第76話: なお、不審な男に鮮血を掛けられたという言い訳をごり押し


 ―――――― ← これで区切っているところから下はホラーな感じです、注意要

読まなくても、とくに問題はありません



――――――――――――


 ──最初に千賀子が感じ取ったのは、衝撃であった。



 なんというか、硬いナニカが身体の中に入り込んだ感覚。それによって、グンと身体を押された……が、近しいのかもしれない。


 次に感じたのは、内蔵がねじられる感覚だろうか。


 こう、筋肉が引きつるとか、そういうレベルではない。文字通り、身体の中が無理やりねじられる感覚に、千賀子は呼吸を止めた。


 その次に感じたのが、熱気だ。


 火が点いた、とは言い過ぎかもしれないが、まさしくそんな感じで。ねじれのせいで息が止まっていなければ、思わず『熱っ!?』と叫んでいたぐらいであった。


 そして、その後にやってきたのが──激痛であった。



「    」



 それは、言葉では到底言い表せられない不思議な痛みであった。おおよそ、千賀子の人生において経験したことがない、痛み。


 だが、歯を食いしばってもなお、のたうちまわるような……そういう痛みではない。


 痛いのは、痛いのだ。


 激痛と称してもよいぐらいに、痛い。だが、どういうわけか、耐えられないような痛みではない。


 痛みの元とも言うべきナニカが、身体の中に三つ。それが、認識出来る……と、どこか他人事のように認識した、直後。



(──あれ、わたし……?)



 衝撃と共に、視界が天上へと向いた。


 倒れた──そう認識すると同時に、痛みは痺れに変わる。


 身体の中の三つから伝わる痛みは、ある。だが、それ以上の痺れが、そこを中心に全身へと広がってゆく。



(──佐東、府知事っ)



 けれども、そんな事よりも……千賀子の脳裏を過ったのは、己が庇った佐東府知事の事であった。



(急げ、撃たれたら──)



 まるで力の入らない腕をそれでも気力で、渾身の力を込めて上げる。視界の端で、銃口を千賀子から──佐東府知事へと定める男の姿が見えた。


 全てが、ゆっくり流れていた。


 まるで、時間の流れが緩やかになったかのように、全てがゆっくり動いている。その中で、掲げた千賀子の腕より──枝葉が伸びて、佐東府知事の前に広がる。



 それは、客観的に見たら、全てが一瞬の事であった。



 襲撃者の銃口より佐東府知事をかばった千賀子が、撃たれて。そのままの勢いで、改めて銃口の先を定め──それを防ぐための、植物の枝葉。


 幸運にも、弾丸は枝葉の隙間を通ることなく、全て塞がれた。


 男も、弾を入れ替えるようなことはせず──時間を掛けるというリスクを取るよりも、逃走を選んだようで──舌打ちと共に、踵を翻して部屋を出て行った。


 後に残されたのは、呆然と尻餅をついたままの佐東府知事と。


 なんとか危機を脱した事を悟り、ぱたりと腕を下ろして……静かに、鮮血を床に垂れ流している千賀子だけが残された。



「……っ! だ、大丈夫か!?」



 ハッと、我に返った府知事が、慌てて千賀子の下へと、ドタドタと四つん這いで近寄り、千賀子の身体を起こす。


 瞬間、佐東府知事は絶句した。


 何故なら、千賀子の背中側には、べったりと鮮血が広がっていたから。前からも、後ろからも、出血が起こっていた。



「──誰かぁ!? 誰か来てくれぇ! 救急車を! 救急車を呼んでくれぇ!!」



 そう、外へと叫ぶ──合わせて、佐東府知事は千賀子の顔を覗き込む。



「どうして、私をかばったんだ。私の事を嫌っていたのではなかったのか?」

「……だって、協力してくれた、じゃん」



 かすみ始める視界の中で、そう問いかけられた千賀子は……力の入らない身体で、答える。



「頑張って、くれていたし……じゃあ、守らない、と……」

「──っ、下心があるからに決まっているだろう! 馬鹿なのか、君は!」



 そう怒鳴られた千賀子は……青ざめた顔で、フフッと笑った。



「そんなの、誰にだって、あるよ……」

「こんな時に、はぐらかさないでくれ」

「ふふ、ふ……そうか、な……」



 痺れが、冷たさに変わる。


 気付けば、痛みもほとんど消えている。ただ、身体の芯が凍えていく。その事に、不思議と辛さを感じない。


 そして、それら全てが……徐々に、眠気へと変わってゆく。


 これもまた、今まで感じたことのない類の眠気である。


 眠ってはいけない、辛うじて残った無事な意識が、必死に己を起こそうとしている。起きろ起きていろと、何度も声を荒げている。


 しかし、多勢に無勢。


 次から次へと四方八方から押し寄せる眠気が、その意識を押し流してゆく。後には、何もかもが溶け込んで消えていきそうな、真っ暗な意識だけが広がって……ああ、そうだ。



(言い忘れて……迷惑……客……掃除させ……)



