第65話: ささやかな日常の幸せ
──年末の大掃除が始まる。
昭和41年(1966年)に限らず、この頃のお正月前後は、現代(前世の話)とは違ってどの店も長い休暇を取る。
三が日どころか、長ければ五日~七日ぐらいまで休みを取ることもあり、合計すれば半月近く休む者もいた。
現代人からすれば信じられないような話である。だがしかし、それは数字だけを見ると本質を見誤る好例でもある。
まず、この頃の家は、どの家も年末には大掃除を行うのが慣例となっていた。
──Q.それって現代でも同じでは?
──A.現代と同じ感覚で考えてはいけない(戒め)
そう、この頃の大掃除というのは、ただの掃除ではない。『大』という文字が付くだけあって、そりゃあもう徹底的に行われた。
『ケガレ』を新年に持ち込まないというある種の宗教観、この頃はまだそういった考えが根強かったこともあって、年末は何処も彼処も一家総出で掃除を行うのが当たり前であった。
普段ならまず動かさない箪笥も動かし、布団は何日も掛けて天日干し、細やかな家具も隅々まで掃除し、動かせる場合は畳も剥がして干した。
拘る人によっては、夏に着る下着や服をわざわざ箪笥や押入れなどから引っ張り出して洗う人も居たというのだから、気合の入れ方が現代とは違う。
合わせて、障子紙の張り替えなども行う。
まあ、障子の和紙代を考えて、破損や汚れがなければ、埃を取るぐらいに留める家も多いが、心情的に多少無理をしてでも張り替える者も少なくはなかった。
たかが和紙代、されど和紙代。ケチるところはケチる。
年末は色々と出費がかさむ事もあって、『まだ綺麗だし使える!』と、見て見ぬふりをする者もまた、けして少なくはなかった。
……畳は、って?
畳はそんな簡単に買い換えられるような値段じゃないから……腐って変色している場合や、削れて棘が出てくるような状態でなければ、続けて使うのが当たり前であった。
……さて、ここまでは一般家庭の話だが、住居兼仕事場になっている自営業の家庭は、さらに忙しくなる。
商品の棚卸(掃除を含めて)もそうだが、取引先相手のあいさつ回りだ。
現代でもそうだが、この頃は特に商売の範囲が小さい範囲で収まっている場合が多く、コミュニティの中で完結している場合が多い。
言うなれば完全地域密着型の商売であり、持ちつ持たれつの関係で商売をしているのが非常に多かった。
なので、あいさつ回りが大事である。
まあ、さすがに一件ずつじっくり回るのは現実的ではなく、相手も忙しいので、だいたい会合という形で軽く集まるだけ。
雑談混じりに挨拶をするだけで、コミュニティの一員としての挨拶を行うのは年が明けてからとなっていた。
もちろん、逆の場合はある。挨拶は一回だけというのもあるし、あくまでも千賀子の生まれ育った場所では、そういうふうになっていた。
……で、そういう時にこそ役に立つのが、千賀子の美貌である。
「お久しぶりです、今年もお世話になりました! また来年もよろしくお願いします」
「お~、千賀子ちゃんか! いやあ、しばらく見ない内に別嬪さんになったねえ!」
「お久しぶりです、今年もお世話になりました! また来年もよろしくお願いします」
「いやあ、綺麗になったなあ。こんなに小さかった子が、こんなに立派になっちゃって……」
会場にて、千賀子は父と祖父と共に取引先の人達へ挨拶を行い、千賀子は1人1人に酌をしていく。
さすがにまだまだ仕事が忙しいので、どの人もせいぜい1杯か2杯飲むだけ。で、それ以外は近況報告である。
現代人(それも、若者)から見れば、なんの意味があるのか分からない非効率なやり取りに見えるだろう。
だが、この頃はこういうコミュニケーションが互いを助けることが多かったの……ん?
……飲酒運転になってしまう者が出て来るのではって?
