第22話: ナイーブ・センチメンタル・ハート



 ──一言で警察による逮捕とは言っても、そこから先の経過は罪状(この時点では確定していないが)によって異なる。



 裁判に掛けられるレベル、捜査本部が置かれるレベルの重犯罪ならともかく、軽犯罪による一時的な拘束というのは、現代に限らず昭和の時代でも行われている。


 いや、というより、昭和の方がよほど多い。


 なにせ、重犯罪ともなれば、対応した職員への聞き取り調査だけでなく、被害者や周辺への聞き込み調査、マスコミへの対応など、とにかく人手が取られてしまう。


 そして、当然ながら、人員には限りがある。


 事件のたびに無限に人員が湧き出るわけではないから、警察としては、軽微の事件にいちいち人員を割ける余裕もない。


 ゆえに、ならば。


 まとめて留置所に叩き込んでからの親族などの身元引受人呼び出し。連絡が付かなければ、教師なり親戚なりを呼んでからの釈放。


 留置場に収容できる人数にも限りがあるので、その程度の犯罪ならば、流れ作業で処理されるのが必然であった。


 もちろん、ナイフやバットといった、人を死に至らしめる凶器が使用されていたら別である。



 拳と拳。



 それでも場合によって人が死ぬけど、それでもまだ、喧嘩の範疇で治めることが出来る。


 しかし、凶器を使ったら、それはもう喧嘩ではない。双方の殺し合い、あるいは、一方的な殺し合いになる。


 そうなれば、釈放にはならない。喧嘩両成敗ではない、『重犯罪』の範疇に入ってしまうからだ。


 そして……どうやら、和広はそこまでではなく、あくまでも『喧嘩両成敗』の範疇に収まる程度だったようだ。



 とはいえ、喧嘩は喧嘩。



 それも1対1の喧嘩ならともかく、集団による乱闘ともなれば、警察からのお叱り(小言とも言う)も相応に強くなる。



 とはいえ、そう、とはいえ、だ。



 この頃の警察官の対応がそうなるのも、致し方ない部分はある。


 というのも、この頃の警察官は、それこそ戦前から戦中を経験した世代がそれなりに居る。


 もちろん、物心が付いた頃には戦争が終わっていた者たちが大半だが、中には、そういう年齢の者たちも居る。



 ……当たり前だが、その全てが善良ではない。



 警官という立場を笠に着て、横暴を振るっていた者はいる。なにかと理由を付けて、闇市などで手に入れた食料を没収し、自分たちで分けていたような者たちだ。


 悲しいかな、実際に戦中を経験した者の中には、警察という存在を心底蔑み、許されるならばと憎しみを込めている者もいただろう。


 だが、反対に、警官という立場を胸に、規範に則っていた尊敬すべき警官もいる。『あの人だけは違う!』と、周りから庇われていた警官も存在していた。


 そして……和広の釈放の際に立ち会った警官は、そういう人物であり……どうやら、和広とは何度も顔を合わせている仲であったようだ。



『……羨ましい限りですな』


『私の友人は、戦争で死にました』


『私の初恋の人は、薬が手に入らずに病死しました』


『私も、一個のおにぎりを得るために駆けずり回りましたし、歳の離れた弟が栄養失調で亡くなりました』


『だから、羨ましいのです』


『空襲に怯えることもなく、眠れぬ夜に怯えることもなく、兄が戦場から無事に帰って来るのか毎日怯えることもなく』


『今日の食事に事欠く不安を覚えず、周りの優しさに甘え、世間の優しさに甘え、なのに、当人はいっちょまえに苦しんでいるフリは上手い』


『……知りもしないくせに?』


『ははは、分かりますよ。君みたいなガキは、決まってそういう目をしている。自分が傷つくことは人一倍敏感なくせに、他人を傷付けることにはとことん無頓着だ』


『……だって、見て来ましたから、警察官としてね』


『本当に悲惨な家庭の子はね、君みたいな甘ったれではいられないんですよ。身体も心も、見る人が見れば一目で分かるぐらいにボロボロになっている』


『でもね、君は違う。君は、有り体に言えば自分が優秀だと思い込んで……いや、そう願っているだけの、実際は何も出来ないクソガキだ』


『親が用意したご飯を食べて、親が用意した制服を着て、親が苦労して育てた健康な身体を、君はさも自分一人で育ってきたかのように心のどこかで思っている』


『それを、甘ったれと言わず、なんと言う?』


『本音では、君もそれを分かっている。でも、君はそれを認められない。認められないから、そのうっ憤を周りにぶつけている』


『誰も分かっちゃくれないって? そんな甘ったれ、なんで周りが分かってくれると思うのですか?』


『親に甘え、周りに甘え、子供だからと大目に見てくれる世間に甘え……1人で飛び出していく勇気も無ければ、自分で責任を取る度胸も無い』


『だからこそ、次はありませんよ』


『今回が、君にとって引き返せる最初で最後です。次に君が同じようにここのお世話になれば……もう、君は自分に言い訳を作ってしまう』


『自分を慰めるだけの、言い訳を作ってしまう』


『作ってしまったら、もう君は引き返せない。とことん、自分に甘い言い訳を作り続け……ろくでもない死に方をするでしょう』


『だから、今日は……迎えに来てくれたご両親へ、腹を割って話しなさい』


『言葉にしなければ、伝わりません。少なくとも、君が抱えているうっ憤、澱み、憤怒……どれだけ情けない事だとしても、口に出さなければ、君はもう前にも後ろにも進めなくなるでしょう』


