牛追いの娘

第1話

 ふたつめの太陽が地平線の向こうへ沈むころ、二本足の生き物は、地上に降り立つことが許される。

 白と紫と紅の入り交じった西の空の色をしばらくの間ぼんやりと眺めた後、ムスメは慎重に樹上から降りてきた。

 久々に大地を踏みしめるとき、いつもムスメは、不安と焦燥に似た名状しがたい感情が湧いてきて、落ち着いていられなくなる。

 裸足の足の裏が触れているのは、細かい乾いた砂が詰まった地面で、固く、風が吹くと小さな小さな砂埃が舞う。泥沼のような場所を歩いたり、ごつごつと固い表面を持った岩場に比べれば、今ムスメが降り立ったこの大地は、安定して立っていられる場所であるはずだった。

 ――なのに、不安になる。

 もぞもぞと手足を動かしながら、徐々に薄暗くなる荒野を見回していると、頭上から聞き慣れた羽音が迫ってきた。

「よう、また陸酔おかよいしてんのか、ムスメさん」

 滑空し、直前に翼の揚力でスピードを緩めてふわりと舞うと、それはムスメの肩に静かに乗った。

「オウル!」

「トリだって言ってるだろう」

 雄々しい姿で上空から降りてきたフクロウは、翼を背でたたむと途端に、なめらかな球型の愛らしいフォルムになる。

 まん丸な目は闇での活動に適しており、夜目の利かないムスメには地上での作業を手助けしてくれるとありがたい存在だった。

「バッファローが死んでいるな」

「……うん」

 数メートル離れた先に、一体の、四つ足の動物の死骸があった。すでに蠅がたかっている。

 ムスメはそこへ向かって歩き出した。

「また皮を剥ぐのかい」

「それも欲しいけど……やっぱり、きちんと弔ってあげたくて」

「まったく、どうかしてるぜ。そいつはもう「すべてを破壊しながら突き進むバッファローの群れ」ではない。つまり、俺たち「牛追い」には関係ないんだ」

「……わかってるよ」

 すべてを破壊しながら突き進むバッファローの群れが、群であり、その破壊の意志を共有し、意識を集合させることで、その「存在」を保っているように、ムスメたち牛追いは、「個」であることを証明し続けることで、この星に存在することを許されている。

 群れからこぼれ落ちた一個体は、もはや集合でも、個でもなく、ただ朽ちてゆくだけの無為の存在だ。

 ――それを悲しいと思うのは、おかしいことなのかな。

 ムスメは生まれながらにして、牛追いの中でも平均から外れた存在だった。

 ムスメの母親は気が触れていて、ムスメを抱いたまま空からいつまでも降りて来なかった。何故そんなことになったのか、ムスメは未だに知らない。多くの牛追いは、巣立ちや乳離れが終われば親元を離れ、それぞれにこの、やがて破壊し尽くされるだろう地球に降り立ち、牛を追うようになる。

 ムスメの母親は、己を「母」と名付けていて、己をを個として認識するときに、常に母たる自分を中心に置いていた。

 だから母は母であり、娘はムスメなのだった。

 衰弱した母が地面に墜落して死んでしまった日、娘は初めて大地を知った。すでに自力で歩行すらできる歳になるまで、ふたつ目の太陽が沈んでも地上に降り立たず育ってきた子どもは滅多にいなかった。

 ムスメは自分をムスメと名付けたので、そのとき偶然そばにいたトリと名乗る猛禽を次の親と定めることにした。

 トリは、ムスメと違い、羽毛に包まれ大きな翼を持つ鳥類だった。

「お前とは違う。バッファローがすべてを破壊する前から、俺たちの祖先はどこまでも空を飛んでいけんたんだからな」

 そう言いながらも、トリはムスメが、トリを慕うことを厭いはしなかった。今もこうして、ムスメのに付き合ってくれている。

 横倒しになり、もう動くことのないバッファローの体に、ムスメは慣れた手つきでナイフを入れる。不快な、新鮮ではない肉と血の臭いが漂い、集っていた虫たちが一瞬、死体から遠ざかって、すぐに戻ってきた。

「皮ばっかり集めて、今度は何に使う気だ?」

「この前、人間の遺跡で見つけた古書の、保護カバーを作るの」

「またか!」

 呆れたようにトリが叫んだ。

「大体、古代人の記録なんて集めて、なんになるってんだ。どうせ読めもしないし、バッファローを追うのに何の役にも立たないだろう」

「この前ひとつ、役に立ったじゃない」

 ムスメは荷物から、前回のに滅んだ遺跡から見つけた書籍を取り出した。これは、『図鑑』というものだと思われた。文字の他に絵が沢山ついていて、いつもよりわくわくしながらページをめくっていると、中にトリにそっくりな鳥の絵があったのだった。そして、その名前が、「OWL」と表記されており、かろうじてムスメはそれを、「オウル」と発音することがわかった。

「トリは、人間の言葉で「オウル」と言うのね」

「俺はトリだ。それ以外の何ものでもない」

「いいじゃない、他の呼び名があったとしても」

「名前がいろいろあると、自己同一性アイデンティティが揺らぐ。そうすれば、『牛追い』としては存在できなくなるぞ。群れからはぐれたバッファローのようにな」

 かつて、神が気まぐれに、創造した自分の世界のすべてを破壊しようと思いついた。そして信託を受けたバッファローが群れをなし、すべてを破壊しながら突き進んだ。神は更なる気まぐれで、すべてが破壊しつくされるまで、その過程を見守らせようと考えた。その使命を受けたのが、生き残った二本足の動物たちだ。ムスメの祖先は哺乳類で、トリの祖先は鳥類だと思われた。生まれたときから牛追いとしての使命を受けた彼らは、理由もなくただ本能で、バッファローの群れの行く先をただ追っている。

 バッファローが破壊した人間の遺跡を、ただそれとして目撃し、記憶すれば、牛追いとしての使命は果たしたことになる。破壊された遺跡の中に、破壊しきれなかったものが残っていて、それがどんなものであるかを確認する必要はない。

 だが娘は、それを収集するのが、なぜだか、好きだった。

 『紙』という素材で作られた『本』というものは、ムスメの心を特にくすぐった。風雨や熱や光でダメージを受けたそれはすぐにボロボロになってしまうので、時折、道すがら見つけたバッファローの死体の皮を使って、ムスメは保護カバーを作っている。無駄なことだ、とトリはいつも呆れながら、黙って見ていてくれている。

「でも、私たちもいつかは必ず自己同一性を失って、意識がばらばらになって、消滅してしまうんでしょう」

「いつかは、な。だが、自ら死に急ぐことはない。それまで、俺たちはただ、バッファローを追っていればいいんだ」

「とりあえず?」

「とりあえず、じゃない。これは、使命なんだ」

 そうだろうか、とムスメは思う。しかし、トリにうまくその気持ちを伝えることができなかった。

 ばらばらになってしまった後、私たちの意識はどこへ行くのだろう。いつか必ずそうなるのであれば、牛追いの使命は結局、一時的な、とりあえずの使命なのではないだろうか。

 もしかしたら、もうここにはいない自分の祖先が、本にその答えを記しているのではないか、などと思うこともある。だが自分が自己を手放すまで、これらが解読できる日は来ないだろう。

 ムスメはバッファローの死体で作ったカバー越しに、古書の表面を撫でた。

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牛追いの娘 @madokanana

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