インシデント

じこったねこばす

インシデント

20XX年、年末。「この寺田町支店から竹垣くんを大阪営業一部に送り出せることを誇りに思います」とM銀行寺田町支店、支店長石野の満足げな挨拶が店内に響き渡り、支店内は温かな拍手に包まれた。この日の主人公竹垣靖は「ようやくここまできたか」と心の中でひとりごち、達成感に浸っていた。


竹垣は根っからの野球小僧で、高校時代は夏の甲子園大会で主将としてマスクをかぶりチームを優勝に導き、その後は大学の野球部でも活躍していたため、周囲からはプロ球団への入団を期待されていた。しかし、幼い頃から酷使してきた体に限界を感じていた竹垣はあっさりと野球の道を諦め銀行に入行した。


いかに野球エリートといえど、旧帝大を卒業していない竹垣は銀行に入ってしまえば一兵卒にすぎず、入行以来十三支店→野田支店→寺田町支店といわゆる「コテコテ」の支店を営業職として経験し、ようやく今回銀行営業の総本山で花形部署の大阪営業本部へと栄転の切符を手にしたのであった。


竹垣はどの支店でも営業成績が抜群にもかかわらず、それをまったく鼻にかけることなく、人柄も明るく、普段から周囲に分け隔てなく接し、また下の面倒見が良いことから彼を兄のように慕う後輩も多かった。その日の支店の送別会の最中にも、彼との別れを惜しみ涙する行員も少なからずいた。


竹垣が赴任する大阪営業部は、在阪の大企業を専門に担当する組織であり、大阪本社内に部署が設けられている銀行営業のトップであるエリート部署。なかでも竹垣が担当するのは非上場のオーナー企業群で、担当者のグリップひとつで大きな収益が狙えるため、叩き上げの実力者竹垣に白羽の矢が立った。


一月中旬に前任との引継が完了し竹垣は独り立ちした。決算期末まで残すところ二ヶ月半ほどだが前任者の数字は極めて不調であり、竹垣の数字の出来不出来がそのまま竹垣の課、部の数字目標達成を左右しかねない状況であった。前任が二年と経たず閑職へ異動となったのはこの数字の不出来が要因だった。


ここは弱肉強食の営業本部、上司は将来銀行の要職につく人物ばかり。ここで「できないやつ」とのレッテルが貼られれば一生銀行内では日の目を浴びることがなくなる一方、「できるやつ」との評価がなされればこの先、海外・人事・企画といった中枢部署への道も拓けるハイリスク・ハイリターンの戦場だ。


上司である次長の南田は着任当初から竹垣に「お前が新任か否かは関係ない、成績でのみ評価する」と発破をかけていた。そんな矢先、竹垣に幸運が舞い降りる。着任以降、二周目の顧客訪問の折に竹垣の担当企業で最大の規模を有する老舗化学品メーカー大永産業の番頭岩下からM&Aのニーズを聴取する。


岩下から耳打ちされた話は「中国企業の台頭を受けた再編で業界第二位の吉田化学を買収したい。先方とは極秘に話をしており3月末までに創業一族から株式を買い取りたい。そのための資金を融資して欲しい。」という内容であった。ディール規模にして約500億円、思わず竹垣の喉がゴクリと音を立てる。


竹垣の脳内で一気に計算機が稼働する。今期、竹垣の担当先に課された目標に対して前任は3億円の穴を開けている。しかし、仮にこの500億円の融資をものにできればFA手数料などを勘案しても10億円単位の収益が固く、霞んでいた収益達成どころか部単位・個人でのSランク表彰受賞も狙える案件となる。


「この案件にかけるしかない」。着任早々収益達成の道筋が見えず途方に暮れていた竹垣の心に火がつく。しかし如何せん時間がない。FA就任の手続きや本部の連携、ターゲット企業のデューデリジェンス、さらには長期融資の返済可能性検証や稟議作成など思いつくだけでも高難易度のタスクが目白押しだ。


