第3話
翌日。
目が覚めると日がのぼったばかりの清々しい早朝だった。
洗面台で顔を洗って軽くメイクをする。いつもはしないけれど、今日は気合を入れたかった。
街娘っぽいワンピースを着て、外套を羽織り、動きやすい靴に履き替える。
いつも通り厨房に赴いて、パンを何個かいただく。私の今日のご飯だ。パンを巾着に入れ終わると、秘密の裏口へと急ぐ。
──さようなら、お父様。
裏口を通って走る。ザックレー家に背を向ける。私にはもう、どうすることもできなかった。
◇◇◇
早朝の広場は人がおらず、がらんとしている。通り抜けてパン屋への道を辿る。もう私はクリスじゃない。私は今日からクロエだ。
階段をのぼって部屋の前に立つと、背後に気配を感じた。普通では無いこの雰囲気からだいたい相手は想像できた。何も知らないような顔をして振り向くと、笑みを浮かべたライオスと視線が交錯した。
「おはよう、クロエさん」
「あなたは……昨日の!」
自分の演技に感心する。少し警戒して、うつむき加減に体を強ばらせる。
「なんで名前知っているんですか?」
「このパン屋、僕がオーナーをしているんだ。従業員の名前は知っておかないとね」
意を決して顔を上げると、ライオスが満面の笑みで私をみつめていた。しかし、その瞳は黒く染まっていて、昨日の面影を微塵も感じさせなかった。
「あれ、瞳が変わってる……?」
「何かと面倒だからね。魔道具で普段は瞳の色を変えてるんだ」
ライオスは右手のピンキーリングを見せてつぶやいた。
「へぇ、指輪の形の魔道具もあるんですね」
「…………っ」
興味から身を乗り出して彼の手を取ってじっくりと眺める。わざとらしい咳払いが聞こえて、慌てて手を離すと、少し頬を染めたライオスが私をみつめていた。
「その言いようだと他の形の魔道具を知っているのかい?」
「はい。私の魔道具はピアス型ですから」
「見てみたいなぁ」
「オーナーならこれから多くご覧になれると思いますよ」
巾着から徐に鍵を取り出す。
「荷解きがあるのでここで失礼します」
「引き留めてすまない。また後で」
(あれ? また後でって何だろう)
聞かなかったことにして、鍵を回して今日からの新しい自室へ足を踏み入れる。部屋は、昨日のまま、棚とその横にブーツが置かれている。部屋にはベッドと棚、机に椅子、玄関の隣に備え付けられた扉の向こうには、トイレとシャワー、洗面台が置かれていた。
外套を脱いで、机に置く。巾着から実家の荷物を取り出して、各々セッティングする。ただドレスは嵩張るので巾着に入れっぱなしにしておいた。一通り荷解きが終わると、靴を履き替えて、ピアスをつける。視界に入る髪の色が茶色に変わったことを確認したら、髪を一つに結ぶ。飲食店で働くので、できるだけ衛生面に気を遣いたい。
しっかり部屋を施錠して、パン屋へ出勤した。
「いらっしゃ……あれ?クロエじゃないか」
「店長、おはようございます」
「仕事は明日からじゃなかったのかい?」
「はい。ですが荷解きがすぐに終わったので、すぐ仕事に取り掛かりたいんです」
「やる気があるね、助かるよ」
店長はそう言うと、作業室の奥へ行き服を渡してきた。
「これがこの店の制服だよ。そこでいいから着替えておいで」
さっき店長が出てきた部屋を指差して言った。
渡された制服は黒色のワイシャツに茶色のサロンエプロン、そして黒いロングスカートだった。なんというか、センスがいいな。ジャムおじのくせに。
