公爵令嬢は森の中で幸せに出会う ~つまり、トリたてて珍しくはないのかもしれない話~
杵島 灯
第1話 ここからの話
金の髪をなびかせて、ジンジャーは軽い足取りで木立の中を抜けていく。
いつもの岩場で道を折れ、白い花が咲く場所を抜ける。水がさらさら流れる音が聞こえてきたらもうすぐだ。早くなる鼓動を押さえつつ木の後ろからそっと覗くと、小川の向こう側に今日は彼の姿があった。それだけでジンジャーは踊りだしたくなるくらい嬉しくなる。
あの日。
王宮の舞踏会で王太子から婚約の破棄を言い渡された運命のときから、一年以上。
可愛がっていた妹はもちろん、慕っていた両親の突然の非情な仕打ち、加えて周囲からの冷たい視線を思い出すたびに「いっそ死んでしまおうか」とまで考えていたというのに、まさか自分がまたこんな風に何かを楽しんだり幸せな気分になったりする日が来るとは思わなかった。
小川の向こうにいる彼と触れ合うことはかなわない。たったひとときの夢のような時間だと分かっている。だけど、出会って話をする間だけはすべてを忘れて楽しんでも許されるだろう。
朝の空気を胸いっぱいに吸い込み、みっともないほどに緩んでしまう頬をほんの少し引き締めて、ジンジャーは隠れていた木から姿を現す。
「おはよう、サイモン。今日は早いのね」
声を掛けると、何かを探すように枝を見上げていたサイモンは顔をジンジャーへ向ける。
黒い髪が風に揺れ、奥に隠れていた青の瞳が優しく輝いた。
「ジンジャー、おはよう。実は昨日、珍しい鳥を見つけてね。今日もいたらいいなと思って夜明け前から探しているんだ」
「夜明け前から? ずいぶん長いこと探しているのね」
「とても綺麗な赤い鳥だったからね。……本当に綺麗だったんだ。あんな鳥を見たのは初めてだったから、君にも見せてあげたいよ」
微笑むサイモンはいつものように、この世の人だとは思えないほど麗しかった。
三か月前に突然現れたサイモンを初めて見たときの衝撃をジンジャーは忘れられない。
驚くほど整った顔立ちと均整のとれた体つきをしていたので、もしかしたら森の精霊ではないかと思ったのだ。
一方のサイモンもジンジャーを見て立ち尽くしていたので、小川を挟んだ二人は身じろぎもせずに互いのことをしばらく見つめあっていた。
最初に口を開いたのはサイモンの方だ。
「あなたは森の精霊ですか?」
問われてジンジャーは目を丸くする。
「こんな簡素な服を着た精霊がいるかしら?」
「ああ、服までは気づかなかったよ。何しろ君自身がとても素敵だったから」
「……ありがとう」
王宮にいた頃、煌びやかな衣装に身を包んだ人々からいくつもらっても特に心動くことがなかった賞賛の言葉だというのに、森の中の簡素な服装の青年からもらうそれはなんだか特別なものに聞こえた。
「あなたもとても素敵よ。森の精霊かと思ったくらい」
「それは光栄だな。僕の服も同じように簡素だけどね」
おどけて言う彼の言葉にジンジャーは吹き出した。確かに彼の服もとても簡素だ。
「本当だわ! 服なんて気づかないものね!」
こうしてジンジャーは、彼――サイモンと、この森でときどき会うようになった。
ただしジンジャーはこの辺境の屋敷に軟禁されている身だ。次に監視の目を盗んで森まで来られるのがいつになるのかは分からない。だからサイモンと会う約束をしたことはなかったし、そのせいで森へ来ても彼に会えず肩を落とて帰る日はしょっちゅうだった。その分だけ、こうして会えたときは本当に嬉しい。
さあ、今日は何の話をしようか。考えながらジンジャーが口を開いたときだった。
眼を見開いたサイモンが唇の前に人差し指を当て、その指をジンジャーの近くにある木へ向ける。何事かと思いながらサイモンの指先へ首を巡らせ、ジンジャーは思わず息をのんだ。
太い枝に一羽の鳥がいた。
カラスよりも少し大きいだろうか。長い尾がとても優美だ。そして見たこともないほど艶やかな赤い羽は、木漏れ日に照らされて炎のような輝きと揺らめきを見せていた。
あまりの美しさに声もなくジンジャーが見惚れていると、鳥もまたゆっくりと顔を動かしてサイモンとジンジャーを見返していたように思う。そうして優雅に羽を広げて飛び立ち、離れた高い木の枝へ移った。
思わず鳥を追って足を踏み出そうとしたジンジャーの動きを止めたのは、サイモンの声だ。
「ジンジャー」
小川の向こうのサイモンは真剣な表情だった。
二人が会うときはいつも小川越しだ。五歩程度の幅しかないこの小川は底も浅くて流れも緩やかだが、ジンジャーも、サイモンも、この小川を渡ったことは一度もない。
どんなに小さくともこの川は国境、公爵令嬢であるジンジャーが簡単に越えて良いものではない。
そして彼もまたこちらへ来ることはないのだとジンジャーは知っていた。
「僕は願掛けをしていたんだ。もしも今日、あの鳥を見られたのならジンジャーに言おう、とね」
「私に? 何を?」
サイモンは手を差し出した。小川の、国境の、上に。
「公爵令嬢ジンジャーに頼みがある」
「……私の正体に気づいていたのですね。王子殿下」
「ああ、君も僕を知っていたのか」
そう言ってサイモンは軽やかに笑った。
隣国の王太子、サイモン。小さな国の次期国主である彼には「国内をふらついては民にまざって暮らしてみる」という奇妙な癖があるそうだ。
