3-4

「というわけなんですけど」

 という龍介の話を聞いて秀明はとりあえず、

「ふむ」

 とだけ頷いた。

 龍介は、ふう、とため息をつき、疲れた表情で思索に耽る。陥るといった方が正確だろう。

(龍士)(大丈夫かな)(家に帰って)(夜盲症)(電気じゃダメなのかな)(明日は見えるように)(朝昼は)(メール)(気持ちが悪い)(いやいや)(ダチをそんなふうに)(でも正直な気持ち)(でも良くないような気がする)(そういうことって良くないような)(葡萄)(イタリア)(絵)(夜、描けたらいいのに)(妹)(双子)(はあ)(鬱)(でもあいつの方が大変)(友達)(気持ちが悪い)(いやいや)(でも)(でも)(でも)

 混乱状態の龍介の心を一瞥して、秀明は自分の思考を整える。

 もちろん生まれたときから読心能力を持つ秀明である。龍介の話を聞いても、それはあくまでも龍介の視点の話であって、いま話してくれた内容もだいぶ龍介の主観や願望や思い込みが含まれているのであろうことはわかる。しかしそれにしてもかなり正確にありのままを記憶したように秀明には思えた。むろん、龍介にとって印象の薄い部分は忘却されたのだろうがほぼ全てのあらましが説明されたような気がした。そう思った理由は龍介の主観における龍介自身がいま目の前にいる悩める龍介とほとんど差がないからだった。普通、人はなにか困ったことが起こったとき、多かれ少なかれ自分にいいように説明するものだと秀明は思うが、龍介の話からはそういった要素がほとんど見当たらなかったのだ。

 何度目かのため息をついたのち、龍介は秀明に聞いてみた。

「どう思います?」

 そう来るだろうことは予想できた。

 龍介の話を聞いて、特に思ったことを告げる。

「シラノ・ド・ベルジュラックだな」

 聞き慣れない言葉に龍介は首を傾げる。

「なんすかそれは」

「フランスの戯曲なんだけどね」

 そして秀明はあらすじを説明し始めた。

「シラノという文武両道の騎士が、いとこのロクサーヌに恋をしたんだが、シラノは巨大な鼻がコンプレックスで彼女に想いを告げられない。そこで友人のクリスチャンの力を借りて、彼の名前で彼女に手紙を書く。ロクサーヌはその手紙を読んでクリスチャンに惚れるんだが、そのクリスチャンが戦争で死んでしまうんだ」

「……そして?」

「それは読んでみてからのお楽しみ」

 え〜、と、龍介は声を上げた。

「そんなぁ」

「ネタバレになっても嫌だろ。まあ超有名な物語だからネタバレもなにもないっちゃないんだがね」

「じゃ、いいじゃないすか」

「まあ、ざっくり言えばロクサーヌは手紙の主がシラノであることがわかって、ハッピーエンド」

 ほっ、と、龍介は胸を撫で下ろした。

「よかったよかった」

「シラノが死ぬ直前だけどね」

 ぐ、と、龍介は胸を詰まらせた。

「すげー悲劇」

「いや、これは喜劇のジャンルだよ」

「ふーん。俺には哀しい恋物語に思えますけど」

「ま、読んでみてのお楽しみ」

「ここにあります?」

「あいにく、一冊だけあったのが今日売り切れちゃってね。お前が読みたいなら読書用に買おうか。俺も読みたくなってきた」

 龍介は微笑んだ。

「ぜひぜひ」

「——古賀くんのことが妹さんにバレたとして」

 話が本題に入り、龍介は身を引き締めた。

「はい」

「シラノでいえば、とりあえずハッピーエンドなんだがね。クリスチャンに恋していた気持ちなんてその時点できれいさっぱりだし」

「でも、死んじゃうんでしょ」

「古賀くんが死ぬ要素はいまのところ見当たらないけど」

 とはいうものの、人間、なにがきっかけで死んでしまうかなんて誰にもわからないけれど、とは思ったが、それは龍介には言わないようにした。

「でも」と、龍介は反駁した。「正直、俺、龍士のその行動が」

「気持ちが悪いかい」

 しゅん、となる。

「正直な話」

「でも、そう思ったからにはそれが龍の正直な感想なわけだし、それを押し殺したり封印したりする方が真摯じゃないんじゃないのか。自分に嘘をついてるわけだし」

「でも、友達だし」

「だから、友達だからこそそう思った、とも言えるだろ」

「ああ、まあ」

「俺だって古賀くんに対してお前なに考えてるんだって思うけど、でも説教して止められることじゃないだろうし。大体部外者がその行動を止めたり諌めたりしたところでどうせ彼はバレるまでやり続けるだろうし。その結果、シラノとロクサーヌみたいなことにならず彼が苦しんだとしてもそれは彼の問題だ」

