Mov.7 ライバル不在

 エスターが入学したのは2年前。

 

 元々歌うことが好きなエスターはいつも歌っていることで有名な新入生だったらしい。授業も誰よりも真剣に、楽しそうに受けていたそうだ。

 

 しかし、残酷なことにエスターには才能がなかった。


 同学年の生徒が聖歌を歌えるようになっても、エスターだけは上手くできなかった。

 

 練習してるくせにできないなんて、実は表向きだけ頑張ってるアピールをしてるんじゃないか、という心ない言葉を浴びせられていじめにもあっていたそうだ。

 

 そして、皆の所属する聖歌隊が決まる中、エスターだけは取り残されてしまい誰とも話さなくなってしまった。

 

 先生や先輩がどれだけ力になろうと声をかけても、心を閉ざしてしまったエスターは全てを突っ返してひとりで使われてない教室に篭って練習するようになったらしい。

 

 寮のルームメイトたちも腫れ物に触るように扱う中、面倒見の良いフィンだけは根気よくその教室に通っていたらしく、唯一心を開いてくれてたまに一緒に練習をすることになった。

 

 朝起きて声出しをして、授業の休み時間は楽譜を読み、放課後は教室で歌い続け、夜は寮を抜け出して中庭で。その努力を1年続けて、2年生になる頃ようやくヘルベール隊への加入が決定した。

 

 加入後もエスターの練習量は変わらず、人の何倍も努力を続けて今ではパートのトップとして歌うようにまでなったという。

 

「あれだけストイックに練習に打ち込んで、1年かかったんだ。だから、すぐに身につくノエルの才能が羨ましくて、悔しかったんだろうね」

 

「そう、だったんだ」

 

「自然に歌えたノエルが才能のある天才なら、エスターは努力の天才だよ。お互いわかり合うのには時間がかかると思うけど、歩み寄ろうとすることはできるんじゃないかな?」

 

 フィンはそう言うと僕の背中を優しく撫でて、練習部屋を後にした。

 

 *

 

 翌朝、授業が始まる前にヘルベール隊は練習部屋へと集められた。部屋の中の空気は重く、誰もがゲオルクからの言葉を聞きたくなさそうな顔をしていた。

 

「昨日の事件によりエスターは2週間の謹慎処分、そしてこの最悪のタイミングでヘルベール隊の巡礼の旅が3ヶ月後に決まった。曲目はこの後配布する内容になる予定だ」

 

 ゲオルクがそう言い切ると、ざわざわと皆不安そうな顔で話し始めた。


 巡礼の旅は、各隊が交代で国中を浄化して回る旅のこと。

 1回の巡礼の旅でいくつかの都市を回るため、1~2ヶ月間の旅になる。そのために日々練習をしているため、この学園に関わる者にとっては最重要なイベントだ。

 

「肝心の最初の期間にエスターが不在って…」

 

「この巡礼、間に合うのか?」

 

「いや、それよりパート割はどうするよ?さすがにエスターはトップから外すか?」

 

 各々、不安に思うことを口に出さずにはいられず、重たかった空気はさらにどんどん悪くなっていく。僕があんなことを言わなければ、ただ巡礼の旅が始まるだけだったのに。

 

 どんどん色を失い青白くなっていく僕の肩をぽんっと叩き、フィンはゲオルクのいる指揮台へと進んでいった。

 

「まあ、みんな落ち着いて。不安なことはあると思うけど、巡礼の旅は待ってくれないよ。それに、エスターは休めと言って休む子じゃない。むしろちゃんとやっておかないと逆に私たちが足を引っ張ることになるんじゃないかな?」

 

「フィンの言う通りだ。不安はあるだろうけど、我々は今できる限りのことをしたい。それから、暴力を許す訳ではないが謹慎からエスターが戻ってきた時には暖かく迎え入れてやってほしい」

 

 最年長であるフィンとゲオルクによって、みんな落ち着きを取り戻す。僕を除いて。

 

 最初の出会いこそ最悪だったが、今ではエスターのことが嫌いな訳ではない。エスターと競い合うことで注目を浴びて早く隊に馴染むことができたり、上手く歌えるように特訓する気になったので感謝もしている。

 

 過去最速での入隊で、もてはやす先輩が多い中、ただのライバルとして同等に扱ってくれるのもエスターだけだった。

 

