第97話: 若いからさぁ……





 ──信頼関係や状況や状態、個体の性質など、色々と例外はあるけれど、動物を相手にするうえで重要なのは、上下関係である。



 残酷に思えるかもしれないが、人間には人間の、野生には野生の、動物には動物のルールがある。


 それは、人に飼われている経済動物の競走馬とて、変わらない……そして、馬というのは基本的に群れで行動する。


 ただ、馬の社会は力こそ正義なモノとは違い、年老いた牡馬ぼば(オスの馬)が務める場合もある。


 もちろん、走りが早く、身体が大きく、体力のある馬がリーダーになる場合もあるけど、野生の世界は、それだけで生きていけるほど優しい世界ではない。


 経験を積んだ年老いた馬は、長く生きた分だけ、危険から逃げる術を心得ている。


 野生の世界とは、外敵に勝利することが全てではない。


 極論を言えば、生き残る事が全てであり、外敵に一度として勝利しなくとも、生き残って次代に繋ぎ続ければ勝ちなのだ。


 つまり、馬の世界は単純な強さが全てではない。


 人間の基準で考えれば首を傾げそうな馬がリーダーを務めていても、それはそれとして、そういうモノだと受け入れる必要があるわけで。



「……お見事です。いやあ、すごいですね……お噂は耳に入っておりましたが、秋山さんは名伯楽としてもやっていけますよ」

「そう? ていうか、噂って?」

「名馬を見抜く女だとか、馬頭観音様の化身だとか、色々と……もしやとは思っていましたが、秋山さんのことだったのですね」

「う~ん、どうだろう。噂って一人歩きするし、たまたまじゃないかな」



 人の基準から見れば、だ。


 背が高いわけでもなく華奢で弱そうな女の一睨みで、借りてきた猫のように悍馬をおとなしくさせる様は、そういうモノだと納得する以外にない。


 なにせ、強い言葉で脅したわけでもないし、道具を使って強い者だと錯覚させたわけでもない。



『──私が気に入らないの?』



 ただ、馬房に入って、一言そうやって声を掛けただけ。


 怒鳴ったわけでもなく、大きな音を立てたわけでもない。まるで、子供に言い聞かせるかのような、穏やかな声色だった。


 けれども、たったそれだけで、ベテラン厩務員ですら手を焼いていたハマノパレードが、目に見えておとなしくなった。



『貴方は、走るために生まれてきた。生きるためには、走って勝たなければならない。みんな、そうしている』


 ──プフフン。


『貴方の背には、大勢の人達の夢と希望が乗っている。その定めを背負って、貴方は生まれてきたの』


 ──プフフン。


『私たち人間も、生きるために戦っている。貴方も、生きるために走りなさい。精一杯、走りなさい』


 ──プフフン。


『でも、私は貴方を見捨てないわ。負けても、怪我をしても、私の下に帰ってきたら、ちゃんと面倒を見ましょう』


 ──プフフン。


『だから、全力で戦って、全力で勝って、全力で負けなさい。貴方がちゃんと力を尽くして負けたのであれば、私は貴方を褒め称えます』


 ──プフフン。


『ええ、そうよ。それとも、手加減して負けたいの? 勝負は一瞬、後で言い訳をたくさん並べても、負けは負けよ』


 ──プフフン! 


『そう、その調子よ……でも、忘れないで。貴方が死ぬことに比べたら、負けた方が嬉しいの……いいわね、命を捨てて勝つのではなく、生きるために勝つの……忘れては駄目よ』


 ──プフフン!! プフフン! 



 そのうえ、まるで本当に馬と会話をしているかのように話し掛け、当の馬も理解しているかのように反応を示すのだ。


 そんなの、どう足掻いても『そういうモノだ』と理解するしかないわけで……当の千賀子は首を傾げるばかりだったが、茶菓口調教師の目は、超人を見る子供のようなキラキラとした眼差しであった。