サイモンに会ったその日、彼の噂を思い出したジンジャーは「まさか」と思った。だけどサイモンは自分のことを何も話さない。
だから互いの正体が露見するまではこの夢のような時間を楽しもうと思っていたのだが。
「これでもう、終わりですね」
「終わり? どうして?」
「どうしてって……私のことを知っているのでしたら、私の話もご存知でいらっしゃるでしょう?」
「悪女ジンジャーの話だね。――男にちやほやされることを至上としていた公爵令嬢。表の顔は良いが、裏の顔は酷いもので、王太子の婚約者であることをかさに着て周囲を見下していた。特に妹に対しては酷い扱いを続け、婚約者である王太子が妹に心を移してからは嫉妬に狂った挙句、あろうことか妹に毒を盛って殺そうとした」
ジンジャーはきゅっと唇を噛む。サイモンに会ってから少し薄れていた心の傷から血が流れるのが分かった。合わせて体がすっと冷える。
視界が暗くなって、地面の感覚も、草木の香りも薄れていく。遠くなる感覚の中でただ一つ、サイモンの声だけがはっきりと響いた。
「それがどうした?」
てっきり嫌悪の表情浮かべていると思ったジンジャーの意に反し、サイモンは不思議そうに首を傾げてるばかりだ。
「僕には人を見る目があるんだよ。おかげで国中から国のためになる人物を王宮に勧誘できた。例えば酒場に入り浸っていた凄腕の剣士や、雑貨屋を営む偏屈な賢者たちなんかをね。王宮にこもっていたら出会えない人たちだったよ」
「……それ、本当に『国のためになる人』なんですか?」
「もちろん。だからきっと君もそうなってくれると信じている」
「……え?」
「言ったろう? 僕は人を見る目があるんだ。ここしばらく話していて分かったよ。君は噂通りの人物なんかじゃない。……そうだろう?」
ジンジャーの目から涙が湧きだす。
それが溢れ、頬を伝っていくのを感じながら、ジンジャーは大きく何度もうなずいた。
舞踏会のあの日はもちろんのこと、以降も誰一人としてジンジャーの「私はやっていない、すべては偽りだ」という言葉を信じてくれなかった。
皆が信じたのは、妹の嘘だけだった。
周りからは家族も友人も離れて行き、ジンジャーはこの辺境へ追いやられた。ここで寂しく死ぬのだと思っていたが、ようやくジンジャーの言葉を信じると言ってくれる人に巡り合ったのだ。
「ジンジャー、こちらへおいで。君は僕にとって必要な人だし、僕も……君にとって必要な人になれると、思う」
「で、でも」
しゃくりあげながらジンジャーは口を開く。
「殿下。私、は。そちら、の、国で。な、なにをしたら、いいの、ですか?」
「とりあえずは僕ともっと親睦を深めてもらいたいな。だからその敬語をやめて、今まで通り親しく話してくれると嬉しいんだけど」
軽妙な口調で心が軽くなった。
そもそも国にいてたって打ち捨てられたジンジャーには居場所もないし、これから幸せになれるとも思えない。
ならば死んだと思ってやり直しをしてみるのもいいだろう。きっと、国にいるより幸せになれるに違いない。
「わかったわ。サイモンの国へ、行く」
「よかった。ところで、そちらの国に必要なものはあるかい?」
「ないわ。何一つとして、ない」
言い切ったジンジャーが泣き笑いのまま小川に向けて足を踏み出そうとすると、派手な音と水しぶきを立ててサイモンが躊躇なく小川を越える。そうしてジンジャーを抱え上げ、
「これから、よろしく」
と言って晴れやかに笑い、再び小川を渡った。
こうしてジンジャーは、とるものもとりあえず身一つで隣国へ行くことになった。「国にいるよりずっと幸せになれる」と思ったその予感が間違いでなかったことは、後の歴史が証明する。
***
「まあ、こういうわけだ」
「ありがとうございます。ですが聞く限りだと、アナタはこの話にあまり関わってなさそうな気がしますね」
「なんだって? ちゃんと聞いてたか? この二人が先へ進む切っ掛けになったのはオレのおかげだぞ? おかげで二人はオレに感謝して、家と国の紋章をオレの姿に変えたくらいだ」
「ははあ。それはすごいですね」
「だろ? てことでそろそろ行かにゃならん」
「どちらへ?」
「いま話した国だよ」
「何をしに行くのです? この話は昔の話で、ジンジャーとサイモンはもうとっくにいないのでしょう?」
「二人はいないが、二人の子孫と国は残ってる。オレを称えてくれてる以上はオレに出来る程度の加護は与えてやらないとな。面倒なことだが、まあ、しょうがない」
「……しょうがないと言いながら、なんとも嬉しそうに」
「何か言ったか?」
「いえいえ。『お疲れ様です』、と申し上げただけです」
「そうか」
彼が特に追及することもなかったのは、蘇ったばかりの体を確認するのに忙しかったからのようだ。
「大丈夫みたいだし、オレは行くぜ。じゃあな」
「またお会いしましょう。次も素敵なお話を期待していますよ」
ひらひらと落ちて来た赤い羽をうまいぐあいに空中でキャッチし、「これを羽ペンにしたらどうだろう」と思いながら、物語を集めるトリは飛び去る不死鳥を見送った。
公爵令嬢は森の中で幸せに出会う ~つまり、トリたてて珍しくはないのかもしれない話~ 杵島 灯 @Ak_kishi001
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