1章9話 詩音の葛藤


 僕は、泣き止んだ二人に連れられてきた犬小屋の前で、先程までトラさんがいたのであろう場所を眺める。

 優しい空気が漂っているのが、触れる前からわかった。

 だからきっと、二人が泣いているような理由じゃきっとないことだけは伝えてあげられそうで、少しホッとする。


 後ろから、楽さんと茜さんから物問いたげな視線を感じるけれど、口出ししたり怒ったりするのではなくて、待ってくれているのがありがたかった。

 少しだけ目を瞑って、左手に意識を集中していく。


 絵美ちゃんと絵夢ちゃんが、両側からそわそわした気配でこちらを見ているのがわかった。

 それに少しだけ待ってね、と言いながら左手でそっと小屋の中に敷かれた毛布に触れる。


 ――――っ。


 最初に大きく訪れたのは、嬉しいと、ありがとうの気持ち。

 情景が見える、絵美ちゃん、絵夢ちゃん。それにこの長い髪のメガネの女の人は、二人のお母さんだろうか。笑っている。

 そして、これはなんだろう、家に帰りたい気持ち。黄色い屋根と、クリームみたいな色の丸くて小さな車?


 一瞬で僕の中を流れていったそれらは、とても優しくて。

 だから、ふう、とため息を吐いた僕は、二人に向けて言った。


「ごめんね二人共。どこに行ったかはわからなかった。でも、トラさんはとても二人が大好きだったみたい。後、黒くて長い真っ直ぐな髪の毛の、丸い眼鏡をした女の人は、二人のお母さんかな? ありがとうって気持ちが沢山だった」


「ほんと?」「なんでわかるの?」


 二人が目を輝かせて、そして、同時に首を傾げるようにして僕に問いかける。

 その瞳の輝きが、少し怖かった。


 人に知られると気持ち悪いって思われてしまうことかもしれないと、お母さんは僕に言ったけれど、そう思われても二人を慰めようと思ったことを、お母さんは褒めてくれるだろうか?

 そんなことを考えながら、少し、ドキドキしながら、怖くなりながら、僕は言った。


「……変って言われるし、気持ち悪いかもしれないけど。僕ね、左手で触ったら時々、わかるんだ」


「わかる?」「何がわかるの?」


 えっと、何て説明したらいいんだろう。

 お母さんに話した以外では、ずっと内緒だって言われていたから、いざ口に出すとどうすればいいかわからなかった。

 だから、僕は一生懸命考えながら伝えようとする。


「えっとね、何でもない地面とか、壁とか、売ってるものとかを触っても大丈夫なんだけど……誰かがいつもいる場所とか、凄い怖い思いしたときに触っていたものとか、そういうものに触るとね、その時のその人が考えてたこととか見てたものが、わかるの」


 うまく喋れていない。

 でも、僕がそう思っていたら、絵美と絵夢がぱぁっと笑顔になって、二人で手を取って飛び上がるようにして言った。


「絵美、それ知ってる!」「絵夢も知ってる!」


「え?」


「この間パパが見てるアニメで出てきた!」


「女の子がちょうのーりょくでね! 物動かしたり、別の場所に飛んだり、後触ったら何でもわかるの!」


 ちょうのーりょく? ってなんだろう。

 僕は正直、二人が言うアニメは全然知らないし、物を動かすことも、瞬間移動もできないし、何でもはわからないけど、思ったよりも好意的に伝わって、信じてもらえたことに良かったと思ってホッとする。


「詩音……いまのは本当なのか?」


 そうして胸を撫で下ろしていると、楽さんが今度は僕に尋ねてきた。


「うん、お母さんは、誰にも言っちゃいけないって。内緒だって、言ってた」


 だから、もしかしたら怒られてしまうことなのかもしれなかったけれど。

 だけど、二人が泣いているのが可哀想で、困っている人には優しくしなさいと言われていたから。

 悪いことをしたような、怖いような、そんなドキドキといっしょに楽さんに答えた。すると――――。


「そうか……偉いじゃんか」


「え?」


 楽さんの言葉が、思ったのとは全然違って、僕はぽかんと口を空けてしまう。

 そんな僕に楽さんは苦笑しながら言った。


「正直な、よくわかってないのかもしれねえし、そうなのかって言って良いのか迷ってる。姉貴が内緒だって言ったのもわかる……でも、お前がそういう嘘をついているようには見えねぇし。何よりよ、二人がトラさんに嫌われたってのを、そうじゃないって言ってやるために話したんだろ? 内緒な理由もわかった上でよ」


「う……うん」


「完全にいいやつじゃねぇか、と俺は思うぞ」


 楽さんに、頭をぐりぐりとされる。

 少し乱暴だけど、落ち着いた。触れられた手のひらが温かくて、お父さんがいたらこんな感じなんだろうかって、そんなことも思って。


「すっごいねぇ、不思議だねぇ。じゃあさ、トラさんがどこ行ったかもわかるの?」


 それを見ていた茜さんも、僕の言葉を全然疑うことも、引く感じでもなく、むしろ興味津々な顔で尋ねてくる。

 そして、絵美ちゃんも絵夢ちゃんも期待の眼差しで僕を見るのだけど、それには僕は首を振った。

 僕としても残念だけど、そんなに便利なものじゃなくて。


「見えたのは、最初は、絵美ちゃんと絵夢ちゃんの二人と大人の女の人がご飯あげてるとこかな」


「いつもここでママとご飯上げる!」「パパはあまりあげない」


「そうなんだ……じゃあそのときのことだと思う。そして後はね、何処かに帰りたいみたいだった、ここ……じゃないお家だった、黄色い屋根でね、クリーム色の車が見えて」


 僕はそう言いながらふと思う。

 僕と一緒で、トラさんにも別の家があったのだろうかと。

 その答えは、二人の口から出た。


「そうかも、トラさんはね、元々あたし達の家にいたわけじゃないの。」


「じゃあ、前のお家に帰っちゃったのかな? でも、あたし達トラさんの前のお家知らないから……どうしよう」


 そう言いながら、再び二人の目に涙がみるみる膨らんでいくのに、僕は慌てる。


「わわ、きっと大丈夫。その、最後にトラさんとはぐれちゃったところにも行ってみよう、何かわかるかもしれないから」


「「ほんと?」」


「うん、だから行ってみよう」


 そう言って楽さんと茜さんを見ると、二人も頷いてくれて、僕たちはトラさんとはぐれたという場所に向かうことにしたのだった。

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