「でかしたな、竹垣。今期はもうその案件に全力で注力しろ、他の取引先案件は他のやつらで巻き取る」。竹垣の上司南田はさすが策士と呼ばれるだけあって竹垣の抱える他案件を課内の他メンバーに手早く振り分けた。「さすがエースだ。部長もお喜びになるぞ、今期末の評価が楽しみだな」とご満悦の様子だ。


その日から竹垣は大永産業の案件にかかりきりになった。M&A案件はスピードも大事だが、何よりも情報の秘匿性を保つことが重要であり電話でのやりとりさえもはばかられる。そのため、竹垣は大永産業岩下の元に日参し残タスクや行内での状況を確りと人払いをしてまで事細かに報告・共有した。


それから一ヶ月、竹垣は朝7時に出社しビルの閉館まで勤務する日々が続いていた。妻の美沙にも「この案件をモノにできれば海外駐在も夢じゃない。君が憧れていた駐在も現実になるかもしれない」と伝えていた。ここのところ家を空ける時間が長くなっていたが美沙は毎日気丈に夫を送り出してくれている。


まもなく3月に差し掛かろうという金曜日。竹垣は週明けに審査部との案件相談会を控えていた。これは大永産業への融資案件を「審査の鬼」と呼ばれる審査部次長・鬼丸に諮るイベントで、ここで彼の理解が得られれば案件成約が大きく前進する一方、追加宿題が出た場合にはその対応に追われることになる。


竹垣と彼をサポートするM&A戦略部の予定では、本日のうちにこれまで作成してきた財務モデルの検証と稟議所見へのデータ反映を終えられれば、来週月曜午後の鬼丸との審査会までに十分な準備が整う目算だった。午前中の作業も捗り、この日の終業時までには準備を完了する実感を竹垣は感じ始めていた。


午後5時を回った頃、竹垣がプリンターに書類をとりに立ち上がると上司の南田に呼び止められる。はいと返事しながら竹垣が振り返ると南田は「今晩空いてるか?来週が案件の山場やろ。息抜きに飲みに行こや。」と竹垣を飲みに誘ってきた。本日中に審査会の準備を終えたい竹垣は誘いを断ろうとした。


すると南田は「着任してから何度も声をかけているのにツレないやないか。上司の誘いに付き合えんというのは自分が仕事できませんと言うてるようなもんや」と続ける。思い出してみれば竹垣の課では南田の発案で週2ペースの飲み会が開かれていたが、竹垣はこれまで多忙により一度も出席していなかった。


しかし、月曜日の審査会に万全で臨むには残業すべきと判断し、竹垣が「お誘いはありがたく参加したいのですが、審査会の資料がもう少しのところですので今日は・・」と言い終わらぬうちに、南田は「土日に家でやればええやろ」とまさかの発言で竹垣の発言を遮った。無論顧客資料の持ち帰りは御法度だ。


竹垣が呆気に取られているのを横目に見ながら南田は続ける。「ここはケツの青いガキが揃っとるその辺の支店とは違う、天下の営業本部や。一人一人が大きな裁量を持ってるのやからいちいち細かいことは気にせんと好きにやったらええんや。何かあっても銀行のために働いたやつを悪いようにはせん。」


「それとも上司にここまで言わせとんのにお前は男のメンツを潰す気なんか?」南田にここまで言われて竹垣は観念した。週末は娘のパパ友・ママ友との食事が予定されていたが美沙に言って欠席させてもらうこととしよう。今週が山場なのだ。これを乗り越えさえすれば家族サービスは来週以降にもできる。


18時を過ぎた頃、課の面々が仕事を切り上げはじめる。竹垣の横に座る松田もそそくさと慣れた手つきで顧客資料を自分の懐に入れ帰り支度を終えている。竹垣は罪の意識を感じつつも大永産業のM&A関連資料をM銀行のロゴ入り封筒に封入し、それを自らのカバンの奥底に入れると松田らの後を追った。


南田の課の面々は職場の淀屋橋からほど近い彼がお気に入りとしている北浜の寿司屋に到着した。店につくなり南田が座敷の上座の中心に腰掛けると、さも当たり前のように二年目の女性行員である東がその横に座る。その慣れた所作を見て竹垣は、南田の飲み会に暗黙のルールが存在することを悟る。


