色の女

コラム

***

ある日から、俺は彼女の幻覚をよく見るようになった。


人が多い場所ではあまり見ないが、静かな場所にいればほぼ確実に現れて話しかけてくる。


つまりこれが呪われるということなんだろう。


もう彼女は死んでいるのだ。


けして天に召されることのない、自分の中にある記憶の形。


彼女が語りかけてくる。


「あなたは性格的に青だよね。誠実、冷たい、憂鬱って感じがするし」


今日も色の話か。


「私は黄色かな? ほら、自分で言うのも変だけど、私って快活で明るい能天気なタイプじゃない」


彼女は生前に建築会社で働いていた。


カラーコーディネーターの資格を持ち、何かと色の持つイメージや組み合わせを考えては、楽しそうにしていた。


「あー、また色の話だとか思っているんでしょ。顔でわかるよ。やれやれって頬に書いてあるもん」


当然、思っている。


「別にいいもん。聞いてくれなくても勝手に話すから。色ってのはね。混ぜることで新しい色と意味を持つんだよ」


何度も聞いて知ってる。


「赤と青を混ぜると紫。これは上品、女性的、厳粛、神秘、妖艶のイメージ。赤と黄色は混ぜたらオレンジだよね。これは朗らか、カジュアル、あたたかいとかだったかな」


まるで何もない空間にパレットでもあるかのように、彼女は手を動かしながら話を続ける。


幻覚は幻覚でも、さすがにパレットや絵の具は具現化されない。


「さて、ここで問題です」


いつもの問いだ。


このパターンで一体何を言うのかも、その答えも知っている。


「あなたのイメージ色である青と、私のイメージ色である黄色。この二つの色を混ぜる何色になるでしょうか?」


俺は答えない。


わかっていても口には出さない。


「ブブー。時間切れです。答えは緑! イメージは調和、さわやかな、平穏とかの意味を持つ色だよ」


自ら黄色がイメージ色というだけあって、彼女はいつも快活だ。


元気いっぱいに声を出し、動作もいちいち大袈裟で、まるで幻覚とは思えないほど。


「じゃあ、この緑色をそれぞれ元の色に戻したいとして、それがとっても難しいということはわかる? わかるよね? だって、できなかったからここにいるんだもの」


色の話の最後は、いつもこの言葉で締めくくられる。


「あなたはもう、私と出会う前のあなたには戻れない」


ああ、その通りだ。


俺はもう、彼女と出会う前の自分には戻れない。


「おはようございます」


部屋に人が入ってきた。


白衣姿の中年男性。


俺の世話をしている人間だ。


笑顔は多いが、しわも多い。


声の張りや動作から察するに実は若い感じがするが、気苦労が絶えないのだろう。


目の下にもクマがあり、会うたびに漂わせている疲労感が増えていってる気がする。


今日もいつも通りの時間に食事を運んできた。


「体調はどうですか?」


どうということもない。


俺は健康で、すぐにでも働ける。


あんたのほうが余程体調が悪そうだ。


しかし、わかってはもらえず、もうしばらくは安静にしているように言われている。


この部屋に来て数日、いや数ヶ月だったか?