 ……まあ、それはそれとして、だ。



 なんとか落ち着きを見せたハマノパレードだが、それも長続きはしないだろう。


 というのも、生まれ持った気質というのは中々変わらないからだ。


 強烈なショックを受けて臆病になることがあるし、あるいは長期的な環境によって変化することはあっても、遺伝的な気性の荒さを改善するのは並大抵のことではない。


 だから、そういう癖のある馬を本気で競走馬として仕立てる場合は、専門家(というより、経験豊富?)を新たに雇って調教した方が良いわけ……なのだが。



「……つまり、お金ね」

「はい。あ、でも、上手く調教が出来るようならば、別に追加の費用は……」

「いえ、支払うわ。腕前を買うわけだから、それを買い叩くのは相手に対しても、ハマノパレードに対しても、失礼よ」

「……ありがとうございます、ハマノパレードは良い馬主さんに買われて良かった……そう、私も確信を得ました」



 何をするにも、お金は掛かるということだ。


 まあ、幸いにも千賀子は金が欲しくてハマノパレードを購入したわけではないので、追加費用を支払うことにはなんの文句もなかった。



 ……。


 ……。


 …………そうして、ハマノパレードにお別れの挨拶をしてから、次にロングエースへ挨拶に向かう。



「ああ、秋山オーナー。御無沙汰です、遠路はるばるありがとうございます。ロングエースを連れてきますけど、それまで休憩なさいますか?」

「いや、早速だけど顔を見させてください──あ、これ、お土産です。大阪万博の品評会に出された和菓子です」

「あはは、これはご丁寧に、家内も喜びます──それでは、どうぞこちらへ」



 そこで、千賀子は……話には聞いていたが、実際に連れて来られた生のロングエースを見て、かなり驚いた。



「……でっかい、ですね」

「わはは、そうでしょう、そうでしょう。こんなに立派な馬は見たことがありません」



 何故かと言えばロングエースは、ハマノパレードとは対照的に、馬体が大きい馬だったのだ。


 ハマノパレードが平均より小柄な馬なので、印象的に余計大きく見えるのもあるが、それでもなお、ロングエースは大きかった。


 それも、ただ大きいだけではない。


 まだ2歳(この頃は、生まれた時点で1歳としてカウントされた)とはいえ、既に足腰の筋肉がしっかりしている。


 実際、同時期に生まれた他の馬よりも一回り大きく、馬房の中を歩く様は、ノッシノッシと……まるで、重戦車を思わせた。



「じゃあ、中に入らせてもらうわね──あ、抑えなくていいから、私は大丈夫、そこで見ていて」

「はあ、秋山オーナーが仰るのであればかまいませんが、責任は取れませんよ?」

「大丈夫よ、この子は賢い子もの。ちょっかいを掛けて良い相手か悪い相手かの区別はもう、付けているみたいだし」



 そうして、調教師に声を掛けてから改めて馬房に入った千賀子は……静かにこちらを見つめるロングエースの馬体に、そっと手を置いた。



 ……直球的な感想だが、年齢に比べて本当に馬体が大きく力強い。



 まだまだ大きくなるし、身体も頑丈になるだろう。


 これならば、ハマノパレードのように発破を掛けなくても、やっていけそうだ……そう、千賀子は思った。



(ハマノパレードはどうも怪我をしやすいみたいだから……なんとかして実績を作らないと牧場の方も大変だし、子供一人も作れないままって流れになるしな……)



 ホッと、千賀子は我知らず安堵の溜め息をこぼした。


 そう、外国ではまだ野生の馬は確認されているが、日本に生息する馬は、ほぼ100%管理され飼育されている。


 つまり、馬は経済動物であり、競走馬はレースにて結果を出さなければ奥さんが見つからないし、次に続かないのだ。


 身体が大きく見た目にも頑丈そうな馬は、人気の良し悪しはあるけれども、まだ可能性はあるし、そんな馬を育て上げた牧場もまた評価を得られる。


 しかし、ハマノパレードのように小柄で悍馬の気が強い馬の場合は、中々に厳しい。


 誘導馬にしろ、乗馬用にしろ、求められるのは多少なり実績があって、全体的な見栄えが良くて、人の言うことを良く聞く素直でおとなしい性格の子だ。


 最終的な面倒を千賀子は見るつもりだが、それはそれとして、牧場もまた売ったらハイお終いというわけでもない。


 ……レースに勝てない馬ばかりを出す牧場の競走馬を、いったい誰が買い求めるだろうか? 


 ましてや、そこに馬を預けようとする人も減るだろう。


 もちろん、すぐに減るわけではないが……状況的には右肩下がりになることはあっても、上がる可能性は低いだろう。


 やはり、目に見える形で実績が欲しいと思うのは、当たり前。


 牧場側としても、自分のところで産み育てた馬が評判になれば、おのずと仕事の依頼が入ってくることもあって、そりゃあもう命がけなのだ。



「……ダービー馬が出れば、他のみんなも暮らしが良くなる。無理をして身体を壊すのは駄目だけど、頑張りなさいね」


 ──ブフフン! 



