はなさないで①。~ 彼女がくれたもの、僕があげたもの ~
崔 梨遙(再)
1話完結:2800字。
もう20年ほど? 前の話。僕は20代後半だった。僕は金曜の夜に、ギターで弾き語りをしていた。ただの気分転換。自己満足。僕はギターも歌も下手なので、足を止めてくれる人はいつも少ない。そして、繁華街とはいえ、終電が無くなると人通りは一気に減る。
“さて、そろそろ帰ろうかなぁ”
と思って片付けようとすると、1人の女性がしゃがみ込んだ。スレンダーな美人だった。“夜のお仕事っぽい”服装と雰囲気だったが、そんなことはどうでもいい。美人なら、それでいいのだ。僕は無難な曲を歌った。
「ほな、帰るわ」
僕が言うと、
「なあ、飲みに行かへん?」
と、誘われた。
「ああ……うん、ええよ」
弾き語りをしていると、女性から誘われるのは珍しくない。僕達は、居酒屋に行った。僕のお気に入りの居酒屋だった。店には電灯が無い。灯りは全て蝋燭。壁とテーブルの上に蝋燭。しかも、カーテンでテーブル毎に仕切られるので、2人きりの空間になる。雰囲気が良い。
その薄暗いムードの中、その女性、朱美の耳元で愛を囁き続ける。朱美は年齢不詳だが、僕より少しだけ歳上だと思った。店を出たあと、僕達はホテルに入った。朱美は嫌がらなかった。
朱美が上。だが、途中、謎のうめき声が聞こえ始めた。
“ま、ま、まさかー!”
「ゲボーッ!」
顔の上に、ゲロを吐かれた。臭い! ベトベトして気持ちが悪い! しかも、ゲロは第2波、第3波と飛び出てきた。ようやく吐き終わった時、僕は髪の毛までベチャベチャだった。慌てて風呂に入る。スグに浴室にゲロの臭いが充満する。だが、換気扇が頑張って臭いを消し去ってくれた頃、僕は浴室を出た。朱美は懲りずにビールを飲んでいた。
大騒動だった。
ベッドに吐き出されたゲロで、部屋の中が臭い。もうすぐ始発の時間だったので、僕達は始発の時間まで時間を潰してホテルを出た。駅まで朱美を見送る。朱美は僕の手をギュッと握っていた。
「今日はごめんなぁ。でも、この手をはなさないでね」
駅に着いたが、朱美は繋いだ手をなかなか離そうとしなかった。
「なんで、離さへんの?」
「今夜、名誉挽回のチャンスをちょうだい」
「トラウマになったんやけど」
「お願い」
ゲロさえ吐かなければ、朱美は素敵な女性だ。
「わかった、ほな、今夜」
夜、朱美の仕事帰り、会うとスグにホテルに行った。そして再戦。また朱美が上。僕は不安で仕方がなかったが、“まあ、2日連続は無いだろう”と思っていた。だが、また朱美のうめき声。
“ま、ま、まさかー!”
「ゲボーッ!」
2日連続、僕は朱美のゲロを浴びた。
大惨事。
僕はまた風呂へ! そして、風呂から上がるとビールを飲んでいる朱美。
「反省してへんのかーい!」
「私、起きてる間ずっと飲んでるで」
始発、僕は駅まで朱美を見送る。繋いだ手を離そうとしない朱美。
「今夜、もう一度、チャンスをちょうだい」
「えー! もうやめようや、マジでトラウマになるわ」
「もう1回、最後のチャンスをちょうだい!」
「わかった、ほな、今夜」
夜、朱美の仕事帰りにまた会った。そしてホテルへ。だが、ここで一工夫。今度は僕が上だった。そして、また朱美のうめき声。
「ゲボーッ!」
噴水。寝ゲロが噴水状態になることを初めて知った。僕はまた顔で受け止めた。勿論、またスグに風呂に入る僕。僕は何回、こんなことを繰り返しているのだろう?