 佐東府知事に伝えておかなければならない、競馬場の迷惑客の事だ。


 注意したにも関わらず無視したそういうやつを片っ端から神通力で抑えつけ、千賀子の手で強制的な奉仕労働に従事させている。


 具体的には、競馬場周りのゴミ拾いや清掃、草むしりに、曽於経諸々の雑用……彼らが、逃げ出すことはない。


 何故なら、夢の中でたっぷりとお仕置きをしているから。そう、現実と区別が付かないぐらいの、壮絶なお仕置きだ。


 普通ならば、競馬場には足を運ばないようになるのだが、相手は重度のギャンブル依存。どれだけ恐怖を覚えても、止めることが出来ない。


 それを逆手に取ったやり方であり、『悪ささえしなければ、何も起こらない』事を察した彼らは、ひとまず、おとなしくしている。


 ……その際、競輪場へ行こうとするとより酷いモノになるという悪夢も見せているが、まあ、仕方がない。


 どれだけ迷惑だろうと、金を落としていくのは事実。


 なので、その間に、府知事の方からも対策を取るなり何なりしてほしいと、今日伝えようと思っていた……のだが。



(ああ、駄目だ……前が、真っ暗に……)



 どうやら、血を流し過ぎたようだ。


 徐々に視界が黒くなり始め、ジワジワと何も見えなくなってゆく……そんな中で、辛うじて。



(……女神様、待って)



 完全に見えなくなる前に、なにやらナニカをしようとしている女神様の姿を捉えた千賀子は。



(待って、止まって……何も、私が起きるまで、何も……)



 声すら出せないけど、少しでも女神様に届けと何度も念じ続け……そして、フッと意識を失ったのであった。






 ……。


 ……。


 …………で、だ。



 フッと、次に目が覚めた千賀子の眼前に広がっていたのは、木目の天井であった。



「ここは……」



 その時点で、己が撃たれた場所ではない事を察した千賀子は、むくりと身体を起こし──ズキッと身体の芯から走る痛みと、己に掛けられていた掛布団。


 そして、周囲の畳に、どこか見覚えのある内装を見て、ここが『神社』の中にある自室である事と、誰かしらが運んでくれたという事に気付いた。



「……私、死ななかったの?」



 布団をめくれば、素っ裸の腹にはどデカいガーゼが三つ。どれもうっすら内部より赤色が見えるあたり、撃たれたのは現実である……っと。



「おはよう、本体の私」



 ガラリ、と。


 襖を開ける音と共に掛けられた言葉に、ああ2号が助けてくれたのかと視線を向け──思わず、目を瞬かせた。


 なんでかって、小さかったからだ。


 美しい千賀子が、そのまま小学生に若返ったかのような、というか、そうとしか見えない姿になっている2号は、飲み物を乗せたお盆を布団の傍に置くと、そのまま腰を下ろした。



