのかと思うと、可笑しくて仕方なかった。


『へ、へへ……』

『はぁ? なに笑ってんだコイツ』

『怖くて壊れちまったんじゃねーの? このキモオタにヤクやる度胸はねえだろ』

『だよなぁ。つーかキモいから笑ってんじゃ――――』


 黙らせようと振り上げた手が、恫喝の語尾が、不自然に途切れた。

 ゴトリという重い音がして、それから、ゴロゴロとなにかが転がる音がする。

 先ほどまでニヤニヤ笑っていた派手な男たちが、突然凍り付いたように固まった。どれもこれも、揃って間抜け面だ。


『は……?』


 殴りかかろうとしていた男の右腕と頭部が、床に転がっていた。

 半笑いの瞬間に切り落とされた首が、不格好な表情を張り付けたまま、天を仰いでいる。まるで自分が死んだことにも気付いていないような、無様な間抜け面で。

 男たちは、暫くなにが起こったか理解出来なかった。理解出来るはずもなかった。

あのオタクが、反撃するどころか、反論することすら出来なかった弱者のオタクが、自分たちに刃向かうなどあり得ないのに。足元に転がっているのは紛れもなく仲間の一人で。


『なあ! お友達代、払ってほしいんだろ!? なあ! なあ! お友達なら遊んでくれるよなあぁ!?』

『ヒィッ!』


 顔を上げた男たちは、目尻に涙を浮かべて震え出した。

 耳元までつり上がった口、肥大化した腕に、獣のような爪、頭部から生える無数の角と、暗灰色の毛皮。見る間に膨れ上がっていく体は、貧相で惨めだったオタク男の名残など欠片も見られない。

 現実にあり得てはならない化物の存在に、男たちは引き攣った声を漏らして尻餅をついた。黒いスラックスの股間が、じわりと変色する。


『うわあっ!』


 殆どが動けずにいる中、一人が仲間を見捨てて逃げようと扉に駆け寄った。


『おいおいおいおい! お友達を見捨てたりしたらだめだろお!? お前ら、いつもつるんでる仲良しだもんなぁあ!?』

『ぎゃぶっ!』


 男の背中から胸へ、獣の腕が貫通した。貫かれた男は一度ビクンと大きく痙攣し、そのまま息絶えた。獣は死んだ男を人形劇の人形のように腕にぶら下げたまま、逃げ遅れた男たちに向き直った。


『お前らがしてきたように、今度は俺がお前らを支配してやるよ』


 乱暴な幼児が人形にそうするように、手足を千切り、首を引き抜き、胴体を絞り、放り投げて、踏みつけて、叩きつけて、何度も何度も何度も叩きつけて叩きつけて。叩きつけて叩きつけて叩きつけて叩きつけて。

 人の原型が失われて、漸く遊ぶ手を止めた。

 拳を床から離すと、ねっとりとした赤い糸を引いた。血液だけでなく、叩き潰した組織がペースト状になったものだ。人間には骨があるはずだが見たところそれらしき破片はない。どうやら知らぬ間に、肉や内臓と一緒に磨り潰してしまったらしい。

 廃店舗内に、獣の荒い息遣いだけが響く。血に塗れた壁と床、そして天井が、埃を被って薄汚い灰色になっていたことも忘れて、鮮やかな赤一色の化粧を纏っている。

 それから、死んだ男たちのお仲間やセフレの女たちを呼び出しては蹂躙してきた。金づるの男が居場所を知っていると言えば、ちょっと遊んでやるだけで吐くだろうと思って会いに来るのだ。

 散々自分を見下してきた女にいきり立つものをねじ込んで腹を突き破ってみたり、自分をサンドバッグにしてきた男を天井から吊して、同じようにサンドバッグとして遊んでやったり、頭から汚物をかけて雑巾野郎と呼んだ男を雑巾絞りしてみたり。

 さすがに殺しすぎて管理局とやらに見つかったときは焦ったが、ソルジャーなどというわりには大した使い手はいなかった。誰も彼も男の再生力を超えられず、惨めに死んでいった。

 もう、なにも恐れるものは無い。この力があれば、何だって壊せる。支配できる。不安も恐怖も、全て克服した。全ての弱者を支配できる。


 そう、確信したのに――――

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