考えているともっと――数年間ずっとこの部屋にいる気がしてくる。


「彼女は今、傍にいますか?」


男が訊いてきたが、気がつけば彼女の姿は消えていた。


いつものことだ。


誰か他の人がいる時に彼女が喋りかけてくることは、これまで数えるくらいしかない。


俺は首を振り、今はいないと態度で教えた。


男はうんうんと頷くと、笑みを浮かべたまま部屋を出ていった。


去り際に、食後は薬を飲むことと、午後に散歩があるのでまた来ると言っていた。


今日の朝食は、サンドイッチと200mlの紙パック牛乳だ。


食べ終えた後、トレーはそのままでいい。


大体は次の食事の時に回収されていく。


サンドイッチには野菜や肉が入っている。


日によっては魚の時もあり、俺の舌がおかしいのかあまり味がしない。


しょうがないので食べるのだが、本当にただ栄養を取っているだけ、もっと言えば空腹を満たすだけの食事はわびしい。


朝食を食べ終え、ベットから体を起こして棚へと手を伸ばす。


ベットサイドの棚にはキャスターやタオル掛けが付いており、水と薬が中に入っている。


ここへ俺が来たばかりの頃には、テレビや冷蔵庫もこの棚に設置されていたが、使わないとわかると外された。


棚を開けて水と薬を手に取って飲み込む。


それから再び横になると、急に目の前に彼女が現れて変な声が出そうになった。


「“色彩は、それ自体が、何かを表現している”」


彼女がつぶやいた。


微笑みながら、驚く俺を見て嬉しそうに。


「フィンセント·ファン·ゴッホだよ。名前くらいは知ってるでしょ?」


自分の耳たぶを切り落とすという事件を起こし、病院に入れられた画家だ。


しかもその耳たぶを女に渡したとか。


いや、それよりも生前に評価されなかった画家。


または弟に経済的負担をかけ続けたことを苦にして自殺した人物と言ったほうが有名か。


「このゴッホの言葉の意味が、あなたには理解できるかな?」


俺は返事をしない。


それでも彼女は、気にせずに言葉を続けた。


色彩は、人間の心理面にも影響を与えるという。


例えば、赤一色で塗られた部屋にいると情熱的な気分になったり、青一色の部屋にいればなんとなく寒さを感じるだろう。


緑は落ち着きを与えるし、黄色は子供っぽい無邪気さを感じさせる。


赤をじっと見ている人間は、興奮しやすくなるという話を聞いたことがある。


彼女がいうには、自分が接している色彩から、知らないうちに影響を受けているということらしい。


それだけの力を持つ色彩を絵で使うとき、相当な表現力を発揮するだろう。


つまり、色彩はそれ自体で何らかの表現力を持っているということだ。


これを理解していたゴッホは、チューブから絞り出したままの原色を使って絵を描いた。


また原色が一番引き立つ組み合わせの色彩で絵を描き、自己の思いを強烈に表現した。


「赤、青、黄、緑、オレンジ、紫――それぞれの色はそれ自体で表現性を持ち、となりに置く色によっては見え方が違ってくるの。汚く見える色も組み合わせによっては美しく調和する。これってある意味じゃ人間と同じよね。そう思わない?」


この話も何度も聞いて知っている。


何度も問われている。


普段は何も答えないが、今日の俺は何か言いたくなった。


「でも、ゴッホは死んだ。絶望したんだ。この世界や人間に……」


「誰でも感情的になってしまうってことがあるでしょう? ゴッホはそれが長かっただけ。どんな人でも同じ色に染まり続けたら、終わり方は似たような結果になるものよ。幸せな家族がどこも同じに見えるようにね」


「……俺はおかしくなってしまったのかもしれない。ずっと君が見えてる……。このままじゃゴッホと同じになっちまう……」


「ほらほら、もうすぐ散歩の時間だよ。気分を変えれば心の色も変わるって。いってらっしゃい」


彼女の姿が消えていくのと同時に、部屋に人が入ってきた。


さっき朝食を持ってきてくれた中年男性だ。


数時間前に会ったときと変わらず笑顔なのだが、やはり疲れた顔をしている。


男は俺に挨拶をすると、部屋の隅にあった折りたたまれた車椅子をひろげ始めた。


この部屋を出るときは、いつもこの車椅子で男が俺を運んでくれる。


「今日はいい天気ですよ。空も青くて、お散歩日和です」


笑顔からさらに深く微笑むと、男は俺を車椅子に乗せた。


何かの間違いで落ちないように、車椅子に手足を固定して部屋を出ていく。


部屋と同じく白い空間が広がっている。


廊下で人とすれ違う。


みんな男と同じく疲れた顔をしている。


中には露骨に不機嫌そうな顔をしている人もいる。


外へ出た。


木々の緑と青い空、白い雲、そして同じように車椅子に人を乗せてそれを押す男たち。


俺と同じように散歩に出ている人たちの姿が見える。


人が多いのに静か、とても静かだ。


部屋の中と変わらない。


誰も言葉を交わさない。


軽く会釈するだけだ。


「少しやることがあるので、ここで待っていてください」


男はそう言うと、俺を置いて車椅子を離れた。


理由はわからない。


正直どうでもいい。


「綺麗な光景だね。自然がいっぱいって感じ」


また彼女が現れた。


俺の目の前ではしゃぎながら周囲を跳ねている。


少し離れているせいか、周りにいる車椅子の連中には、彼女が見えていないようだった。


「俺は君とは違った……。違ったんだ……」


俯きながらつぶやく。


もう勘弁してくれと、今にも泣きそうな声を出す。


「たしかに違ったけど、でもそれは失敗しただけで同じだよ。……別にいいじゃない、私がいなくたって……。どんな世界にも楽しいことはあるよ。あなたは生きてるんだから」


「世界が楽しいなら……どうして君はってしまったんだ……」


俺は抵抗するように言った。


「私が見えているのは、統合失調症のせいかもしれないね」


彼女は足を止めて俺のほうを振り返る。


まるで恋人がやるように、前屈みの姿勢になって上目づかいで見てくる。


「今飲んでいる薬を、もっと強いものに変えてもらえばいいんじゃないかな。そんなに私のことが嫌いならさ……」


「嫌いじゃない……。ただ、たまに恐ろしくなる……。君が消えると、自分が自分じゃなくなるんじゃないかって……」


「面倒なところは変わらないね。あなたって、本当に難儀な性格をしているよ」


彼女は、やれやれといった様子で首を左右に振った。


色の三原色には、一般に赤、青、黄の三つの色をさす。


これらの色は混合すると明度が低くなり、色の三原色を同じ濃さで混合すると黒色に近い色になるらしい。


黄色の彼女と青色の俺。


そこに赤が混じると黒くなる。


今の俺には光がない。


黄色の彼女が赤色を浴びて、青色の俺が混じり合ったせいだ。


ここにある部屋に入ってから、今年で俺は七十歳になるらしい。


鏡を見ないので今の自分の姿はわからないが、現れる彼女はあの頃のまま――美しいままだ。


次の日の朝――。


彼女が語りかけてくる。


「あなたは性格的に青だよね。誠実、冷たい、憂鬱って感じがするし」


今日も色の話だ。


「私は黄色かな? ほら、自分で言うのも変だけど、私って快活で明るい能天気なタイプじゃない」


何度も聞いて……知ってる。


そして色の話の最後は、いつもこの言葉で締めくくられる。


「あなたはもう、私と出会う前のあなたには戻れない」


ああ、その通りだ。


俺はもう、彼女と出会う前の自分には戻れない。


苦しかったはずなのだが、どうしてだかこのところは、悪くないと思うようになった。


〈了〉

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