「ど、どうしたの、その姿は……」



 2号の恰好は、白地のシャツだけ。それも体形にはまったく合っておらずブカブカで、しかも、それ以外は何も着ていない。


 座る時に見えた股の間にも、何も遮るモノは無かった。


 いくら昭和のこの頃とはいえ、そんな恰好で出歩けば警察が来る……そんな姿で居ることに、千賀子は首を傾げた。



「本体の私の回復のために、エネルギーを返したからよ。本当は解除した方が良いのだけど、そうしてしまうと世話をする人が居なくなってしまうから」

「あ、そ、そうなんだ……えっと、その……」

「服も下着も、今の貴女のサイズしかないでしょ? パンツなんてブカブカで、歩くとずり下がってうっとうしいのよ」

「あ、そう……」



 すると、思いのほか、ちゃんとした理由だった。


 まあ、ここが外ならばともかく、神社の中に入ってくる者はいないので、仕方がないかと千賀子は納得し……次いで、だ。



「この顔の事でしょ?」

「うん、小さい頃の私って、今とぜんぜん顔が違うはずなんだけど……」

「そりゃあ、厳密には若返ったわけじゃないからね」



 己を指差す2号に頷けば、さもありなんと言わんばかりに2号は苦笑をこぼし──そうして、ふと、真顔になった。



「本体の私、どこまで覚えているかしら?」

「──いっ!?」



 それを見て、千賀子も真面目な顔をする。


 その際、ズキッと身体に痛みが走る。「おバカ、治ったわけじゃないのよ」2号より注意されたので気を付けつつ……改めて、答えた。



「撃たれて、なんとか佐東府知事を守ったところまでは……その後、2号がここに運んでくれたの?」

「……運んだ、という言葉が正しいのか、なんとも判断に迷うところね」

「え?」

「まあ、言葉で説明するより、直接その目で見た方が早いか」



 発言の意味が分からない千賀子を他所に、「外を見ましょう」2号より促され……手を借りて案内されるがまま、千賀子は外へと向かう。


 外への出入り口なんていっぱいあるのに、わざわざ『賽銭箱』が置かれている、本殿真正面、境内へと下りる正面階段えと向かうようで……ふと、千賀子は首を傾げた。



 今は、何日なのだろうか、と。



 自室に置いてある時計をうっかり見そびれてしまったので、正確な時間は分からないが……閉じられた障子の向こうが暗く、今が夜なのかもと教えてくれる。


 なにやら何時もとは様子が違う2号にあんまり矢継ぎ早に質問する気にはならず、とりあえずは外を見てからで良いかなと、軽く考えていた。



「……? 真っ暗だけど、今は深夜なの?」



 そうして、本殿正面に出て、境内より先を見下ろした千賀子は……首を傾げた。


 神社の中は、千賀子の気持ち一つで明るくなったり暗くなったり出来る仕様だが、さすがに境内はそこまでではない。


 鳥居より本殿へと向かう通路は、点在する蝋燭の明かりによて足元ぐらいは確認出来る。まあ、千賀子が本調子ならば、それが無くとも平気だが……で、だ。



「あ、ロウシはこっちに来ていたんだ」


 ──ブフフン。



 何処となく疲れた様子のロウシが、カッポカッポと足音を鳴らして姿を見せた。鼻息も、いつもより元気が無さそうだ。



「ロウシを見せたかったの?」

「違うわよ」

「じゃあ、なに?」



 2号が何を見せようとしているのか分からず尋ねれば、2号はしばし視線をさ迷わせた後で……おもむろに、眼前の暗闇を指差した。



「本体の私、これが今の世界よ」

「はい?」

「だから、これが今の世界」



 ジッと、2号を見つめ、その後、眼前の暗闇を見つめ……しばし、交互に視線を向けてから……ヒゥ、と息を呑んだ。



「……ず、ずっと夜になっているってこと?」



 辛うじて……せめて、いや、それも人類滅亡不可避だが、それでもまだ……藁にもすがる気持ちで、2号に尋ねたのだが。


 2号は、無言のままに……境内に転がっている石ころを神通力にて手にすると、それを鳥居の向こう……参道の階段がある方へと投げた。



 ……。



 ……。



 …………反響音は、一切しなかった。



「何も、無いの。この神社以外には、何もない。地球も、太陽も……ううん、この神社が、この世界の全てになったの」

「えっ……」

「神社の外には、何もない暗黒の空間が広がっているだけ。ううん、それ以前に、重力も何も存在しないし、時間すらそこにはない」

「え、え、え……」

「あ、恐怖の大王も消えたわよ。人類どころか、世界全ての生命体が消えたし、女神様の余波で消し飛ばされちゃったから」

「……み、皆は、どうなったの?」



 恐る恐る尋ねれば、2号は……千賀子に視線を合わせないまま、答えた。



「言ったでしょ、神社の外は何一つ存在していないのよ、もう。本体の私と、分身の私と、私が連れてきたロウシとテイトオーしかここには居ないの」

「…………」

「そのテイトオーも、ここに逃げ込む時にちょっとダメージを受けて……小屋の中で休んでいるけど、容体はあまり良くないわね」

「……そう、分かった」



 2号の話に、千賀子は青ざめた顔で……それでも強く唇を噛み締めて、覚悟を固めると。



「──女神様!」



 背後の……そう、襖の向こうよりチラ見している女神様に向かって、わざとらしく……出来うる限り、可愛く見えるよう意識すると。



「消しちゃった世界も含めて、元に戻して──め・が・み・さ・ま❤」

 ──ぐっはぁ、か、可愛いぃ……!!!! 



 堪らず胸を押さえる女神様に、千賀子は畳みかけた。



「またぁ、元の世界でぇ、女神様と一緒に日常を送りたいなぁって❤」

 ──で、でも、愛し子を傷付けたわけだし、ちょっとぐらいお仕置きを……。

「私は気にしてないよ、それよりも、世界が消えちゃった方が辛くてぇ……ねえ、いいでしょぉ、女神様ぁ❤」

 ──ううっ、か、可愛い、言う事全部聞いちゃうのぉぉお……!! 