「僕のせいで…すみません…」

 

 ぽろぽろと涙が溢れ、その場にしゃがみ込む。僕が軽率にエスターを挑発しなければ、こんなことにはならなかったはずだ。

 

「過ぎてしまったことは仕方ないよ。この後どうしていくかを考えよう。あと、ノエルが本当に謝るべきなのは僕たちじゃないよね?」

 

 厳しい言葉を言いながらも僕の頭を撫でて落ち着かせようとしてくれるフィンの胸の中で、僕はただただ涙が止まらなかった。


 *

 

 エスターの謹慎が始まって1週間、僕はまだ謝ることもできずにもやもやとしていた。

 

「ノエルー?次の授業は移動教室だぞ?早くしないと遅刻するぞー!」

 

 ぼーっと机に突っ伏している僕にオリバーはそう声をかけた。

 

「気分じゃない…ちょっと休んでくるよ」

 

「おう…わかった!先生には上手く伝えておくから、その次の授業からは来いよ!」

 

 じゃあな、と言い残し廊下を走っていくオリバーを見送り、僕はフラフラと立ち上がる。授業にだけはきちんと出ていたので、こんな時にどうしていいかがわからない。

 エスターは学生寮で1人なんだろうか。授業は、練習は…。

 

 才能に恵まれなくても努力を惜しまず、それすらを楽しんでいた人から取り上げてしまうなんて。そんな資格があるほど僕は偉くない。

 

 行くあてもなく廊下を歩いていると、初めてエスターと出会った教室に来ていた。静かな教室の端には、大量の楽譜が積み上げられていた。

 

 走り書きで書かれたメモの筆跡は間違いなくエスターのもので、この教室を私物化しているくらい長い時間をここで過ごしていたんだろう。山の1番上にある楽譜を見ると、次の巡礼の旅で歌う曲だった。

 

 難しいポイントや、自分の苦手なフレーズへの書き込み。どのパートに合わせるか、聞くべきはどこか……。

 集中もできずに参加している僕よりも、はるかに読み込んで謹慎明けにすぐ参加ができるように準備をしているのだろう。その姿を想像するだけで、目の周りが熱くなる。

 

「……なんでお前がここにいるんだ?」

 

 潤んだ目を押さえながら声がする方を向くと、教室の入り口に楽譜を持ったエスターが立っていた。

 

「ごめん……授業に集中できなくて、ふらふら歩いてたらここについて…それで…」

 

 涙を拭いながら立ち上がりエスターのある方に体を向け、覚悟を決めるために大きく深呼吸をした。

 

「あの時、何も知らず調子に乗っていたとはいえ、エスターが言われたくないことを言ってしまって本当にごめん。フィンから色々教えてもらって、その…」

 

 謝罪の後ごにょごにょと続ける僕を呆れたように見ていたエスターは、大股で勢いよく僕の方へと歩いてきた。

 

「お…俺の方こそ悪かった。練習を見られた時も、今も頑張ってやっと追いつけてることをあんまり人に知られたくなくてついあんなことを…」

 

 そうして、お互いにどうしたらいいかわからない沈黙の時間が流れた。居心地が悪いような、この1週間重くのしかかっていた気持ちが軽くなったような、なんとも言えないままお互いに顔を背けていた。

 

 お互いに意地っ張りで、負けず嫌いなせいで黙り続けている間に授業の終わる鐘が聞こえてきた。

 オリバーが心配していたから、次の授業は出ないと…なんて考えていると、エスターが先に沈黙を破った。

 

「あの…さ。練習でわかんないことがあったらここに来いよ。謹慎中でも先生に頼み込んで、ここに来ることだけは許してもらってるからさ。お前、才能あるくせに合わせるのはまだまだだろ?」

 

 思いもしない提案に僕はぱっと顔を上げてエスターの目を見つめた。その目は歌っている時と同じ、真剣な目をしていた。

 

「ありがとう。正直、歌うのもまだ自信がある訳じゃないんだ。この1週間で僕はまだまだエスターには張り合う資格や実力がないこと、わかったよ。だから、よろしくお願いします……!」

 

 こうして僕たちは握手を交わし、それぞれのいるべき場所へと戻っていった。

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