竹垣は周囲に促されるように南田の正面に着座した。飲み会が開始して早々、話題は着任間もなく大型案件を発掘した竹垣の話題一色になった。南田は酒で頬を赤らめながら「案件ももう少し。今日は前祝いだ。さあ飲め」と竹垣に酒を勧める。竹垣は南田から受けた盃をクイとあおると一息に酒を飲み干した。


思えばこの部に着任してからというもの数字のプレッシャーが大きく、またすぐに激務に突入したこともあってこのような時間から酒を飲むのは初めてだった。「追い込み過ぎも体に毒だ。たまには息抜きも悪くないか」と竹垣はこの日ばかりは飲み会を楽しみ、リフレッシュに努めようと意識を切り替えた。


宴もたけなわ。赤ら顔の南田が横に座る東の太ももをさすりながら「2軒目スナックにいこうや。」と周囲に声をかける。東は「いきましょぉー」と鼻につく声をあげていて南田の行為を気にするそぶりもない。東がラウンジ嬢をやっていたと以前誰かが噂していたがあながち嘘ではないのかもしれない。


二軒目の南田行きつけのスナックに到着すると「いま一番ノっているタケから歌え」と南田が促す。野球部・ドブ板営業と体育会系のまん真ん中を歩んできた竹垣にとってカラオケは球場の次の主戦場だった。竹垣が熟練の持ち歌を披露すると周囲はどっと沸いた。南田も破顔一笑、手を叩いて喜んでいる。


竹垣のおかげでカラオケは大盛り上がり、竹垣は課の面々との親交が深まった手応えを感じていた。「そろそろ時間だ、最後一曲」と南田の声を受け竹垣はMr.Children/終わりなき旅を入れた。「高ければ高い壁の方が登った時気持ちいいもんだ」歌いながら竹垣は歌詞とこれまでの銀行員人生を重ねていた。


飲み会も終わり。クセの強い面々に囲まれてはいるが優秀なメンバーとともに働け、彼らからも認められていることが今日の飲み会で分かった。竹垣は「いい夜だ」率直にそう思うようになっていた。課の面々と別れの挨拶を交わすと、竹垣は社宅のある高槻まで帰るべく阪急京都線の終電に飛び乗った。


車内に乗り込むと運良く6人がけの座席に一つ空きがあり、竹垣はそこに自らの身をねじ込んだ。竹垣は車窓に反射する自分の姿を見ながら「今日は酔ったな」と一人ごちた。連日の激務のせいか自分が思うよりも酔いと疲労が全身を覆っていることに気がついた。二月末、外はまだ寒いが終電の車内は暖かだ。


ーーー。「お客さま、終点ですよ!」竹垣がハッと目を開くと制服をまとった男が視界に入る。しまった!と竹垣は寝過ごしてしまったことに気づく。電車の外では「カツラーっ!カツラーっ!こちら本日の最終列車です、お客様はこちらでお降り下さい。」とけたたましいアナウンスが繰り返し流れている。


竹垣は重い頭と足をひきずるように駅の出口に向かう。ーーしかし、ここで竹垣は異変に気がつく。自らの手にあるべきものがない、カバンがないのだ。一瞬で全身から血の気が引いていくのがわかる。竹垣はあわてて踵を返し、後ろを歩いてくる人波をかき分け、先ほどまで自分が乗っていた車両を目指す。


制止する駅員を振り切り、先ほどまで自分が乗っていた車両に乗り込みあたりを見回す。恐怖で足が震える。「頼む、カバンよあってくれ」すがるような思いも虚しくカバンはどこにも見当たらない。周囲にいる駅員に必死の思いで喰らいつくも「カバンなど見ていない」との返答があるのみであった。