「俺は、友達としてなにかしてやりたいんです」

「それは夜盲症の件と同じで、なにか困ったことがあったときに助けてやればいいんじゃないのかい」

「うーん……それはそうなんでしょうけども」

「これはさ」

 と、秀明は龍介に向き合う。龍介も緊張する。

「はい」

「古賀くんの行動の問題じゃなくて、お前がそれを聞いて混乱しているっていうお前の問題だから」

「ああ、まあ。そうっすね」

「もちろん世の中自分じゃなくて相手に変わってもらわないとどうにもならない問題ってあるけど、いちいちそれを期待していたら身がもたないぜ。お前の受け止め方や受け入れ方の問題にしてしまった方が早いと思うよ」

「うーん」

 今日のところはこれ以上説得しても龍介の気持ちは収まらないだろうと判断して、秀明は少し話題を変えた。

「それにしても病気の件についてはさほど思うところがなかったみたいだな」

 すると龍介はあっさりと頷いた。

「いや、そりゃ思うとこはありましたけど、メールの件の方がインパクトあって」

「それもわかるがね。よく自分の差別心をそんなにあっさりと直視できたものだと感心するよ」

「だって」

 と、龍介はまたも反駁する。

 はっきりと言った。

「龍士は、友達だから」

 秀明はなんだか嬉しくなり、微笑んだ。

(つくづくこいつを雇って正解だったようだ)

 冴の母親の件で、彼女がシャハシュピールに常時いられなくなったことで募集した住み込みバイトだが、こんなに秀明にとって的確な人間が現れたことはなにかの運命だとつくづく思う。貼り紙を出してからちらほらとやってきた者たちは、もし秀明がテレパスでなければ雇っていたかもしれないが、しかし秀明はテレパスである、彼らの心を一瞥するだけでとても一緒には住めないと思ったものだ。ところがこの龍介は本当にまっすぐで“いいやつ”だと思った。しかもただのいいやつではない。ちゃんと自分で考えることができて、しっかり他人に聞くこともできる。なんといっても家事が万能であることが最大の決め手ではあったが、これはシャハシュピールの新従業員として大いに働いてくれるだろうと秀明はこれからの彼に期待した。

 しかしその一方で、こんなに真面目で純粋だと、トラブルの多い人生でもあったのではないかとも思う。もっともこの純真さで周囲の人々に助けられながら生きてきたのだろうが、もしかしたらこれからのシャハシュピールは前途多難かもしれないな、とも思うのだった。

「ま、とにかく」と、秀明は調子を変えた。「今日は寝ろ」

(え〜)「はあ、でもなぁ」

「冴が飯作ってくれたから、それ食ったら寝ろ」

「うーん」

「食べて、眠る。それが全人類平等の精神回復方法だ」

「うーん……」

 龍介の思考が回転する前に秀明は食い気味に言った。

「今日はもうどうしても落ち着かないだろうしな。明日になれば落ち着いて、俯瞰で考えられるかもしれない。でも今日のお前じゃもう堂々巡りになるだけだよ」

 それはよくわかる。ただ、理解はできても納得はできないのがこれまた人間である。

「うーん」

 そこで秀明は立ち上がった。

「ま、俺は寝るから。明日の朝も俺のことを頼むよ。お前の仕事なんだからね」

「あ、はい。それはお任せください」

 秀明はにっこり微笑む。

「じゃ、おやすみ」

「おやすみなさい」

(龍士)(大変だ)(先輩は優しい)(兄貴みたい)(イタリアに行っちゃうのかな)(行った方がいい)(その方が余計なこと考えないだろうし)(妹さん)(気持ちが悪い)(と思うのが俺)(でも、友達だから)(友達だから、素直に)(気持ちが悪いと思った)(先輩に感謝)(葡萄の話をし忘れた)(イタリアと絵)(また今度相談してみよう)(はあ)(明日も元気にゴー)

 思索に耽り、しかしそれにしても腹が減った龍介は台所へと向かう。台所にはチャーハンとわかめスープが置いてあったので、よしこれを食べさせてもらおうと龍介は気を取り直して調理を始めた。

 その様子を自室から読み取り、秀明はとりあえずほっとした。

 食べることができる、というのは、幸せなことだ。

 そして自分は自分でもう寝ようとそのままベッドに潜り込み、その前に読んでいた途中のアルジャーノンに花束をのページを開く。ちなみにこの時点で秀明は先ほど七瀬がうちにやってきたことを龍介に告げることをすっかり忘却していたのだった。

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