爆速で着替えて店に戻ると、ちょうど店長が誰かと話しているところだった。
「あ、ちょうどいいところに。クロエ、こっちにおいで」
店長が手招きして私を呼び寄せた。
「なんでしょうか」
「彼はテオくん。うちの仕入れ先の卸さんだ。クロエは年も近いし仲良くできると思うよ」
テオと呼ばれる青年と目が合う。橙色の髪に私と同じ碧眼の瞳、そこそこ整った顔立ちをしている。
「テオです。初めまして」
「クロエです。今日からこのパン屋で雇っていただけることになりました。よろしくお願いします」
挨拶すると、テオが興味深そうにみつめてきた。
「若いのにしっかりしてるんだなあ。歳は?」
「今年で十五です」
「そうか、俺は十八だから少し年上だな」
「テオくん。これからはクロエに卸のことを頼むから、世話してやってくれるかい」
「もちろんです」
テオに頭を下げる。
「これからよろしくお願いします」
「クロエ、これからよろしくな。では俺はこれで」
ニカっと爽やかに笑い、私の頭を撫でると手を振って店を出ていった。
活発で明るい青年だ。きっと情に厚い性格だろうとわかる。
「おぉ、クロエ。制服、似合っているね」
「ありがとうございます。とっても可愛いです」
「オーナーがデザインしてくれたんだ」
「そうなんですか」
「もうすぐ客が大勢来る。クロエには接客をお願いしたいんだけどいいかい?」
「はい。勘定もできるので任せてください」
「それは心強いね、助かるよ」
店長は本当に温和な人格の方だった。店長が厨房でパンを焼いて、私がそのパンをカウンターにセットしていく。そんな時間の雑談で得た情報によると、店長は既婚者で子持ち。二階の従業員の部屋を借りておらず、マイホームで家族と暮らして出勤しているそうだ。
──カランコロン。
扉の上に付いた鐘が鳴る。
「あ、お客さんが来たようだよ。クロエ、行けるね?」
「はい、店長」
一人のマダムが店へやってきた。
「いらっしゃいませ!」
満面の笑みで接客する。
「三点で1シルバーになります。1シルバーちょうどいただきます。少々お待ちください」
紙袋に素早くパンを詰めて、にっこりと笑顔を作り、手渡す。
「ありがとうございました!」
深々とお辞儀して終了。
「すごいねクロエ。接客、完璧じゃないか」
「ありがとうございます!」
「これからは接客、クロエに任せても大丈夫だね」
続けて、客の来店を告げる鐘が鳴る。
「さぁ仕事仕事。頑張ろうね」
そう言って店長は奥の厨房へ引っ込んでしまった。
「いらっしゃいませ!」
それから昼食のピークが過ぎるまで慌ただしく仕事に取り組んでいた。
「おつかれ。大変だったね」
店長がマグカップにコーヒーを入れて、持ってきてくれた。
「はい。正直すぐに時間が経ったように思えました」
「ありがたいことにパンは全部売れたから今日は午前で終わりだよ」
「では午後は何を……?」
「明日のパンの生地を作ったり、新メニューを考案したりするよ」
「まぁ、新メニューですか」
このパン屋には普通の丸パンや食パン、クロワッサンなど豊富な種類のパンが置いてあるけれど、菓子パンの類が一つもない。RPG世界だからなのか、甘いものはそんなに高価ではなく庶民にも手が届く価格設定だ。ケーキやクッキーを売っている店を見かける。
しかし、菓子パンの文化はないようだ。これ、使えるのでは……?