「女神様の気が晴れないならぁ、私を撃ったヤクザに仕返ししても良いからぁ……お・ね・が・い❤」

 ──オホーッ! ヨロコンデ―!! 



 それは、決死の覚悟。


 千賀子は、プライドも何もかもを捨てて、女神様に色仕掛けを仕掛けるのであった。


 そうして、千賀子たち以外には絶対に認識する事も知る事も出来ない、4日間の時間が経過してから……ようやく、世界は元に戻されたのであった。


 まあ、その際、『いきなり君が消えっ、え、消えた? え? え?』状況が分からず混乱しっぱなしで、あやうく病院送りにされかけていた佐東府知事を助ける騒動はあったけど。


 それでも、千賀子にとっては、その4日間の恥辱に比べたら、はるかに精神的な苦痛がマシなのであった。





―――――――――――――――――――――――――――





 ……。


 ……。


 …………それは、上から見れば正方形の部屋を綺麗に並べて、全体としても正方形の形を取っている奇妙な構造の屋敷であった。


 部屋の内装は、この頃ではよくある和風のそれだが、酷く殺風景だ。


 きっちり敷き詰められた畳に、四方を襖が囲う。正方形の部屋を並べているだけなので、襖一つ開けば隣の部屋に入れる仕様となっている。


 ただ、それだけ。辛うじて文明の利器があるのは、各部屋の中央に取り付けられた照明器具だけで、それ以外は何も無い。


 二階も無ければ、地下も無い。


 一番外側には渡り廊下があって、グルリと全体を囲う。そこから外には緑あふれる庭が広がっていて、外が確認出来るが……庭に下りることは出来ない。


 どういうわけか、透明な壁がそこにはあるようで、外に出る事が出来ないようになっている。


 なので、移動出来るのは室内だけ。全体を囲っている渡り廊下を含めて内側だけで、全く同じ内装をしている膨大な数の部屋だけで……いや、違う。


 内装は同じだが、部屋の中の様子は違っていた。


 ある部屋は新品同然のピカピカな部屋だが、ある部屋は……いくつもの死体が積み重ねられ、腐臭と糞尿の臭いが立ち籠る、おぞましい部屋もあった。



 ……そこに、1人の老人が居た。



 いや、正確には、老人以外にも大勢居る。しかし、そのおぞましい部屋には、その老人しかおらず……死体の陰に隠れるようにして、老人は息を潜めていた。


 老人の恰好は、お世辞にも清潔とは言い難い恰好である。


 浸み込んだ垢と、黒く変色した血の跡と……糞尿の臭いを漂わせ、一部それが付着したままの……パッと見たばかりでは、怪物かナニカだと思われてしまうような、そんな老人であった。



「タスケテクレ……タスケテクレ……タスケテクレ……」



 その老人は、これ以上ないぐらいに身体を丸めている。ブツブツと、己が何を呟いているのかすら自覚していない様は、その老人はまともな精神状態でないことを示していた。


 ……っと、その時であった。



「──な、なんだぁ!?」



 前触れもなく、いきなり襖が開かれる。


 姿を見せたのは、若い男である。だが、普通の男ではない。


 目つきは鋭く、声は荒く。他者を脅し、暴力を振るうことに慣れきっている……そんな、アンダーな気配を漂わせた男であった。



「な、なんなんだよ、これは……!」



 とはいえ、そんな男でも、だ。


 さすがに、死体の山を前にすれば動揺を隠しきれない。


 特に、人の死にすら、他者を殺すことすら、欠片の感情も動かないほどに慣れきってしまった、未来の己に比べて、この頃の彼はまだ……っと、その時であった。



「ぶへ、ぶへへ、ふへへへへ!!!!」

「──なっ!?」



 それまで、息を潜めて隠れていた老人が、飛び出した。満面の笑みで、向かう先は、若い男。


 これには、完全に不意を突かれた形だったが……しかし、暴力に慣れた彼にとっては、いかな不意を突かれたところで、老人のとろくさい突進を受けるほど鈍臭くはなかった。



「オラァ!!」



 手加減一切無しの、渾身の前蹴り。いわゆる、喧嘩キックというやつだ。


 カウンターの形で入ったのと、直前に足がもつれて倒れ込むような形になったことで、その蹴りは老人の顔面を捉え──ゴキリと、首の骨をへし折る結果となった。


 これには、男も顔をしかめた。


 だがそれは、殺した事への罪悪感ではない。こんな、一円にもならない、ただ損をするだけの殺しをした事に対する苛立ちであった。



「アリガト……アリガト……」

「──チッ、イカれてやがる」



 男は、どうして己がこんな場所に居るのかが分からなかった。


 引っかけた女が先に身体を洗い終え、それじゃあ次は己もと浴室へ向かい──そこで、フッと記憶が途切れている。


 そう、気付けば、見知らぬ部屋の中に居て。


 突然のことに困惑するまま、とりあえず目の前の襖を開ければ、そこには死体の山と、迫りくる気が狂った老人である。



(クソが、せめてここがどんな場所なのかを話してから死ねや!!!)