酔ってもつれる足でなだれこむように駅員室に駆け込み、カバンを紛失したこと、カバンの捜索をお願いしたいことを駅員に伝えるも、終業間近の酔客の来訪に駅員は甚だ面倒くさそうな対応。深夜1時間際ではほぼ全ての業務が終了していることから捜索は翌日となる旨を諭され、ただただ帰宅を促される。


犯してしまった失態の大きさを実感するにつれ、竹垣の手足は震えはじめ、高まる心臓の鼓動は耳奥まで届くほど「ドッ・・ドッ・・」と大きくなっている。まるで全身の血が頭部に向かって流れているように顔面が熱く呼吸が苦しい。真冬の寒空の下にもかかわらずあまりの暑さに喉の渇きを覚えるほどだ。


竹垣は銀行の10年選手。銀行員にとって重要情報の紛失がどれだけ重い罪かは十分に理解している。阪急桂駅の西口は竹垣と同様に終電で寝過ごした客らがタクシーを待つ列で混みあっているが、竹垣は罪の意識と待ち受ける処分への恐怖に耐えきれず、人目も憚らずその場に座り込み声を上げて泣いた。


どれほど座り込んでいただろうか。辺りを見回すとすっかりタクシーを待つ客の列はなかった。涙と嗚咽を漏らすと共に徐々に頭が晴れてくる。再び竹垣が立ち上がる頃には竹垣の中に「出来る限りのことをしよう」という思いが強く芽生え始めていた。竹垣の目は桂の駅前にある交番を見据え歩を進めた。


泣きはらした目は赤く腫れていたが、交番に入ると竹垣は理路整然とカバン紛失までの経緯を警官に説明し遺失届を出し終えた。交番を出る間際に警官から「こういったケースはままあることですので、早々に上司の方へご連絡を」と言われ、ハッと南田の言葉を思い出した。「何かあっても悪いようにはせん」


「そうだ。俺は今、大阪営業部の中でも最大の案件を抱える立役者。南田さんの飲み会で起きた事案なのだからなんとかしてくれるはずだ」竹垣は翌朝早くに南田へ報告しようと決心しタクシーに乗り込んだ。自宅に着くとシャワーを浴び、冷えた体を温

めたが、気が立っていて朝まで眠ることはできなかった。


"朝7時、竹垣は意を決して南田に電話をした。

「なんやタケ、こんな時間に?」

電話の向こうで南田はひどく眠そうだ。

「次長、申し訳ありません。カ、カバンを紛失しました」

竹垣は決死の思いで一息に言い切った。

一瞬の静寂が竹垣の緊張を高める。


その後、チッという舌打ちが聞こえた気がした。"


"「なに?お前顧客の資料を持ち帰ったんか」 南田の声の冷たさに竹垣は思わず唖然とした。 「どうやってなくしたんや?ドタマかち割ったろかこのドアホ!」

反社会的勢力顔負けの剣幕と怒号で竹垣を問い詰める。 一瞬にして竹垣は南田の甘言を信じた愚かな自分を悔いた。瞬間、保身の言葉が口をつく。"


"「終電で駅を出たところでひったくりに遭いまして」

竹垣自身、南田の迫力に圧され思っても見ない言葉が出る。

「ほんでお前どうしたんや?あ?当然犯人を追っかけたんやろな?」


南田は詰問を続ける。


「追ったのですが酔っていて取り逃がしました」


「警察には行ったんやろうな?」"

"「はい。交番に届出はしました。」

「ほな、被害届はあるんやろな?」竹垣は息が詰まり二の句を告げない。

「被害届は・・ありません。い・・遺失届はあります。」

竹垣はもう逃げきれなくなった。

「ほな、ひったくりとちゃうやないか!嘘ついたんかワレ?!死ぬ気でカバン探してこいドアホが!」"


竹垣は「も、申し訳ありません」と謝罪すると電話が切れた。ふと顔を上げると、妻の美沙がこちらを不安そうに見つめている。「やっちゃん、朝から大きな声で謝ってどうしたん?」と竹垣に声をかける。竹垣は震える声で「お客さんの資料が入ったカバンを落としてしまった」と言い残しそのまま家を出た。


