アンセルフィッシュな愛

いけのけい

第1話 過ぎ去りし自転車と謎の美少女

 人生の節目とは常に期待と不安がせめぎ合っている。新たな出会いがあるのだろうか。新しい社会、組織に馴染めるだろうか。未来は明るいだろうか。

 社会だなんだと言ってもまだ二十歳にも満たない、十五歳。思春期真っ只中の僕の胸にあるのはクラスに馴染めるかな、恋人ができるといいな、落ちこぼれにはなりたくないな、自己紹介は何を話そうかな。この程度の些細なことだ。

 具体例を挙げると気のせいかな、歳を重ねるごとに期待よりも不安の方が大きくなっている気がするはどうしてだろうか。これが大人に近づき夢よりも現実を見るようになったということならば少し寂しい気がした。

 寝起きの頭で本日から始まる高校生活への悩みの種をあれこれ考えながら焦げ目がいい具合についた食パンを完食。高校生活にも慣れてしまえば朝の時間調整を完璧にこなし睡眠時間を優先して確保することになるだろうから、朝からのんびりと朝食にありつけるのは貴重な時間だとつい味わってしまっていた。とは言っても高校生活初日から惰眠を貪る度胸などなく早起きをしているため優雅に朝食の時間を過ごそうがなにも問題はない。はずだったのだが、食器を下げに流し台へ向かうため椅子を引き立ち上がると、丁度洗濯物を干し終えた母がリビングに戻ってきて急かすような口調で遅刻するわよと煽られる。

 もう高校生なんだからと何を言われても動じないあらかじめ調整されたロボットのようにマイペースな動きで慌てた素振りも見せず食器を片付けリビングを後にすると背後から母の溜息がこぼれるのが聞こえた。

 自分の部屋へと戻りシワも汚れも付いていない下ろし立ての制服へと袖を通し鏡の前で制服を纏った姿を確認するがいまいちしっくりこなかった。制服が中学生時がブレザーで今日からは学生服、いわゆる学ランに変わったことが原因だろう。

 首元まである衿はすこし窮屈で全身真っ黒の制服に身を包んだ姿はさながら軍兵のようにも思えた。背筋を伸ばし頭に手を当て敬礼ポーズなんてふざけていると、開け放たれたままのドアから顔を覗かせる心配性の母からいつまで着替えてるのと声がかかる。

 今日からは高校生になるのだからノックくらいして欲しいと文句の一つや二つ言いたいところだ。しかし今回に限っては僕自身に落ち度があること、何より鏡の前でポーズを決める醜態を見られたかと思うと羞恥心が勝り、乱雑な返事とともに母を部屋から追いやることを優先する。

 母の背中を押しながらリビングへと運び、早足で自室にとんぼ返りをすると今度はふざけることなく鏡で最終チェックを済ませた。

 あらかじめ前日から用意しておいた学校指定の鞄を手に取り玄関へと向かう。玄関に腰を落とし靴ひもを結んでいると見送りに来た母から最後の確認とばかりにあれは持ったか、これは大丈夫かという言葉が矢継ぎ早に次から次へと背中に刺さる。

 本当に心配症だな、もう高校生だよと思うが母からすれば年齢など関係なくいつまでたっても子供を気に掛けずにはいられないのだろう。

 靴紐を結び終えると立ち上がり振り返ってズボンの背面を手で払いながら全部大丈夫だからと短く伝えた。床に置きっぱなしの鞄を持ち上げ視線が再び正面を向いたタイミングで母と目が合う。いってらっしゃいと一言、送り出す母の表情は先ほどまでの心配、憂い、不安が嘘のように晴れ渡っていた。


 高校生となり登校手段は徒歩から自転車へとグレードアップした。グレードアップという言葉が正しいかどうかは怪しいが、中学校時代に自転車登校する生徒に憧れを抱いていた身としては特進級に値する。

 自転車になるということは通学路が長くなったということでもあり、いつまで自転車通学に心躍らせ、今の気持ちを忘れないでいられるかは怪しい。自転車通学が当たり前になり、学校までの道のりの長さに絶望を覚え始め、徒歩数分で学校へとたどり着く徒歩通学者が羨ましく思う日が来るのだろうか。案外その日は早く訪れそうな気がするができれば目を背けていたい。一生とは言わないにしても三年ほどは。

 これは自転車を漕ぎ始めてから気がついたことなのだが、今日この日に限っては自転車という登校手段がマイナスに働いているということだ。

 曲がり角での交錯による出会いが失われている。初日にのみ発生する運命的な出会い、きっかけが起り得ないのだ。厳密には皆無というわけでもないが今の僕がぶつかればそれはただの衝突事故となり、青春の夢は新たなクラスメイトさえ見ることなく潰えてしまう。


