心願 MIDNIGHT Ⅱ ~夢魔の再訪~

シンカー・ワン

夜の訪問者、再び

 深い夜のとばりに包まれた迷宮保有都市バロゥ。

 定宿の四人部屋、空いていた四つ目の寝台ベッドが埋まってから久しい。

 四つ目の寝台のあるじ女神官尼さんの落ち着いた寝息が乱れ始め、徐々にだが甘い熱を帯びた吐息に替わる。

 ブランケット下で何度も繰り返す寝返りが止まると、寝間着代わりの肌着シュミーズと下穿きのなかへと手が潜り込み、自涜が始まった。

 自身の内側から湧き上がる性的快感に刺激されたことで、皮肉にも女神官の理性が呼び起こされる。

 同時に人の姿をしたケダモノから与えられた、少女期に受けた性虐待の記憶も。

 嫌だ嫌だと思いながらも、辛さから逃れるために快楽を受け入れた屈辱の日々を思い出す。

 尊厳を守ろうとする理性と肉欲に溺れようとする本能、背反する感情に揺られ乱された当時がよみがえる。

 自涜によって思い出す過去と「?」という現状への疑問、せめぎ合う心情に目覚めつつある女神官の意識。

 覚醒を頓挫させるように、怒涛のごとく押し寄せてくる色欲。理性の幹へと絡みつく情欲に打ち負かされ、

「――っ」

 声上げることは堪えるも、絶頂を迎えてしまう女神官。

 荒い呼吸が整っていくにつれ、肌から熱が薄れていくのを感じながら、倦怠感に覆われる身体をゆっくりと起こす。

 のは、特異なシチュエーションのせいか、あるいは別の何か理由があるのかを考えながら。

 破廉恥な行いを仲間に気づかれてはいないか? まだ火照りの残る顔をあげ、他の寝台を見渡す。

「……」

 耳に入ってくるのは先ほどまで自身が放っていたのと同じ、艶を含んだ荒い息。

 よろい窓から射しこむ明かりだけの薄暗さの中、なぜか視界にハッキリと映る仲間たちの乱れた寝姿、うっすらと汗をかき熱を帯びた肌。

 ブランケットをはだけて寝てしまう習慣のある、全裸の熱帯妖精トロピカルエルフが脱力した姿態を晒していた。すでに達したのか、大きく広げられた健康的な脚の付け根から粘り気を帯びた水気がしたたっていた。

 女魔法使いねぇさん忍びクノイチも似たような状況なのだろうと、乱れたブランケットに浮かぶシルエットから察する女神官。

『……いくらなんでも、四人同時に手淫を行うなんておかしい』 

 薄闇を無視したようなハッキリとした視界も含め、改めて場の不自然さに疑念を抱く。

 自身のこれまでの経験と知り得てきた見聞の中から、この状況にふさわしい事例を探ろうと、まだうっすらとかかる桃色のベールを引きはがしながら頭の中を回転させる。

『――そうだ……神殿の書庫に収められていた事象例……あと最近、耳にしたこともあったような……』

 記憶のパズル、その断片がひとつひとつ組み上がってゆき、答えにたどり着く女神官。

「――淫魔インキュバス

 導き出した答えを思わず口にすると、

「正解だ、ボゥインの使徒よ」

 呼応するかのように、耳触りの良い男の声で賞賛が飛んできた。

 反射的に声の出所を探ろうとするが、なにかを思い出したように留まる。

 存在感はある、だが存在しない。気配のみで実体のない相手を探すのは無駄――。

「――ほぅ、判断が早いな」

「あなた方のような存在とは、なんどもやり合ってきた歴史がありますから」

 感心した声音のインキュバスに、落ち着いたトーンで返す女神官。

「それに、仲間から襲われたことを聞いていますしね」

 ちらりと忍びの寝台に視線をやって言うと、

「あのときは途中で目を覚まされたのでな。今回はもう少し深く夢見てもらうことにしたのだが、まさか耐えてしまう者が居ようとは」

 苦笑交じりに女神官へと返すインキュバス。

 女神官は笑わない。

 インキュバスの言葉に、果てるのが早かったことへの合点がてんがいく。自分のペースではなく、他者によって強制的にイかされたのだ。

 ――。

「だが、あの娘とは違い、ほどよく楽しんでもらえたようでなによりだ」

 皮肉でも嘲りでもなく、夢での奉仕を受け入れてもらえたことを喜ぶ口調で告げてくるインキュバス。

「神の使徒から得られる滋養は、我らにはこの上ない甘露であるからな」

 ――ああ、癇に障る。満足げなその言葉に女神官の目が座る。

「敬虔な神の使徒ほど心の底にため込んだおりは、地獄のように暗く濃く深い。使徒よ、貴様のは中々の美味であったぞ」

 軽やかなインキュバスの声。

「情欲と理性の葛藤。削られる精神こころを守らんがためあえて肉欲に身を委ねるなど、実に我ら好み」

「――黙れっ」

 歌うようなインキュバスの語りを、怒気のこもった女神官の一喝が遮る。

「それ以上、喋るな語るな、黙ってろ」

 低く重い声音で制する女神官。普段とは違う言葉使いが怒りの深さを表すようだ。

「――逆鱗に触れてしまったようだな。詫びよう」

 が、インキュバスは臆さない。人の怒りなどどこ吹く風といったよう。

「だが、使徒よ。自身がボゥインの使徒である前に、人の子であることを忘れてはならんな」

 静かに負の空気をまといだしている女神官を、諭すように言葉を続ける。

「肉の身体が欲する快楽になぜ抗う? 子を産む者が受ける苦役の代償として、天上の神々が与えた肉の喜びをなぜ否定する?」

 色欲に溺れることは、神に背くわけではないと。

「神の言葉に従う者とはいえ、自身の欲や望みを遠ざける必要などなかろう? 人とはもっと自由な存在ではないのか?」

 夢魔が――悪魔の一族が――神に仕える者へと真理を説く。これは冒涜か?