そんなの、昭和のこの頃には無い。酩酊状態で運転して事故をして、それを酒のバカ話にする時代である。
そうして、慌ただしい挨拶を終えれば……一時中断していた、自宅兼お店の大掃除と棚卸作業の再開である。
棚卸自体はもう慣れているので、時間は掛かるけど、大丈夫。ただ、ここで千賀子にとって問題となったのは、意外なことに大掃除であった。
「──おぅ!?」
ごす、っと。
足元に置かれていた家具に気付かず小指をぶつけた千賀子は、堪らず呻き声をあげて屈む。
指先で触って、出血などが無い事を確認した千賀子は……途端、わざとらしくそっぽを向いている兄の和広を怒鳴った。
「~~こんの糞兄貴! 掃除するからってそこらにポイポイ置くなって言っているでしょうが!」
「ごめんて。でもさ、そんな小さい物じゃないのだから、お前も避けろよ」
「避けたくても乳がデカくて足元が見えないの! 物理的に足元が目隠しされているから、知らないうちに置かれると本当に分からんのよ、こっちは!」
「わ、悪かったって、そんなに怒るなよ……」
乳の話は置いといて、掃除のためとはいえそこらにポイポイ置いておくのは、普通に危ない。
和広の言う通り、ちゃんと足元を見ていれば蹴飛ばすことはないのだが、千賀子の場合は乳隠しによる物理的シャットアウトで足元が見えなくなっているので、どうしようもなかった。
そう、けっこう忘れがちかもしれないが、千賀子の胸はデカい。直立した状態で視線を下げると、足元が見えないぐらいに。
巫女的なパワーを使えば良いのではと言われそうだが、意識の注意の外にまで気を張れともなれば、さすがにガス欠を起こしてしまうので、使っていないのだ。
まあ、その分だけ己の『魅力』を抑え込むことに全力だから、今はそっちに気を回している余裕がないだけなのだが……とにかく、全面的に和広が悪いので、兄は妹の猛攻にタジタジであった。
……ところで、当たり前のように和広が実家に戻ってきているのは……いや、それ以前に、和広の近況を話そう。
家を離れておやっさんの下で働き下宿生活をしていた和広だが、高校を卒業してからは東京にて一人暮らしをしている。
千賀子はあくまでも両親からの又聞きだが、一緒に下宿していた友人たちと一緒に、東京で協力しながら生活し、活動しているらしい。
まだデビューは出来ていないらしいが、とにかく片っ端からいろんな場所で演奏しているらしく、まだまだこれから。
首を突っ込むとまた拗れるかもしれないので、千賀子は一歩を離れた位置から静観することに徹している。
いちおう和解したとはいえ、長年のコンプレックスや憤りは、そう簡単には解消されない。
物理的に距離を取ったことで、さすがにあの頃のような気まずい感覚は軽減されたが……今は夢に
……で、そんな和広が実家に戻ってきているのは、だ
年末の大掃除のためと、正月ぐらいは顔を出せと両親から言われたからだ。ちなみに、里帰りを今年はしない者もいるらしく、その人は東京に残るのだとか。
「あ~、その、俺はこっち持つから、千賀子は反対側を持ってくれ」
「ああ、はいはい、ちょっと待って」
とまあ、そんなわけで大掃除に参加している和広と、例年通りに参加している千賀子は、何年かぶりに共同作業をしている……わけなのだが。
「……もうちょっとそっち行ける? お尻がつっかえて廊下で詰まるのだけど」
「え? こっちもいっぱいだぞ。ていうか、それならもっと抱き着くように持てよ」
「もう息苦しいぐらいに前のめりよ、それでもお尻が……お尻が、邪魔をして……」
「おまえ、もうちょっと痩せろよ」
「痩せとるわい! 脱いだらちゃんと腰だってクビレとるぞ、我クビレぞ!」
「なんだよ、その言い回し……つうか、千賀子ってマジでそんなに尻デカいの?」
「デカいよ、スカートで分かり難いけど、そこらの女子より一回りデカいからね、私のケツは」
「……そ、そうか、おまえって、けっこう明け透けにそういう事を言うんだな」
「それを言うなら、お兄ちゃんはけっこうそういうのを気にするのね」
「そりゃあ、気にするだろうよ」
お世辞にも息が合っているとは言い難い感じで、千賀子の魅力的なスタイルが時に足を引っ張ることにはなったが……とりあえず、険悪な雰囲気にはならなかった。
かつてよりも、お互いに広がっていた距離が縮まる……とまではいかないが、それでも、ようやく兄妹らしさが現れるようになったのであった。
……さて、そうして大掃除を終えて、無事に新年を迎え、お節を食べて、ゴロゴロして……1月4日。
千賀子たち秋山家は、新年初の風呂を求めて、銭湯へと向かっていた。
いったいどうして、これまで風呂に入っていなかったのだろうか?
