壱ノ陸 怒りを同じくする

 夜も更けた頃合いに、二人は店を出た。

 酔っ払った得(とく)さんを背におんぶして、街の中心部まで送るために巌力(がんりき)は斜羅(しゃら)の路地を歩いていた。


「うーい、すまんなあ巌さんよ。もう歩けねえ……」


 随分と酒が進んだ得さんは、巌力の背中で気持ち良さそうにうつらうつらしている。

 背中の得さんが案内するのに従い、巌力は州都の役人の住宅が連なる、官舎地区に入る。

 なるほど戸籍役人の息子であるならば、父親と一緒に官舎で暮らしているのかもしれないな、と巌力は思ったのだが。


「……この辺りは、上級官吏の家屋が多いですな」


 元は豪商の下で使用人をしていた巌力である。

 高官の屋敷に小間使いで足を運ぶ機会も多く、そう言った建物、街区の空気に慣れ親しむ感覚は強く、解像度も高い。

 石灰岩や大理石を贅沢に使った立派な邸宅が並ぶこの区域が、得さんのホームタウンなのだろうか。


「へへ、俺の親父も勤めだけは長いもんでな。ぼちぼちの家に住まわせてもらってるわけよ。これも州民たちの税金だ、ありがてえって話だよな」

「なるほど。長く公(おおやけ)に奉仕なされるということは、それだけで素晴らしきことでありまする。お父上は立派な方なのでありましょうな」


 玉楊(ぎょくよう)がいなくなった後宮の仕事を、途中で投げ出してきた形の巌力にとっては、ちりりと心を焦がす痛みがある。

 自由はなによりも得難く貴重なものだが、その後ろめたさや罪悪感と常に闘わなければならないのだ。

 よっこらせ、と巌力の背中からずり落ちるように降りて、得さんは言った。


「ここらで十分だぜ。明後日の昼にまた会おうや。手間をかけさせて悪ぃが、この辺りまで迎えに来てくれるかい」

「かしこまってござる」


 巌力が逗留している司午(しご)屋敷からであれば、港や雑夫(ざっぷ)溜まりよりもこの官舎地区の方が距離は近い。

 面倒なことなどなく、むしろ好都合であると軽く告げ、巌力は得さんと別れた。


 翌日は情報の整理と玉楊たちへの報告に充てる。

 さらにその翌日、巌力は約束の時間に得さんを迎えるため、官舎エリアに来た。

 巌力の体格は物理的に目立つため、得さんはすぐに見止めてひょこひょこと歩み寄って来た。

 この日、得さんは杖を突いていた。

 足の加減が、いつもより良くないのだろうかと巌力は心配した。


「今日はな、ちいと確認ごとがあって一緒に来て欲しいのよ。場所は亥族(がいぞく)のお堂で、大した遠くないところにあるんだ」


 いのししの氏族神を祀る集団ということだ。


「結社のお堂と言いますれば、得どのの義姉(あね)上が騙された連中にござるか」

「違う違う、そこはもぬけの殻で既に調べは尽くしたからな。別のもう少しお堅く、歴史のある古いとこだ。間違っても詐欺まがいの布施集めなんてしねえ、生真面目なお人好しどもの集まりよ」