大事件。
ゲロにまみれたベッド。部屋が臭すぎる。そんな中、朱美はビールを飲んでいた。そしてまた、始発の時間が迫った頃にホテルを出た。
「この手を離さないでね」
「離すわ! このゲロ女!もう3ゲロやで!」
「元彼は5ゲロまで耐えてくれたで」
「元彼にもゲロ吐いたんかーい!」
「うん、吐いた」
「僕は5回も我慢出来へん、お別れや」
「えー! ゲロくらいええやんか」
「さよなら、お幸せに!」
僕と朱美は、その後、もう会うことは無かった。
また、或る金曜日。弾き語っている僕の目の前に、カワイイ娘(こ)がしゃがみこんだ。多分、20代前半、多分、普通のOL。その多分OLが言った。
「飲みに行こうや」
「うん……ほな、行こか」
例の居酒屋。そのOLは美里という名前だった。薄明かりの中、愛を囁く僕。警戒心を解いていく美里。美里は彼氏と別れたばかり。心の隙間を埋めてほしいらしい。僕は、美里の心の隙間に入り込んだ。実は、そのムーディーな居酒屋の近くにホテルがある。僕が手を繋ぎながらホテルに入った。
素敵な夜を過ごすことが出来た。
始発で帰る美里を駅まで見送る。手を繋ぎながら。そして、また次の金曜の晩に会う約束をした。次の金曜は、美里の誕生日だった。
しかし、その金曜、急遽接待が入ってしまった。早く解散させてもらい、なんとか美里との約束には間に合ったが、少し悪酔いしたと自覚していた。食事して、自然な流れでホテルへ。そこで、まだプレゼントを渡していないことに気付いた。でも、まあ、1回愛し合ってから渡せばいいかな? と思った。
「忘れられない日にしてあげるよ」
自然な流れで愛し合い始めたが、僕に異変が生じた。ヤバイ。吐き気がする。“中断してトイレに行こうか?いやいや、そんなことをしたらムードがぶち壊しになってしまう。ここは、なんとか耐えて……。などと考えていたら、激しく込み上げて来た。堪えきれない。
「ゲボーッ!」
僕は吐いた。ゲロは全て美里がかぶった。第2波、第3波を吐き終わり、スッカリ楽になったところで、慌てて美里が風呂場に駆け込んだ。美里が風呂に入っている間に、僕は顔を洗い口をすすぎ、ゲロまみれのシーツを丸めて部屋の隅に置いた。だが、シーツでは防ぎきれず、敷き布団に染みこんでいる分はしょうがなかった。
美里は風呂から上がると、めちゃくちゃ怒っていた(そりゃそうか)。僕はボクサーブリーフ1枚で正座。
「忘れられない日にするって、こういうことやったん? 確かに一生忘れへんわ。忘れられへんわ!」
「ちゃうねん、ちゃうねん、ちゃんとプレゼントも用意してたんや」
僕は、小箱を渡した。
「キレイなネックレスやけど、崔さんとはもう会わへんからもらわへんよ」
「ほな、今日のお詫びということで受け取って!」
「わかった、ほな、お詫びということで受け取るわ」
「もう、会われへんのかな?」
「もう、2度と会わへんよ」
「そうか……」
始発に合わせてホテルを出た。僕は美里と手を繋いだ。ギュッと握る。だが、美里は握り返してくれなかった。
駅に着いた。
「この手を離さないで!」
僕は懇願した。
「離してや、このゲロ男!」
以前、朱美に“ゲロ女”という言葉を浴びせたが、僕も“ゲロ男”と呼ばれた。呼ばれてみると、悲しい。
「僕も或る女性にゲロ吐かれたけど、3ゲロまで我慢したで」
「私は、1ゲロでも許されへんねん!」
美里とは、1ゲロで終わってしまった。“ポリ袋を持参した方がええよ”と忠告された。なるほど、と思った。だが、流石に僕が愛し合いながら吐いたのは、後にも先にもその1回だけだ。まあ、普通は1回も吐かないか……。
はなさないで①。~ 彼女がくれたもの、僕があげたもの ~ 崔 梨遙(再) @sairiyousai
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