 雑念は全て一旦忘れて人生で初めての自転車通学に浮かれ気分で朝風に撫でられながらペダルを漕いでいたのだが、道程も半分を過ぎたあたりでハンドルにかけていた手を握りしめた。

 急にタイヤを停止させたことで摩擦による負荷が心配にはなったが、そんな杞憂も一瞬頭をよぎったに過ぎず、来た道を折り返す形で歩き出す。数歩の歩みののちにこの辺りの地域のゴミ捨て場として設置されている籠の前で足を止めた。

 ゴミ捨て場で足を止めたのはなにもゴミ出しを実は頼まれていたなんてわけではなく、用があるのは籠の上にいる一匹の生物の方だ。近づいてくる僕の存在に気がついた猫は寝ていた体制から起き上がり前足を大きく出す姿勢で一伸び。顎の下をかいてやると抵抗することなく気持ちよさそうに身を委ねると共に愛らしい鳴き声が帰ってきた。

 

「おはようミケ」


 ミケと朝の挨拶を交わすのは今日が初めてだなと、朝一番からの会合に頬が緩む。ちなみに野良猫である三毛猫だったから僕はミケと呼んでいる。単純明快な名前だ。

 ミケとは中学二年生のときに初めて出会った。それから住み着いている公園を見つけ、時間があれば会いに行き仲を深め今にいたる。ちなみに攻略には半年ほどかかった。今では気軽に触れ合える仲になったミケが動きを止めた手にもっと撫でろと擦り寄っている。要望にお応えしてワシャワシャと手を動かすと満足そうにゴロゴロと喉を鳴らした。


「す、すみません……」


 朝から猫による癒しを摂取していると息切れしたような声がかかった。誰かが時間ギリギリでゴミを出しに来たのかなと、僕が立ったままでは邪魔になるとこちらこそすみませんとミケを抱え数歩引いて場を空ける。

 頭を下げながら身を引いた姿勢から顔を上げると女性が一人立っていた。膝に両手をつき、大きく肩を上下させている。顔はうつむいており長い絹の糸のような胡桃色の髪が垂れ下がっているため見えなかった。その代わりと言ってはなんだが奇麗な形の旋毛がはっきりと窺える。朝日に照らされより輝きを放つ胡桃色の髪を眺めていると、いきなり髪が舞い上がった。勢いよく頭を上げた彼女の素顔が明らかとなり息をのむ。眉目秀麗な顔立ちに僕の視線はくぎ付けとなっていた。彼女の小さくて艶やか口がパクパクと動く。一瞬の動きだけでも一生眺めていられそうだ。   


「あの、聞いてますか」


 曲がり角ではなかったにしても朝から女性に話しかけられ出会いの予感を、青春の始まりを期待せずにはいられない。自己陶酔に陥る今の僕の耳には何も届いていないのは確かだ。しかし徐々に目が細められ怪訝な表情への移り変わりを見落とすことなく、変人認定をされてしまう前に慌てて聞き返した。


「だからそこの自転車借りますね」


 ゴミ出しではなかったのだとしたらてっきり道を聞かれたり、猫のことについて聞かれるくらいだと予想していたので胡桃髪の美少女の言葉が上手く呑み込めなかった。そもそも春休みのほとんどを家で過ごし、まともな会話が家族とコンビニ店員だった僕にいきなり見惚れてしまうほどの女性と会話というだけでもハードルが高いのだ。

 物言わぬ地蔵となった僕に痺れを切らした美少女は自転車の元へと駆け寄りストッパーを足で蹴り上げるとサドルへと跨った。スカートを履いているというのに動作に躊躇いがなく、自転車に乗るだけでも絵になる姿をただただ見つめる。荷台を掴んででも止めなくてはと脳は早鐘を鳴らしていたが、僕の口は「あの」とか「ちょっと」と情けない声をこぼすだけだった。


「絶対にちゃんと返すから」


 そう言い残すと胡桃色の髪をなびかせながら自転車は主を置き去りにして行ってしまった。操縦者が美少女へと変わり自転車もさぞ嬉しかろう。現状を整理するため僕は抱き抱えたままのミケへと視線を移す。呑気にニャーと一鳴きが返ってきて現状などなにも理解していないと言った様相に、なんかもうどうでもいいやという気になった。しかし腕に巻かれていた時計を見て投げやりな考えを捨てる。

 予鈴十五分前だった。自転車は盗難に遭い自分の足で学校を目指す。これでは中学生の時と変わらない。まだ自転車通学を半分しか満喫していないのにと惜しむ自分がいたが、この場合は半分の道程を終えていることに感謝し残りの半分だけを歩きで済んで良かったと安堵するべきだろう。

 僕は新手のハニートラップでないことを祈りながら徒歩で登校するのだった。

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