アンセルフィッシュな愛

ふかちん

第1話 過ぎ去りし自転車と謎の美少女

 人生の節目とは常に期待と不安がせめぎ合っている。新たな出会いがあるのだろうか。新しい学校、クラスに馴染めるのだろうか。授業はついていけるのだろうか。具体例を挙げると気のせいかな、歳を重ねるごとに期待よりも不安の方が大きくなっている気がする。

 寝起きの頭で本日から始まる高校生活への悩みの種をあれこれ考えながら焦げ目がついた食パンをかじる。高校生活にも慣れれば朝の時間調整を完璧にこなし、睡眠時間を優先して確保することになるだろうから、朝からのんびりと朝食にありつけるのは貴重な時間だ。

 朝食を食べ終えると少しゆっくりしすぎたようで母は急かすような口調で遅刻するわよと煽ってきた。早起きの甲斐もあって少し朝食に時間を掛けたくらいで遅刻まではしない。もう高校生なんだからと何を言われても動じないあらかじめ調整されたロボットのようにマイペースな動きで食器を片付けリビングを出ると背後から母の溜息がこぼれる。自分の部屋へと戻りシワも汚れも付いていないおろしたての制服へと袖を通した。鏡の前で制服を纏った姿を確認するがいまいちしっくりとこない。制服がブレザーから学生服へと変わったことが原因だろう。首元まである衿はすこし窮屈で全身真っ黒の制服に身を包んだ姿はさながら軍兵のようにも思えた。背筋を伸ばし頭に手を当て敬礼ポーズなんてふざけているとまた心配性の母からいつまで着替えてるのと声がかかる。鏡で最終チェックを済ませあらかじめ前日から用意しておいた鞄を手に取り玄関へと向かう。靴ひもを結んでいると見送りに来た母から最後の確認とばかりにあれは持ったか、これは大丈夫かと心配される。本当に心配症だなと僕は思うが、母からすれば年齢など関係なくいつまでたっても子供を気に掛けずにはいられないのだろう。靴を履き終え立ち上がりながら全部大丈夫だからとぞんざいに伝えた。振り返り床に置きっぱなしの鞄を持ち上げたタイミングで母と目が合う。いってらっしゃいと一言言った母の表情は先ほどまでの心配気質が嘘のように晴れ渡っていた。


 高校生となり登校手段は徒歩から自転車へとグレードアップした。自転車になるということはその分通学路が長くなったということで、正直この変更が良いことかどうかは怪しい。しかし中学校時代に自転車登校をしている生徒たちを羨ましく見ていた身からすれば距離が長くなったことなど些細なことだ。浮かれ気分な僕の頬を朝風が優しくなでつける。

 悠々自適に自転車を走らせていると一匹の猫とすれ違いブレーキをかけた。自転車から降りて猫のもとへと近づくと、ゴミ捨て場のカゴの上で寝ていた猫は前足を前に出して大きく伸びをしてから飛び降りる。こちらに気が付き歩いてきた猫は足元で立ち止まったので僕はしゃがんで撫でてやった。 

「おはようミケ」

ニャーと呑気な鳴き声が返ってくる。僕は首輪が付いていない喉元をさらにかいてやった。野良猫である三毛猫だったから僕はミケと呼んでいる。単純明快な名前だ。

 ミケとは中学二年生のときに初めて出会った。それからミケが住み着いている公園を見つけ、たまに会いに行き仲を深め今にいたる。ちなみにミケ攻略には半年ほどかかった。今では気軽に触れ合える仲になったミケが動きを止めた手にもっと撫でろと擦り寄っている。要望にお応えしてワシャワシャと手を動かすと満足そうにゴロゴロと喉を鳴らした。


「す、すみません……」


 いきなり声がかかり手を止める。顔を上げると女性が一人立っていた。膝に両手をつき、大きく肩を上下させている。走ってきた様子の彼女だったが僕はまったく気が付かなかった。それほどまでに愛くるしい三毛猫に夢中だったらしい。

 顔はうつむいており長い絹の糸のような胡桃色の髪が垂れ下がっているため見えなかった。その代わり奇麗な形の旋毛がはっきりと窺える。朝日に照らされより輝きを放つ胡桃色の髪を眺めていると、いきなり髪が舞った。勢いよく頭を上げた彼女の素顔が明らかとなり息をのむ。眉目秀麗な顔立ちに僕の視線はくぎ付けとなっていた。彼女の小さくて艶やか口がパクパクと動く。一瞬の動きだけでも一生眺めていられそうだ。   


「あの、聞いてますか」


 朝からこんなにもかわいい女性に話しかけられ浮かれていた僕の耳には何も届いていない。目が細められ怪訝な表情に変わり始め、慌てて立ち上がり聞き返した。


「だからそこの自転車借りますね」


 てっきり道を聞かれたり、猫のことについて聞かれるくらいだと予想していたので胡桃髪の美少女の言葉が上手く呑み込めなかった。そもそも春休みのほとんどを家で過ごし、まともな会話が家族とコンビニ店員だった僕にいきなり見惚れてしまうほどの女性と会話というだけでもハードルが高いのだ。

 物言わぬ地蔵となった僕に痺れを切らした美少女は自転車のストッパーを足で蹴り上げるとサドルへと跨った。自転車にまたがるだけでも絵になる姿をただただ見つめる。荷台を掴んででも止めなくてはと脳は早鐘を鳴らしていたが、僕の口は「あの」とか「ちょっと」と情けない声をこぼすだけだった。


「絶対にちゃんと返すから」


 そう言い残すと胡桃色の髪をなびかせながら自転車は主を置き去りにして行ってしまった。操縦者が美少女へと変わり自転車もさぞ嬉しかろう。現状を整理するため僕はいまだ足元で座っているミケへと目を移す。呑気に毛づくろいをしている姿を見て、なんかもうどうでもいいやという気になった。しかし腕に巻かれていた時計を見て投げやりな考えを捨てる。予鈴十五分前だった。地面に置かれていた鞄を掴み上げ、自分の足で学校を目指す。僕は新手のハニートラップでないことを祈りながら中学生のときと同じように登校するのだった。

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