「店長、私実は新しいパンのメニューで思いついたことがあります」
「ほう、どんなメニューかね」
私はメロンパンやチョココロネなど菓子パンの情報を店長へ手振りを交えながら説明した。
みるみるうちに目を見開き頷く店長に、手応えを感じる。
「クロエ、かなり画期的で面白いアイデアだと思うよ」
「ありがとうございます」
「このアイデアを他の誰かに話したことは?」
「ありません」
「そうかい、ありがとう。せっかくだから今から作ってみようか」
それから料理教室での手順を思い出して作っていった。途中店長に分量の目安を聞いたりして、なんとか出来上がった。
「試作品一号だね。味はどうかな?」
「どうぞ」
素早くパンを切り分けて店長に差し出す。
「うん……うんうん! これすごく美味しいよ」
「本当ですか?」
「クロエも自分で作ったんだ。食べてみなよ」
切り分けた一つを手に取って食べる。
うん、プロには負けるけど素人にしては美味しい味だ。
「美味しいです!」
二人で改良点を議論していると、
「君たち、もう店の就業時間だよ」
従業員用の入り口から聞こえる声にビクッとする。
「これはこれはアシュリー様。お久しゅうございます」
隣を見ると、店長が帽子をとってお辞儀していた。
ならってお辞儀しようとすると、ライオスが手を出して、しなくていいというジェスチャーをした。
「甘い香りがするな。これはなんだ?」
ライオスがさっき作ったメロンパンを指差して私を見つめた。
「開発中のパンでございます」
「ほう、きみが作ったの?」
私が黙っていると、店長がおずおずと口を開く。
「その通りです。あの、アシュリー様はクロエとお知り合いで?」
「昨日ちょっとね」
ライオスは余裕たっぷりの視線を私に向けた。
(やめて、店長の視線が痛い……!)
「じゃあ私はこれで、家族が待っていますので」
「うん、お疲れ様」
店長、あなた逃げたわね。なんで親指立ててるのよ。
「クロエ、このパンは君が考えついたのかい?」
「はい、アシュリー様」
「アシュリーじゃなくてライオスって呼んで。あと敬語もやめてほしいな」
「…………貴族の方に敬語無しでは話せません。申し訳ありませんが、ご了承ください。ライオス様」
「まぁ、今はそれでもいいや」
「それにしても、なぜ知っているのかな?僕が貴族ってことや瞳の色のことも……」
「…………」
「この画期的なパンを思いついたのも君なんだって?」
(あ、やばい)
ライオスは残り一つのメロンパンを持って、私に刺すような視線を向けた。
「なんでそんなに知識が豊富なのに、一介のパン屋に働くことにしたの?」
視線を離さずに私との間合いを詰めてきた。
「ねぇ、なんでそんなに色々知っているの?」
少しずつ間合いを離すように背を向けて歩き出す。殺されないだろうという距離を保ったら、刺すような視線で振り向いてつぶやく。
「長生きすればわかりますよ」
最大限惹きつけるように、身体の動作一つ一つに気を引き締めて睨めつける。
意味深でしょう? 私も何言ってるか分からない。
私を殺さないでライオス。あなたの知らないこともいっぱい知っているわ。
彼は少し目を見開き、口元に手をやった後、いつものような華やかな微笑をたたえて私を射抜く。
「君、本当に面白いね」
ライオスは大股で私の方へ歩んでくる。無駄に長い両腕を机に押し付け、自分と机の間に私を封じ込んだ。
「ちょっと、なんですか?」
ライオスは自信ありげな笑みを浮かべ、私の額に唇をそっと押し当てた。驚きで声も出ない私を見て、満足げに笑う。
「なっ……!?」
「じゃあね、クロエ」
ライオスは何事もなかったように、颯爽と店から出ていった。
さりげなく呼び捨てにされている……いや、それよりも。
ずるずるとその場に座り込んでしまう。
「手強いわ……」
額を腕で拭う。
熱を持った頬の存在は気にしないことにした。
◇◇◇
彼女の動作、一挙手一投足に関心が向く。
こんなことは初めてだ。
「長生きすればわかりますよ」
そう言った彼女の視線に、全身が電流を走ったような感覚が襲う。
──ゾクゾクする。
「本当に面白い」
到底人には見せられないような表情をしているだろう。我慢できずに額にキスしてしまった。
僕が他人に興味を持つなんて、考えられなかった。
「クロエ、僕を飽きさせないでくれよ」
ぼそっと呟くと、ライオスは夕日の出る街に背を向け、ギルドへ戻っていった。
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