参ノ伍 満月の下、気高き狼の血脈
重雪峡の北、約15キロメートルほどの地点。
自分たちの後ろからにじり寄る不審者の気配に、やがて斗羅畏(とらい)も気付いた。
馬が数頭の足音、耳を澄まさなくとも、静かな夜にはよく響く。
「とらい?」
背に負われていた倭吽陀にも、その緊張が伝わった。
逃げるという選択肢は、斗羅畏にはない。
そもそも倭吽陀を背負って徒歩で逃げられるわけもなく、子どもを置いて自分だけ走り去るなど、頭に浮かびもしなかった。
「面倒なことになったな」
昼間の狩り勝負のときに、五本あった矢のうち、何本か使ってしまっている。
そして満月と言えど夜であり、日中に巨大な熊を撃つのとは勝手が違う。
片目が半分塞がっている斗羅畏にとって、必中必殺の矢を連続で、動く人間相手に放つのは難しかったし、なにより矢の本数が足りない。
まったく、準備の足りないときに限って、厄介ごとが舞い込んでくる。
あのときも、そしてあのときもと、過去の記憶に歯噛みする。
斗羅畏は心の中で、悪態を吐き続けた。
「俺の後ろにいろよ」
斗羅畏は倭吽陀を背から降ろして、腰の剣を抜いた。
路上に仁王立ちする斗羅畏に、矢を射かけるものはいない。
こちらを本気で殺したいのならそうするべきなのに、バカな連中だと斗羅畏は思った。
もしくは夜に騎射でこちらを仕留める自信がないか、矢の損耗をケチっているかだろう。
「おっと、やる気だね、お兄さん」
「立派な剣を持ってるじゃねえか」
「青牙部(せいがぶ)の田舎もんには見えないぜ。品のある顔をしてやがる」
口々に斗羅畏を批評しながら曲がり道の死角から姿を現したのは、男女混合の五人。
倭吽陀の顔を見ても、遠慮の反応をしないということは、旧青牙部の領民ではない。
「どこから来た、なにものだ」
我ながら間抜けな質問だと思いながら、斗羅畏は尋ねる。
堂々と名乗る相手であれば。
せめて人として殺し、人として弔ってやるくらいはしよう。
でなければ獣以下の生ゴミとして、路傍に打ち捨て、腐らせるだけだ。
「へへっ、どうせ死ぬんだ。名乗っても意味はねえ」
「残念だけど、命乞いも聞かないよ」
問答無用の方針で、全員が小ぶりな剣を抜いた。
こちらを確実に囲んで殺したいと思っているのだろう。
多対一の白兵戦の場合、長い剣や槍は却って同士討ちの危険がある。
愚かな盗賊なりに、考えているらしいなと斗羅畏は思った。
弓を使わないのは、斗羅畏が林の中に逃げ隠れてしまうと面倒だからかもしれない。
「もう一度だけ聞いてやる。名乗るなら、言い残すことがあるなら今だぞ」
斗羅畏の言うのに構わず、無言でじりじりと距離を詰める、正体不明の盗賊たち。
ぎゅっと斗羅畏の衣服の裾を掴んだ倭吽陀が、ぽつりと斗羅畏に教える。
「こ、こくふくのれんちゅうが、このあたりでかってなことやってるって、かあちゃんがいってた……」
この地から西北方面に、広く住んで完全な移動遊牧スタイルの生活を続けている、黒腹部(こくふくぶ)と呼ばれる勢力。
先祖が同じかどうかも分からない、系統の大きく異なる「自称・戌族(じゅつぞく)」の彼らが、覇聖鳳の倒れてからこっち、この地を生意気に侵食している。
その情報は斗羅畏も勿論認識しているが、自身の目で見るのははじめてだった。
覇聖鳳が生きていたときは、調子に乗ることをしていなかったのに。
頭領が斗羅畏に変わってからというもの、小規模なトラブルをあちこちで起こすようになった、ということは。
「要するに、俺は舐められているということか」
ガンッ!