「神に助けを乞うて女としての尊厳を奪われた貴様が、神に従う道理はなかろうに……おっと、これも触れてはならぬことであったな、許せ」

 さらりと女神官の心の傷に触れるも、穏やかな口調と柔らかな声音で紛らわせるインキュバス。

 寝台に坐したまま、女神官は応えない。

痴情と肉欲の女神グラマナの使徒を見よ。肉の喜びを受け入れ自らを慰撫し、他者を癒すことを至上としているではないか。同じ光の神の使徒がなぜ習わん?」

 光の神々とてそれぞれで教義は違う。だが夢魔は言葉を駆使て己の求める答えへと誘う。

 いかに紳士然としていようが所詮は夢魔、悪魔の一族。

 連中が望むのは人の堕落。神の使徒たる聖職者を堕とすのは最上の愉悦。

 堕落させ己が栄養源として、命尽きるまで精神を弄ぶことこそが目的。

 インキュバスが放つ、心の隙間をついてくる言葉に女神官は揺れる。

 甘言だとわかっているが、理性を飛び越え本能に訴えかけてくるため抗えない。

 女神官は自分がけして敬虔な信者でないことを理解している。

 むしろ、辛かったときに手を差し伸べてくれなかった神を、恨んでいる自覚もある。

 だが神はそんな自分を受け入れ、奇跡の代行者とした。

 救わなかったことへの救済か? あるいは別の意味があるのかもしれない。

 神の御心を人間風情に理解できるわけがない。

 たとえ気まぐれや罪滅ぼしだとしても、与えられた能力ちからは使わせてもらう。

 資格がないと神が取り上げるそのときまで、己のために。

 思考が答えに至った時、女神官の中でが弾けた。

『――今更なにを迷うことがあったのか。神託を受けたあのときから進むべき道はわかっていたのに!』

 自分のために、自分が思うように生きる。奪われたすべてを取り戻すために。

『あぁそうだ。肉欲に逃げていたのも私、快楽を受け入れたのも私。今になってその程度のことで悩むとか、なんて卑小な』

 うつむいた口元に笑みが浮かぶ。

 ――私は私、それでよい。

 言葉を紡がず心の中で神に願う。魔を祓う力を。

「ふ、言葉もないか……。ぬっ?」

 うつむき黙ったままの女神官。

 『堕ちた』と思ったインキュバス。取り込まんと近づくも、女神官から湧き上がる清廉な気に危険を察し距離を取ろうとするが、

解呪ディセン!」

 逃さぬと、裂ぱくの気合で放たれる退魔の奇跡。

「ぬおぅっ」

 インキュバスから上がる驚嘆の声。同時に部屋全体を覆っていた夢魔の気配が一部消失する。

「さすがに一度では無理ですか。ならば何度でも――」

「待てっ、待てボゥインの使徒よ」

 続けざまに解呪の奇跡を願おうとした女神官を、インキュバスが制す。

「なんでしょう? 言っておきますが談合には応じませんよ?」

 明らかに動揺した気配のあるインキュバスへと、不敵な返事をする女神官。

「認めよう、我の負けだ。貴様を堕とすことは諦めた。大人しく去ることを誓おう」

「夢魔の誓いなんて当てになりません」

 神妙なインキュバスに対し、女神官は容赦ない言葉を飛ばす。

「貴様が我を滅ぼそうとすれば、我も本気で抗わねばならん。戦いは我の本意ではない」

「なら、大人しく滅されなさい」

 の通しあいで成り立たない会話に、

「……使徒よ、貴様の信仰では我に届かぬことをわかっていながら、なぜ祓おうとする? 去ることを受け入れぬ?」

 理解に苦しむとばかりなインキュバスへの答えは、

「意地があるのよ、女にも」

 一瞬の沈黙が生まれ――、

「フハハハハハッ。面白い。実に面白いぞよ」

 愉快痛快といったインキュバスの高らかな笑い声が部屋に響く。

「紡がれたえにしを切るのが惜しくなった。またいつか会おうぞ」

 一方的な宣言とともに、夢魔の気配が薄れていく。

「待て、勝手に逃げるなっ」

 女神官が解呪の奇跡を願うよりも早く、霧散する存在感。

 部屋を覆っていた淫靡な空気が晴れ、あれほど明確に見えていた視界が薄明かりにくらむ。

 やはりインキュバスの能力ちからによるものだったかと、女神官。

 一矢は報いた。だがトータルで見れば完敗だ。

 やすやすと部屋への侵入を許し、記憶と心を読まれ秘めていた色欲を解かれ、いいように弄ばれて精神吸奪エナジードレインされたあげく逃げられた。

 顔をあげ虚空を睨み、つぶやく。

「次、逢ったときは……」

 敗北の屈辱を胸に刻み、女神官は誓う。

 

 翌朝、一党の間がどことなくぎこちなかったのは……詮索しないでおこう。 

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