家を出るとすぐに美沙から電話があったが「今日の食事会にはいけなくなった」とだけ言い電話を切った。竹垣は土日を使って職場、一次会・二次会の店、阪急沿線の全ての駅と落とし物センターを回ったがついぞカバンのてがかりさえ見つけられず、南

田に「見つかりませんでした」と報告し月曜日を迎えた。


月曜朝7時、竹垣は大阪営業部部長である和田の前に南田と立っていた。「先週末竹垣が大永のM&Aに関わる資料を持ち帰り紛失致しました」と南田が報告すると、本部企画畑出身の和田は眼鏡の奥で鋭い眼光を放ちながら「まずはコンプラへの報告と即刻大永へお詫び訪問のアポを取るように」と指示した。


南田は「タケ、お前は岩下常務に連絡して大永のアポを取れ。コンプラの連絡はオレがする。訪問は部長・オレ・竹垣の3人だ。それと鬼丸との相談会はキャンセル。」と竹垣に告げる。「はい」と竹垣は落胆しながら短く発すると急ぎ岩下に訪問アポを取得し、審査部の担当へ相談会中止の連絡を行った。


午前10時、大永産業応接室で和田・南田・竹垣の三人は大番頭・岩下の入室を待った。間もなくして岩下はでっぷりとした体を揺らしながら応接室に入ってくる。「和田さん、久しぶりでんな。急にいらっしゃるなんてどないかしはりましたか?今日は審査部との打ち合わせのはずや。ええ知らせかいな?」


部長の和田は神妙な面持ちで立ち上がり岩下に対し深々と頭を下げ「岩下常務、大変申し訳ございません。このたび御社の買収に関する資料を紛失してしまいましたことをお詫びにあがりました。」と謝罪した。岩下の両目は驚きで大きく広がり、「な、なんやて?どういうことや?!」と和田に問いかける。


竹垣も立ち上がり「本日の審査部との協議に向けて週末自宅で作業をしようと資料を持ち帰りましたが、さ、酒に酔ってカバンを紛失してしまいました、申し訳ありません」と震えた声で説明し頭を下げる。途端に雷鳴のように岩下が「アホか―っ!」と叫び、目の前にあった応接テーブルを蹴り上げた。


岩下の怒りは止まらない。「どういうことなんや?本件はワシが社長の大西から全権を任された一世一代の大仕事。社内の人間でも本件を知っとるのは社長とワシだけ。だからこそメインのあんたらにお願いしたんや。情報の取扱いには気をつけろと口酸っぱく言うたのにお前らどういうつもりやねん?!」


「これはすぐに社長の大西に報告する、今後どうするかは追って和田さんに連絡するわ。タダで済むとは思わんといてくれよ」と、いつもニコニコしている大阪商人の顔とは打って変わって聞いたことのない低いドスの利いた声で岩下は言う。和田以下3名は深々と頭を下げながら応接室から退室し扉を閉める。


閉めたばかりの扉から「ガシャンッ」とガラスの割れた音がする。岩下は抑えきれない怒りで灰皿を投げつけたようだ。淀屋橋の職場に戻ると早速岩下から和田に電話が入り、和田は「はい、はい、申し訳ございません」と岩下からの一言一言に反応している。やがて電話を終えると和田は南田と竹垣を呼んだ。


「岩下さんから『今回のM&Aは中止、これに伴ってFAも当然解任。さらにM銀からの既存借入は次回の返済日で全額返済のうえ、ほとぼりが冷めるまで出入り禁止』を言い渡された。大永産業はM銀統合前からのメイン先であり歴史的な汚点になった。私が副頭取をお連れして社長と面談し改めて謝罪する」


案件失注・出入禁止という強い処分もさることながら、副頭取を担ぎ出す事態となったことに竹垣は改めて戦慄し、もうただごとでは済まないことを確信した。自席に戻るとすぐにコンプライアンス部からの内線が鳴った。今回の事態を受けて事情聴取をしたいという内容であった。南田にそれを報告すると、


