〇〇五 浅ましい男
ウハクが毒に倒れてから三日が経った。
倒れた翌日には、第一皇子であるバカクの直轄地へ電報が飛んだ。内容は「すぐ帰城せよ」――皇太女が倒れたことについては箝口令が敷かれている。『ウハクが毒を呑んだ』ことを知るのは、宮中の上層ごくわずかだ。
バカクの直轄地から帝都まで馬車で三日だ。明日明後日には到着するだろう。
第一皇子が城に戻ってから、正式に今後のことを発表するらしい。
この三日で、トカクも多少の心の整理がついていた。
取り乱す元気も無くなったのだ。
「…………」
トカクはウハクの寝台の横に腰かけ、ぼんやりと窓の外を見ていた。雪がちらちらと舞っている。ウハクの規則正しい寝息を背景に、トカクは物思いにふける。
慣れ親しんだ帝都の街並み。
しかし、ウハクと眺めることはもうないのだと思えば違って見えるし――自分が治めることになるのだと思えば、余計に違って見えた。
街行く人々は寒波にも負けず、誰も彼も幸せそうに見える。この国でもっとも栄えた街だ。活気が無くては困る。だけど、今のトカクはそれを見ても冷めた瞳しかできなかった。
皇太女ウハクが倒れ、その後釜に皇子が就くことを民衆はどう捉えるだろうか。伝統を失うことで、きっと混乱させてしまう。
皇帝陛下から命じられた大陸留学の件も気がかりだった。
皇太女ウハクの留学は十年前に決まった。だから大陸共通語を学び、よく知らぬ外国で恥をかかないようにと、先んじて洋風の礼儀や文化なんかを学んできた。帝立学園も、そもそもはウハクが大陸での暮らしを予行演習できるようにと設立されたものだ。
双子であるトカクとウハクは、幼い頃からほとんど同じ教育を受けてきた。だから、ウハクと同じことができるだろう。
だが……。
(制服……せっかく仕立てたのにな……)
と、トカクはふと思った。
袖を通したところを、結局まだ見れていなかった。何故って、最近はユウヅツのことで喧嘩ばかりだったから。
『――お兄様、お兄様、お兄様っ!』
ウハクの声がよみがえる。
『放してよ! ……何故わたくしの邪魔をするのだ。わたくしは、ただ、あの者と昼食を共にできたらと……』
『この……立場をわきまえろ! 皇太女が誰と余暇を過ごし、誰と会食するか、おまえの気分で決められることじゃないんだ! いの一番に男爵家の者……それも男を誘うなど、どうかしている。順番というものがあって……』
『わたくしは次期皇帝! 本当なら、お兄様よりよほど偉いのだぞ? なのに……どうして皆、わたくしではなくお兄様の言うことを聞くのだっ……』
『過ちを犯そうとする主君を止めるのが臣下の務めだ。ウハク、おまえは間違っている! 身分を振りかざし強要するなど、高貴な者のすることじゃない!』
――入学してすぐの頃の記憶だ。悔しそうに歪んだウハクの顔が、今も記憶に新しい。
(こんなことなら、食事くらい共にさせてやれば……)
いや、……できない。それは、ふさわしくないことだからだ。
じゃあどうしたらよかったんだ。
トカクは、自分が最後にウハクと喋った時を思い返していた。
卒業パーティーに向かう馬車の中で。「妙なことは考えず、次期皇帝らしく振る舞うことにだけ集中しろ」と忠告したトカクの声は険しかったし、ウハクは不愉快そうにそれを無視していた。
最後に目を合わせた時、トカクはウハクを「余計な真似はするな」と睨みつけていた。
(なんで……)
トカクは、もう何もかもイヤになりそうだった。本当に、眠るウハクと身体を取り替えてしまえたら、どれだけ楽だったろう。もう何も考えたくない。
涙をこぼさぬように目を見開いて、トカクは立ち上がった。窓に近付いて城下を見下ろす。触れたガラスから外の冷気が伝わった。
自室でもない場所で泣くなど皇族のすることではない。耐えなければ……。
そうして……トカクが表の城壁の周囲を目でなぞった時。やけに見覚えのある人影に気付いた。
悪い意味での気付きで、たとえるなら視界の端を害虫が横切ったような感覚だった。
ぐっと窓に張り付いて、トカクは目を凝らす。
その人影は、城壁の前に立って城を見上げていた。
この国の住民のほとんどがそうであるように、漆黒の髪と漆黒の瞳。中肉中背。
ともすれば周囲に埋もれそうな至って凡庸な容姿だったが、トカクの目には危険信号と共に飛び込んできた。見かけたらすぐにウハクを連れて逃げろ、という危険信号。
帝都の庶民の間で流行っている、着物の下に立襟シャツを着込むスタイル。丈の短い外套。トカクは、その人物の制服姿と礼服姿しか知らなかったが、それでも分かった。
「ユウヅツ……!!」
何故いる。何しに来た。何をしている。
トカクは窓を引っかいた。
何をしに来たって、そんなこと分かっている。わざわざ雪の中、ウハクの部屋から見える位置でこちらを見上げ、可哀想ぶって佇んでいる。奴は心配げな面持ちで、いたって善良そうに、あいつ、
「殺してやる……!」
なんて浅ましい男だ。
燃えるような純粋な怒りでトカクは居ても立っても居られず、ウハクの部屋を飛び出した。
――いや待て、皇子とはいえ華族子息を一方的にブン殴れば面倒なことになる。
だから誰もいないところでボコボコにしよう。
そう決めたトカクは護衛も従者も伴わず、人目を盗むべく窓から飛び降りた。
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