 男の機嫌は、かつてない程に下がっていた。


 なにせ、もうすぐ滾った男を女の身体に差し込むところだったのだ。


 ただお預けされただけでなく、こんな喜色の悪い場所に連れて来られたともなれば、彼でなくとも機嫌を悪くするだろう。



「──ったくよ、靴も汚れちまったぜ」



 治まらない怒りを、死にかけの老人にトドメを差すことで静めた男は……ふん、と鼻息荒く唾を吐き捨てると、踵をひるがえして別の部屋へ──っと。



(あのジジイ、どっかで見たような……?)



 そこで、ふと、何とも表現し難い違和感を覚えた男は、振り返って改めて老人を見やる。


 だが、数秒ほど考えても思い出せなかったので、さっさと切り替えて……そのまま部屋を出て、別の部屋へと通じる襖を開けてゆくのであった。



 ……。


 ……。


 …………男は、気付いていなかった。



 己が今しがた殺したのは、未来の自分であるということに。


 それも、ただの未来ではない。無限に等しいほどに枝分かれしてゆく、別の時間軸における己の未来に生きていた、己だということに。


 そして、それは1人ではない。


 あまりにも膨大な部屋数ゆえにまだ遭遇していないが、ここへ連れ込まれている彼は1人ではない。


 あらゆる時間軸、あらゆる平行世界、あらゆる時代から無差別に連れ込まれており、それは少年であったり、少女であったり、老人であったり、赤子の場合もある


 既に、総数は五桁にも達している。そして、その数は刻一刻と増え続けており、時々減ることはあっても、結局は増え続けるだろう。


 ……そう、男は……奇しくも、始まりと同じ名を持つ大文字九郎という名の、その男はまだ、知らなかった。


 ここには、何も無いのだ。


 水はもちろんのこと、食料も無い。時々、連れ込まれる際に巻き込まれて水(浴槽など)などが入ってくる時以外に、外部の物が手に入ることはない。



 ……では、全員何も出来ずに飢えて、あるいは乾いて死ぬのか? 



 答えは、違う。確かに、何もしなければ確実にそうなってしまうが……ここには、食料でもあり水にもなる生き物が居る。



 ──そう、己自身だ。



 ここへ連れて込まれる、あらゆる世界の『大文字九郎』。それらの血肉を貪れば、少しばかり生き長らえる事が出来るだろう。


 そうなのだ、彼はまだ気付いていなかった。


 ここに来て何カ月も経過し、もはや己以外を新鮮な食糧としか思っておらず、赤子を見ても『柔らかくて美味そうだ』としか考えられなくなっている怪物が、大勢居ることに。


 男は……別世界の大文字九郎は、知らなかった。


 ここでは、自殺する事が出来ない。自殺しても、傷やその他諸々が治った状態で生き返り、再び地獄をさ迷うしかないということを。


 大文字九郎は、知らなかった。


 老人が感謝の言葉を述べたのは、自殺する事が出来ないこの地獄から抜け出す唯一の手段である、己以外の自分に殺される必要があることに。



 ……そして、その老人も……いや、万を超える『大文字九郎』は、知らなかった。



 そうして死を迎えた後……輪廻に還ることなく、その魂はここに囚われ、ここでの記憶を全て消されたうえで、再びここで肉体を得て目覚めることに。


 そう、未来永劫、『大文字九郎』は出られない。同じ場所を、足踏みし続けるだけ。


 女神が飽きる、その時まで。


 あらゆる世界、あらゆる時間軸、あらゆる時代の己と、共食いをし続けるだけで、何も生み出さず、何も消費せず、何も変わらない、ただ繰り返すだけの。


 そう、無限地獄の中に囚われていることに、この男もまた気付くことなく……無邪気にも、ここから出られた後の事を考えていたのであった。



 ……。


 ……。


 …………ただ、一つだけ



 こことは違う場所で、『大文字九郎』の部下や親密な相手もまた、同じ地獄の中に居るのだが……まあ、慰めにもならないけれども。



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