竹垣を個室に呼び出し、竹垣の目を見てまじまじと「タケ、起きてしまったものは仕方がない、今期の当部の成績は表彰どころか懲罰すらも覚悟することになる。せやけど、お前にとって好い結果となるよう全力を尽くす。信じてくれ。やから仲間だけは売るなよ。ええな?」と言いコンプラ部へと送り出した。


M銀行淀屋橋ビルの別館にコンプラ部がある、竹垣は来訪を告げると一番奥にある窓のない部屋に通された。すると間もなくコンプラ部の石井とともに一人の男が一緒に入ってきた。相手は「人事部の鈴木です」と名乗り席に着いた。そこから三日間、竹垣は出社せず朝から晩までこの部屋で事情聴取を受けた。


三日間の事情聴取の間、何度同じ質問をされたことだろう。証言に少しのウソも無いようあらゆる角度から質問を受ける。これが銀行員なら誰しも一度は聞いたことがある、銀行員が銀行員を裁く「査問」と呼ばれるやつだと竹垣は悟る。竹垣は南田の言いつけの通り仲間のことには触れぬよう慎重に発言した。


三日の査問を終えると鈴木から「竹垣さん、以上で事情聴取を終わります。この後、ご発言内容の精査も含めて調査を行いますので三週間程度のお時間をいただきます、その間出社は不要です。連絡があるまでご自宅でお過ごし下さい」と、鈴木はあえてその用語を使わなかったが、「謹慎」を言い渡された。


これまでであれば毎晩22時まで勤務していたにもかかわらず、今日は17時に銀行を放り出され手持無沙汰になったが、飲みに行くわけにもいかず、重い足取りながら帰宅し正直に美沙に起こしてしまった事件のことを打ち明けた。先週末帰宅してから様子がおかしい竹垣に何も言えなかったと美沙は涙した。


これまで異変を感じつつも、家庭の空気が悪くならぬよう精一杯笑顔でいてくれた気丈な美沙の振る舞いを思い出し竹垣も涙が堪えられなくなった。「ごめん。美沙の駐在の夢が遠のいてしまった。馬鹿なことをして申し訳ない」と竹垣は心の底から詫びたが、美沙はただ泣きながら首を横に振るのみだった。


翌日から竹垣の謹慎が開始した。竹垣が住む社宅には三十世帯ほどM銀行の行員家族が居住している。本来いるはずのない時間帯に竹垣がゴミ出しをしている姿を見た社宅の妻たちは一斉に竹垣のことを噂し始めた。何より娘から「パパ、どうしておうちにいるの?お体悪いの?」と言われるのが辛かった。


謹慎の間、様々なことを考えた。これまでの銀行生活のこと、担当してきた企業のこと、後輩たちのこと、育ててくれた上司・先輩の顔を思い出すたびに自分の不注意による過ちを深く悔いた。南田からの圧があったとはいえなぜ踏みとどまれなかったのか。格好つけようとした自分がいたことは否めない。


ただし、今回の件において部署で横行していた情報の持ち帰りや、南田のハラスメント的な行いについては何も触れていない。あとは南田を信じて間もなく下る沙汰を待つほかはない。副頭取までお出まし願い、大口案件の失注に繋がる失態を犯してしまった。厳重注意か降格か減給か。竹垣は不安に駆られた。


最後の人事との面談から三週間ほどが経ち、間もなく新年度を迎えようという頃、竹垣の携帯電話が鳴った。竹垣が電話に出ると「長らくお待たせいたしました、人事部の鈴木です。明日の金曜日人事部に出頭してください」との内容だった。銀行用語では人事部に出向くことを出頭という。まるで犯罪者だ。


翌金曜日、竹垣は白シャツに身を包んで大阪本社の人事部に出頭した。処分内容が決まったことを竹垣は覚悟していた。竹垣が待つ個室に鈴木の姿が見える。鈴木の手には白い紙が一枚、竹垣への処分内容が記載されている書類のはずだ。竹垣はゴクリと生唾を飲み込み、鈴木が処分を読み上げるのを待った。