 言われて巌力は得さんの後ろに付き従い、目的の場所へ向かう。

 道すがら、疑問が頭に浮かんだ。

 そのように信頼のおける堂なり社(やしろ)があるのならば、なぜ翠蝶(すいちょう)の安産を彼らが祈らなかったのか。

 なぜ得さんの兄嫁は、信頼のおける方の術師たちに、義母の快癒を願わなかったのか。

 違和感が共通しているからこそ、両者の事情は深くつながっているようにも思えた。


「ほう、これは確かに古めかしく、由緒正しきお堂のようでありまするな」


 巌力は時代を匂わす巨大な木製の門を前にして感想を述べる。

 境内に一歩を踏み入れただけで、清澄な空気が心身を心地良く洗ってくれるようだ。

 角州(かくしゅう)で随一とも評されるそのお堂の大師と、得さんは約束を取り付けているようだった。

 美少年の小僧に案内されて、本殿横の控えの間に二人は通された。

 つるっぱげの、痩せていかにも仙人然とした老人が板の間の座布団の上に静かに、二人を待っていた。


「これはこれは、よくいらしてくださいました。して、翠貴妃さまのお加減は、いかがですかな」


 ある程度の事情を知っているようで、老人は巌力に質問を向けた。

 得さんが視線で「話しても大丈夫だ」と水を向けた。

 翠蝶が調子を崩して臥せっているというのは、斜羅(しゃら)の街では半ば公然の秘密となっている。

 普段の元気な翠蝶であれば、もっと街の中を出歩いて、方々でやかましく吠えたてているに違いないからだ。

 そうしていないということは翠蝶は今、非常の事態に在り、街に住む翠蝶のファン、シンパは話題に出すことを忌んで避けながらも、彼女の安否を強く気にしていた。


「……相変わらず、芳しくはありませぬ」


 巌力はその一言で、老人が様々な事情を察してくれるだろうと願い、答えた。

 詳しいことは話せないが、街の人々が心配するように、翠蝶は現在も調子を取り戻してはいない。

 それを聞いた老大師は切なそうな溜息を深く吐き、悔やむ口調で言った。


「もともとは、我らが翠さまの安産を願うためにお屋敷を伺うはずでありました。それが急に州の政庁から、他の堂の師たちに頼むことになったと言われましてな。何事もなければいいがと、案じておりましたが……」

「直前になって、急な変更があったということにござるか」


 巌力は身を乗り出して、老師に詰め寄った。

 老師は頷く。


「さようです。こちらも心を尽くしたお祈りをと張り切っておりましたが、お上がそう決めたのであればと従わざるを得ませんでな。お屋敷に伺う機会はなくなりましたが、この堂で静かに翠貴妃の安らかなることをお祈り申しておりました。力及ばず、まことに悔しい思いでございます」


 我がことのように、翠蝶の身を案じ、嘆く老師。

 ひょっとすると、個人的に面識があるのかもしれない。

 地元の有名なお堂であれば、名門の司午家が関わることもあるだろう。

 巌力は老師の肩に大きな手を優しく置き、安心させるように言った。


「ご安心めされよ。貴妃は強いお方にござれば、必ず復調してまたあの笑顔や溌剌としたお声を、みなさまにお届けするでありましょう」

「おお、そうであることを、切に願っておりまするぞ」


 ありがたそうに巌力の手を握り返し、老師は半泣きで笑った。

 事情を聞いた得さんが、老師に質問した。


「お師さん、変更を知らせた役人ってのは、どの部署から来たかわかるかい」

「それはもちろん、司祝門(ししゅくもん)でございます。我らのようなものを取り仕切るお役人さまは、そこと決まっておりますからな」


 得さんはなおも疑問を重ねる。


「この話、他の役人なり衛士はここに調べに来たんか?」

「いえ、我らの方には特になにもございませぬな。関与がないと言われればその通りですが、その後は司祝のお役人とも詳しい話をする機会もありませなんだ。もっとも、消えたという術師のことを聞かれましても、わからぬ以上は答えようもございませぬが」