答えは、風呂に入っていない、である。それは、この頃のお正月の風習(地域によって内容が異なる)が関係している。
説明すると長くなるので短くまとめると、三が日(1月3日)までは主婦は働いてはいけないのだ。
それは、せっかく門松などを置いて元旦に招いた福を、掃いたり流したり、身体から追い出してしまうから……という風習である。
箒などの掃き掃除は運を掃く、外に出してしまうという行為。
水回りの作業も全て運を外へと流してしまうので、縁起悪し。
入浴もまた、身体に浸みこんだ福を流してしまうので、駄目。
地域によって日数はマチマチだが、千賀子の住んでいるところでは、特に自営業の家ではゲン担ぎもあって、三が日までは徹底するのが普通であった。
……で、明美の家の銭湯だが……中々に混雑していた。
家風呂が普及してきているとはいえ、新年の初風呂は広い湯船に浸かりたいと考えている者は多いようで、まるで子供の頃の活気が戻ってきたかのような光景であった。
まあ、入る側からすれば、それなりに空いていてゆっくり浸かれるのが一番なのだが……それは言わないお約束だろう。
「明けましておめでとう、千賀子」
「こちらこそ、明けましておめでとう。明美は正月から番台に立っているの?」
「そうよ、自営業の悲しいところね」
そうして、番台に座っている明美にお金を支払い、脱衣所の奥へ……やっぱり混んでいたが、幸いにも着替えを入れておけるカゴと棚は空いていた。
ただ、人は多い。おそらく、入浴前に顔を合わせたから愚痴とかお喋りとかをしたいのだろう。
季節は冬で寒いが、脱衣所は浴室の熱気も相まって、むせるような湿気がこもっていた。
母と祖母も、知り合いが居たのか、服を脱ぐ前に同年代の人と雑談を始めている。
その傍には見知らぬ子供……誰かの孫だろうか、おそらく2,3歳ぐらいの男の子や、それよりちょっと年上の女の子が、暇そうに立ち尽くしている。
(姉弟っぽいな……勝手にお風呂に行ったら怒られるんだろなあ……)
可哀想に思いつつも、今が好機と判断した千賀子はさっさと服を脱ぐ。神社でも自宅でも毎日風呂に入っているから、この三日間は本当に風呂に入れなくて苦痛だったのだ。
三つ子の魂百までとは言うが、やはり一度毎日入れるようになればもう、入らずにはいられない……前世から続く定めであった。
「……ん?」
そうして、いざ風呂へと準備を終えた直後──ボケーッと突っ立っていた男の子が、千賀子へと視線を向けた──瞬間、突如片足立ちになると。
「しぇー」
片手を上に伸ばし、もう片方の手を胸に当てて、そんな言葉を呟いたのであった。
「????」
意味が分からずに……いや、テレビでなんか流行っているっぽいポーズだというのは知っていたが、どうして己を見て──と、思ったと同時に。
「あっ」
と、声を上げた時にはもう、男の子はバランスを崩して、こてんと転んでしまった。
……直後、男の子の目にジワッと涙が滲む。いかん、充填を始めたぞ!?
子供の声は浴室の方からも響いていたが、こんな場所で泣かれたら──異変に気付いた母親らしき人物がお喋りを中断した──が、遅かった。
「──お姉ちゃん、大人なのにお股がアタシとおんなじだねー!!」
そう、遅かったのだ……それよりも前に、その子のお姉さんらしき女の子が、千賀子の……正確には、ツルツルの股を指差して叫んでいたから。
……。
……。
…………一瞬ばかり、脱衣所が静まり返った後。
「す、すみません! すみません! おまえも、なんてことを言うの!」
我に返った、母親らしき女性が心から申し訳なさそうに頭を下げ、女の子の頭をペシンと叩いたのを見て。
「い、いえ……子供の、やることですから……」
風呂に入っていないのに、のぼせたみたいに千賀子は顔を真っ赤にして……そう答えるのであった。
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