バイザー型の軽装兜を脱いで、斗羅畏は地面に叩きつけた。
おなじみ、怒れる斗羅畏の定番ムーブである。
長い年月かけて砂埃と陽に晒され、変色した濃灰色の髪の毛と、覇聖鳳に受けた傷のために半分ほど塞がっている片目のまぶた。
満月の下に表れたその顔を見て、盗賊たちが楽しそうに言った。
「おい、コイツ、白髪(はくはつ)の斗羅畏じゃねえか」
「大物じゃンかよ……攫って金を要求した方が、稼げそうだね」
「こんなところを護衛も付けずほっつき歩いて、運が悪かったな」
「いや、悪いのは頭か?」
「がっはは、ちげえねえや」
げらげら、と笑う五人。
斗羅畏は少しだけ身を屈め、横にいる倭吽陀の腕を取る。
「許せよ。少し痛いぞ」
「え?」
戸惑う倭吽陀の前腕を、斗羅畏は自身の口元まで引き寄せて。
がぶ。
異常に鋭く尖った犬歯を腕の肉に押し当て、噛みついた。
「い、いってぇ!」
叫ぶ倭吽陀に構わず、ちゅうっ、と滲み出た血液を一口、吸って喉の奥へ嚥下する斗羅畏。
その一口だけで、十分だと言うように口を離し、ぺろりと舌なめずりをする。
「我慢しろ。あとで菓子をやるからな」
優しく倭吽陀の頭をわしゃっと撫でる斗羅畏。
「な、なにやってんだあ?」
「怖くて、気が変になったのか……」
口々に気味悪がる、黒腹部の盗賊たち。
斗羅畏は上目遣いで不気味に相手を睨み。
「く、くっくく、運が悪かったのは、どっちだろうなァ」
腹の底から、実に面白そうな笑い声を出した。
普段はなにごとにも不機嫌に鬱屈していそうで、しかめっつらばかりの斗羅畏が。
まるで己の内なる「なにか」を大きく烈しく解放するように。
その快感に身を委ねているように、哄笑し。
叫んだ。
「冥府への土産話に持って行け!! 俺の爪牙にかかって死ねること、塵芥(じんかい)のごとき貴様らには、過ぎたる栄誉だとなあ!!」
ゴオオと大気が鳴り。
木々が騒ぎ。
鳥たちが逃げ惑うように飛び去った。
「あ、あわわわわ」
地面に尻餅をついて、なにが起きているのかを信じられない気持ちで見守る倭吽陀。
膨れ上がる体躯、伸びる灰色の体毛。
「グルルルルルルル……」
いつしか斗羅畏は人ならざるものに化生して、獣のように喉を鳴らす。
「お、狼……」
「ば、ばばば、ばけもんだーーーーーーー!?」
叫び、逃げる盗賊たち。
「オオォオオオオォオオオオオォオオーーーーーン」
さっきまで、斗羅畏であったものが。
いつしか巨大な濃灰色の毛並みを持った、美しき狼に変じて、遠くに吼える。
「ひ、ひいっ!!」
「わ、悪かった! 俺たちが悪かったよぉぉ!!」
命乞いは聞かないと、自分たちで言っていたことが仇となり。
「ゴアアアアアアアアァァァッ!!」
ずばり、ぐしゃり、ぞぶぞぶ、と無惨な音を立てて、巨狼と化した斗羅畏の爪に、バラバラに切り裂かれる。
周囲に散らかった、かつて仲間だった肉の塊を見て。
「あ、あははは、あははあ……」
最後に残った女盗賊は、小便を漏らして正気を失い、笑うことしかできなかった。
「ガウウゥウゥウゥアアアァァァ!!」
ごぎゅり、と狼のあぎとに首と喉の骨肉を潰され、その笑い声もじきに止んだ。
賊は全員、文字通りに、あっと言う間に死んだ。
周辺に声を発する人間は、倭吽陀を除いていなくなった。
フゥゥゥゥと血に湿った息を吐いて、斗羅畏であり、大いなる豺狼の神とも言える存在は、ゆっくりと四肢を畳んで地に伏した。
そう、斗羅畏は。
吸血鬼であり、狼男であったのだ。
同じ戌族の人間の血を飲むことで、大いなる先祖神、戌(じゅつ)すなわち山犬と狼の神格を、その身に宿すことができるのだ。
ただし、それは満月の夜に限定される話であり、普段の斗羅畏は平均的な体格と筋力しか持ち合わせない、気合いだけが人一倍のごく普通の男性である。
晴れた満月の夜にしか使えない神威の力など、将たる武人としてなにひとつ頼りにはならない。
だからこそ、この力、この姿を見て知っているものは限定されていた。
「は、はあああ」
倭吽陀は、そんな怪異とも言える狼の姿に変じた斗羅畏を見て。
怯えたのか?