「そうかい、いろいろとありがとよ」


 ほんのわずか。

 事情を聞かされた得さんが、怒りのような気配を見せたと巌力は思った。

 司祝門というのは祝を司る、要するに宗教結社を管轄する役所である。

 日本の江戸時代で言えば寺社奉行というシステムが近いだろう。

 宗教的な寺社や祭祀に使う小さな堂などを把握し、その活動を取り締まって指導し、税収を管理する部署だ。

 細かいところでは、道端にいつからか置かれていた由緒不明な祠なども、司祝門が管理して、掃除をしたり、無用と判断して取り壊したりもする。


「お役所が、かような立派なお堂から、わざわざ素性の怪しい方の術師集団に祈祷の実施を変更するなど。有り得る話なのでありましょうか」


 お堂を出た巌力は、得さんに尋ねた。

 苦虫を噛んだような表情で、得さんは答える。


「普通なら有り得ねえ話が、実際に起こっちまったってことだろうさ」


 クソッ、と小さく呟いて、得さん手に持った杖を振り、路上の石を打ち飛ばした。

 いつも飄々としている彼が、このようにイラつきを表に見せるのは珍しい。

 期日の迫った状態で突然に変更された、祈祷の役回り。

 そこに当然のように絡んできた、祝と祭を司る役所の部門。

 巌力は、妥当と思われる推論を口にする。


「これはもう、得どのと拙者がそれぞれ追っている相手は、ほぼ間違いなく同一の結社でござろう。きゃつらはこの街を出る算段がついていたから、得どの義姉(あね)上が持ってきた案件も、果たすつもりもなく布施だけ回収したのではあるまいか」

「ああ、そうだ、そうだな……いや、俺が腹を立ててるのは、そういったことじゃあねんだ……」

「では、なにが」


 得さんはいつになく真面目な顔で、巌力に説いた。


「逃げたイカサマ師どもと、司祝門の役人がなにもかも通じて仕組んでたってこったろう。役人のお膳立てが整ってたからこそ、簡単に船かなんかで連中は飛ぶように逃げられたんだろうさ」

「状況から判断するに、それ以外は有り得ぬでしょうな。その後の調べもろくに進んでおらぬようですし」


 それは巌力も予測していたことだ。

 自分たちが港でもっと詳しく調べれば、手がかりの一つも見つかるかもしれないが、未知数でもある。


「役人の息子としちゃあ、それが悔しいのよ。俺も親父も大したもんじゃねえが、おてんとさまと先代、今上の皇帝陛下には恥ずかしくない程度に、なんとかぼちぼち、ケチはケチなりに生きてきたつもりだ」

「心痛、お察し申す」

「それがだぜ、大の男たちが、寄ってたかってたった一人のお転婆娘をどうこうしようなんざあ、いったいどういう了見だい。金か? 誰かに脅されて、仕方なくそんな真似をしでかしたんか? どっちも、理由になんざ、なりゃしねだろうが」


 得さんは、純粋に憤っていた。

 まだあどけなさもわずかに残る、元気な、角州(かくしゅう)斜羅(しゃら)の自慢の貴妃、司午翠蝶という女性が卑劣に貶められたことに。

 この街に住む一人の男として、腹に据えかねているのだ。


「得どの……」

「この天の下に、あんな可愛い蝶を寄ってたかって弄(なぶ)ろうとする理屈が、いってえどこにあるってんだ!?」

「無論、ありはしないと拙者も愚考いたす」


 巌力の言葉に力強く頷き、得さんは言った。


「そうとなりゃ行くぜ、巌さんよ。もうチョイと付き合ってくんな」

「次はどちらへ」


 杖をカツカツと突き、引きずる足を無理に進ませるように。

 それでも力強く前を歩く得さんは、言った。


「決まってらあ、司祝門の長官の屋敷だよ」


 まだろくな事情も分からぬうちに、計画もナシに、勢いで。

 得さんは陰謀のど真ん中に、飛び込もうとしている。


「バカなことは、しないはずですよね」


 玉楊のそんな声が、巌力の脳内をこだました。

 しかし。


「これも、信でござるか」


 果たして巌力が得さんを信じているのか。

 得さんが、巌力を信じて伴に連れ、猪突しているのか。

 両者は境界なく混じり合っていて、わからないのであった。

 しかし、一つだけ確かなことがある。

 得さんの怒りは、巌力自身の怒りでもあるということだった。

 ただの連れ添いではなく、同じ怒りを共に背負って、二人は官舎街区に入って行った。

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