鈴木が竹垣の目を見つめ「竹垣靖を重譴責に処す。」と読み上げた瞬間、竹垣は内心安堵した。重譴責とは銀行の処罰において、戒告⇒譴責⇒重譴責⇒減給⇒降格⇒諭旨解雇⇒懲戒解雇とある処分のうち下から三番目の量刑である。降格まで覚悟していた竹垣にとってこの処分は朗報のように思われた。しかし。


「四月一日付でM債権回収株式会社経営企画部への出向を命じる」と鈴木は続けた。M債権回収とはM銀行の子会社で不良債権の回収業務を専業とする機能を果たすが、銀行員にとっては墓場と呼ばれる左遷部署の代表格だった。これには思わず竹垣も「ちょっと待ってください」と鈴木に食って掛かった。


「鈴木さん、ほかの部員にはどのような処分が下ったのでしょうか?そうだ、南田さんは?同様に顧客資料を持ち帰りしていた松田は?東は何と言っていますか?」竹垣はまさかの出向処分に納得がいかず、とうとう自ら庇い続けた同僚をここで売った。鈴木は咳ばらいをし「落ち着きなさい」と竹垣を制した。


"「竹垣さん、あなた第一報で南田さんに『カバンをひったくられた』と虚偽の報告をなさいましたね。これは情報紛失事案においては紛失者の常套句です。また、今も同僚の方を貶めるような発言も見られました。これも被処分者の常套手段です。」

「そんなことない、持ち帰りは常態化していました」"


「いいえ。我々人事部はコンプライアンス部とともに和田部長以下皆さんにヒアリング致しましたが、竹垣さんのおっしゃるような事実は何一つ確認出来ませんでした。竹垣さん、功を焦りましたね。」竹垣は即座に「謀られた」と察した。和田・南田は竹垣一人に全てをなすりつけ部下に箝口令を強いたのだ。


副頭取まで担ぎ出す不祥事件の幕引きとして竹垣は和田・南田に生贄としてささげられた。また、この処分は他のメンバーへの見せしめにもなっていることに竹垣は気づいた。「事件を起こせば竹垣のようになる」という言外のプレッシャーを部下に与えるのにこれ以上効果的なことはない。陰湿の極致である。


竹垣が茫然自失のまま人事部の部屋を出ると、松田と東が申し訳なさそうな顔をしながら竹垣の荷物が入った段ボールを抱えて立っていた。「タケさん、すみません。」と松田が竹垣に申し訳なさそうに謝罪すると、竹垣は力のない笑顔で「お前らは気をつけろよ」と松田の胸を拳で叩きビルを後にした。


松田と東は駅に向かう竹垣の背中に深々と礼をして見送った。まるで銀行という現世を終えて冥土へ向かうものを見送るような仕草に見えた。「銀行員にとって処分出向とは銀行員生命の終焉を意味する、銀行員は銀行員であるから人間であるのだ」という言葉を松田と東が改めて脳内で反芻した瞬間でもある。


5年後ー。竹垣はM債権回収のオフィスでM銀行グループ主催のコンプラ研修に参加していた。テーマは「情報漏洩」。研修ビデオの主人公は30代の男性で、数字の重圧に負けて重要な顧客情報を持ち帰り、酒に酔って情報を紛失するという内容だった。竹垣の起こした事案は銀行内で研修教材になっていた。


ビデオの最後のシーン。情報を紛失した主人公が、締まりかかる電車の踏切を見つめて思いつめた表情で立ちすくむ姿で締められていた。情報を紛失するような職員は自ら線路に飛び込めというメッセージにも感じ取れた。あまりにも暗いビデオの内容に周囲の参加者からも「怖すぎる」という意見が聞こえる。


研修後、席に戻るとMグループの広報誌が配られており竹垣は表紙を見てギョッとする。「Mカード新社長にM銀常務の南田氏が就任」との見出しとともに、さわやかな笑顔で腕を組みこちらを見ている南田と目が合う。人を踏み台に座る出世の椅子、座り心地はいかがですか?と竹垣は問いかける。


おしまい

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