気持ち悪いと思ったのか?
いいや、そうではない。
倭吽陀の身体の震えと、目尻に浮かぶ涙は。
「す、すっげーーー! かっけーーーー! つえーーーーー! とらい、すげーーーんだなーーーーー!!」
興奮と歓喜、神の力の一端をその目に収めることができた幸福感。
すべてがぐちゃぐちゃに混じり合った絶頂の状態で、ふさふさ、もふもふの斗羅畏の首元に抱きついた。
「グルルルルル……」
倭吽陀にむぎゅっとされてナデナデされて、狼の斗羅畏は気持ち良さそうに目を細め、喉を鳴らした。
そして、はむっと倭吽陀の服の襟を優しく噛み。
「の、のっかっていいんかーーー!?」
ふわりと、倭吽陀を自身の背に跨らせた。
巨狼の背に乗った倭吽陀は。
「わァ……あァ……」
生まれて初めて、自分で馬を駆り、疾走した日の感動を思い出した。
なんでもできる、どこへでも行ける。
広い空の下、自分はどこまでも自由で、なにものにも邪魔されないのだと始めて実感した、草原での思い出を。
遠くで見守る父、覇聖鳳の嬉しそうな、幸せそうな笑顔を。
様々な感情と記憶が怒涛のように脳内を駆け巡り。
「わは、わはは、あはははははーーー!!」
笑うこと以外のなにもかもを忘れて、倭吽陀は斗羅畏と一緒に、母たち家族の待つ重雪峡(じゅうせつきょう)への帰り道を楽しんだのだった。
「へっくし」
賊を斃し、仲間の元へ帰還し、朝日が昇る。
変身が解けた斗羅畏は、衣服を失った寒さに、情けないくしゃみを放った。
「もどると、ふつうなんだなー」
「うるさい」
への字口で不機嫌に腕を組みながら、斗羅畏は部下が服を持ってくるのを待った。
「とらいがおおかみおとこだなんて、とうちゃんもかあちゃんも、だれもしらなかったぞ」
昂奮が随分と治まった倭吽陀は、改めて斗羅畏に聞いた。
「あの姿を見たやつは、俺の仲間や家族以外は全員、死んでいる」
運良く、いや、運悪くか。
満月の夜に斗羅畏と敵対したものは、地上に一人も生き残らない、生き残ったためしがない。
親しい仲間の他にこの力が知られるような噂は、立ちようもないのだった。
「じゃあ、おれもとらいに、ころされちゃうのかー」
「阿呆」
「なんでだー? おれもみちゃったぞー?」
いちいち、俺の口から言わせるな。
そんな恥かしいことを。
子どもだから、まだわからないのかと溜息を吐き、斗羅畏はむっつり黙り込むだけだった。
斗羅畏の顔がほんのり赤いのは、裸で待っているからではなかった。
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