 なので、千賀子としては、もうほんとそれだけしか言えなくて……とにかく、頑張って走ってねと応援するだけであった。


 ……。


 ……。


 …………なお、その背後で。



「ダービー……秋山オーナーは、そこまでロングエースに期待をしてくれて……!!!」



 誰がとは言わないが、感動している人がいたけど、千賀子は気付いていなかった。






 ……さて、最後の番になったハイセイコーだが……この子の場合は、他とは一つ違う点がある。



「……どうです、立派でしょう! 生まれてまだそんなに経っていないのに、もうこれだけ身体が大きくて、元気いっぱいなんですよ!」

「そ、そうなの? さすがに、これだけ若い馬を見るのは初めてだから、基準が分からないわ」

「立派なんですよ! これは強い馬になりますよ! 俺が保障しますから!!」

「そ、そこまで言ってもらえると、安心するわね……」



 それは──ハイセイコーはまだ、生まれてから半年と経っていない、若馬以前の仔馬という点だ。


 ロングエースとハマノパレードはおおよそ中学校に入ったかどうかで、これから調教していって……という段階だった。


 対して、人間に例えるなら、今のハイセイコーはおおよそ3歳~5歳ぐらいだろうか。


 大人になれば体重400kgになるとはいえ、さすがにまだ小さい。基本的に大人になった馬としか接していない千賀子の目には、『子供の馬』にしか見えなかった。


 多くの馬を見てきた牧場主の目から見れば、期待に胸を膨らませてしまうぐらいに立派に映ったのだろうけど……で、だ。



「え? 中に入るんですか? いや、それは止めた方が……まだ母馬の目が厳しいので、下手すれば蹴られますよ」

「大丈夫、既に母馬の方には話を通したから。ほら、私が柵に手を掛けても反応していないでしょ?」

「話を……? ま、まあ、そこまで言うなら……でも、少しでも危ないと思ったら、中止させますからね?」

「ええ、ありがとう」



 仔馬とはいえ、所有している競走馬である。


 これまでの2頭と同じく、千賀子なりに目の前の彼を知ろうと手を伸ばし──そうして、目に見えて顔をしかめた。



(……う~ん、頑丈で強い馬になるのは確実……なんだけど、どうしたものか……)



 理由は、ハイセイコーから感じ取れた潜在的なボテンシャル……その身に秘められた能力の高さゆえの──はて? 



 ──なんで、それで顔をしかめたのかって? 



 それは──ハイセイコーに向けられた期待というか、愛情というか……まだるっこしい言葉は止めよう。


 つまり、ココは遠すぎるのだ。


 少なくとも、中央競馬でやっていくとなれば、移動距離を考えて、いずれは東京あるいは、中央馬主の御用達みたいな厩舎へ……しかし、だ。



(見える見える……この子にデレデレになっている厩務員の気配が……やべぇ、厩舎を移すなんて話をしたら、いったいどうなるのか……)



 地方で走らせたら、おそらく引退直前まで敵無しで勝ち続ける、地方の帝王としてその名が語り継がれるだろう。


 けれども、この子は間違いなく中央で通用する。それだけの能力を秘めている。


 かつて、ブームを築いた『シンザン』に次ぐ、第二の競馬ブームを生み出すやも……う~ん、これは困った、本当に困った。


 ……。


 ……。


 …………しばし考えた千賀子は、自分一人でアレコレ考えるのも変な話なので、率直に牧場主に考えを話した。



「──そう、ですか」



 すると、最初は中央に通じる馬だと思っている千賀子の考えに喜んでいた牧場主も、厩務員の話になると顔を曇らせ……やるせない様子で、溜め息をこぼした。



 ──曰く、『誰よりも愛情と期待を注いでいるのは、自分よりも、その人かもしれない』らしい。



 千賀子の懸念通り、もしも中央で戦うとなれば、ここは遠すぎる。人が移動するのとは、ワケが違うのだ。


 馬というのは基本的にデリケートである。特に、競走馬は。


 あらかじめ現地に慣れてしまえば復活できる馬もいれば、厩舎から離すとコンディションが悪くなるから、直前ギリギリまで移動させない馬もいる。


 放牧で来るぐらいならともかく、毎回のレースの度に東京まで移動ともなれば、いかな図太く強い馬でもベストコンディションを維持するのは難しいだろう。



 ……苦渋の決断だが、移動による消耗を避けるために厩舎を移す必要性があるし、勝つためには避けられない問題だ。



 しかし、そうなれば、その厩務員は放牧の時ぐらいしか、ハイセイコーの世話は出来ない。


 何故なら、この頃の競馬は、『中央は中央、地方は地方』という風潮が強く、いかなベテランとは言っても、地方競馬の厩務員でしょと見られてしまうことがあったからだ。



「……ヨシ、分かった!」



 そして、それを知らなくとも、牧場主の胸中に沸いた苦みのある悔しさを察した千賀子は……牧場主へと向き直った。



「牧場の近くに、使い道がなくて放置されっぱなしの山とか、野ざらしのままの土地とか、心当たりはある?」

「え?」



 突然の事に目を瞬かせる牧場主に、千賀子は不敵な笑みを浮かべると。



「向こうでの調教が出来ないのであれば」



 グッと、その拳を高く掲げると。



「こっちで作るまでよ!!」



 千賀子は──力強く、宣言をしたので──が、その時であった。




『──本体の私、緊急事態よ』




 水を差すかのような、2号からのテレパシー。


 プシュー、と高まった気合の栓を抜かれたかのようにジト目になった千賀子は、「つ、作る……?」困惑している牧場主を他所に、ピッと頭の中で返事をする。



『なに、いますっごいヤル気出していたのに……』

『ヤル気を出すのは構わないけど、ガチの緊急事態なのよ、本体の私』

『……なに?』



 わざわざ緊急的なテレパシーをしてきたとはいえ、今の私なら大抵の事はなんとかなるやろと軽く考えていた──が、しかし。



『──お兄さんの和広なんだけど、どうも彼女さんを妊娠させたとかで実家に戻ってきたらしいの、さっき電話がきたわ』

『なんとかならないじゃん……!!! なにやってんの、クソ兄貴さぁ……!!!』



 現実は非常、なんとかならない緊急事態に、千賀子は思わず白目を剥いたのであった。




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