『だから、話しなさい。年寄りの、うっとうしい老婆心とでも思って……素直に、話しなさい』


『──それから、和広くんのお父さん』


『どうか、和広くんをあまり責めんとってください』


『和広くんも、本当は分かっとるんです。ただ、それを認めるわけにはいかんのです。少なくとも、和広くんの歳で、それを認めるっちゅうのは酷ってもんです』


『……いえ、罰は受けますよ』


『これから、和広くんは罰を受けるんです。それも、和広くんじゃない……和広くんにとっては、そちらの方がよっぽど心苦しい罰になるでしょう』


『だから、もう責めんとってください』


『……つまらない、老婆心とでも思ってください』


『なんとなく、和広くんの気持ち……私にも分かりますから……』



 そう、最後に告げた後……その警官は、一度として振り返らなかった。






 ……。



 ……。



 …………まるで、お通夜のように重苦しい空気だと、千賀子は思った。



 時刻は夜。すっかり夜も更け、ランプの明かりが無ければ真っ暗な時刻。


 その中で、千賀子たちは何をしていたかと言うと……普通に、飯を食っていた。



 ……聞き間違いではない、晩飯を食べているのだ。



 最初は戻ってすぐ話し合いを始めようとしたのだが、それを祖父母が止めたのだ。


 曰く、『腹が減っている時には、何をやってもロクな結果にならないし、だいたい上手くいかない』、とのこと。


 それに、空腹の時は気が立ちやすい。普段なら気にも留めない事でも、苛立って声を荒げてしまうことがあるだろう。


 だから、何でもいいから腹に入れる。


 腹が満たされている時は、ちょっとやそっと悪口が零れたところで聞き流せられる……それは、この場においては年長者の二人が培った経験則であった。


 なので、秋山家一同は……年功序列に従って、遅い晩飯となったわけである。



「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」



 まあ、当たり前だが、誰も彼もが無言であった。


 そりゃあ、そうだろう。


 とりあえず、珍しく祖母まで『まずは、食べてから!』と言うのだから従ったが……とてもではないが、和気あいあいと食事が進むわけがない。



「……っ」



 特に、和広は食事中、何度も顔をしかめては、何かを堪えるかのように動きを止め……再び、ゆっくりと食事を再開するのを繰り返していた。


 理由を、みなまで語る必要はないが……あえて簡潔に語るなら、けっこう和広の顔は腫れていて、小さく唇も切れていた。


 慣れている強面の警官から、『しばらく口の中が痛むだろうが、まあ、仕方ねえわな』と言われたらしいが……とりあえず、痛みを我慢すればなんとかなる程度の傷で済んでいるようだった。


 ……そうして、握り飯と味噌汁に漬物という、昭和のこの頃でも質素な方だとカテゴライズされる遅い晩飯を済ませ、片づけを終えて……一同が居間に集まった後。



「…………」



 再び、室内には沈黙が訪れた。


 とはいえ、それも致し方ない。


 空き腹が満たされて、気が緩んでいるのは確かだ。祖父母の言う通り、食事は気持ちにワンクッションを入れてくれた。


 しかし、だからといって、閉じている口まで緩むかと言えば、そんなこともない。


 その程度で緩むのであれば、ここまで拗れたりはしない。それを分かっているからこそ、誰もが……沈黙を選ぶしかなかった。



「……和広」



 でも……この時ばかりは、父から沈黙を破った。



「おまえは、自分が何をしたか……分かっているか?」



 机を退かされて、広々となった畳の上で……ポツリと、その問い掛けをしたのが始まりであった。



「以前、おまえは盗みを働いた。それで、どれだけ皆が頭を下げて回ったか……知らないとは言わさんぞ」

「……分かっているよ、それぐらい」



 視線を父に向けないまま、ポツリと答えた和広に──父は、怒髪天を衝かんばかりに、顔を紅潮させた。



「分かっていて、それでもやったんか!? おのれは!!!」



 普段の温厚な話し方からは想像すら出来ない、強烈な怒声。家の土台をも震えてしまうようなその怒りに、和広は……何も言わなかった。



「──落ち着きぃ、それじゃあなんも始まらんよ」

「……っ、わかった、ごめん」



 このまま殴りつける……そう言わんばかりに反射的に立ち上がりかけた父──だが、それを察していた祖母が、止めた。


 さすがに、自分の母親にまで怒りをぶつけるのは違うと思えたのだろう。


 その程度には冷静さを保てていたようで、苛立ちを隠しきれなくとも、そのままその場に腰を下ろした。



「あんたも、口出しはせんでな。母親から言わせることでねえかんな」

「……はい」

「爺さんも、でよ」

「わかっとるわい」



 次いで、母にも、あとは祖父にも釘を差す。


 それは、『女が口出しするな』という意味ではない。


 単純に、実の息子に対して気が高ぶり過ぎて、ただただ感情をぶつけるだけになりそうだと判断されたからだ。


 それは、母もうっすら自覚しているのだろう。複雑そうな顔ではあるものの反対せず、その場から動くことはなかった。



「……和広や、聞いてええか?」



 それから、改めて……祖母は、和広へ向き直るようにして姿勢を正してから、尋ねた。



「あたしゃあ、別にあんたが誰それと喧嘩をしたのはどうでもええし、理由だってどうでもええ。盗みだって、それは前のことだから、今はええ」

「…………」

「でんもな、これだけは聞いておこうと、思うとったんよ」



 ジッと……睨むでもなく、蔑むでもなく、まっすぐに、祖母は和広を見つめた。



「千賀子が、そんなに憎いけ?」

「──っ!」



 瞬間──和広は、大きく目を見開いて──ハッキリと、祖母の目を見つめ返した。


 和広だけではない。


 父も、母も、祖父も……祖母のその言葉が出た瞬間、反射的に目を見開き、ビクッと体を硬直させた。



「…………」



 そして、千賀子もまた……家族とは些か反応は違うが、改めて表面化したその事実に、ギュッとスカートの裾を握り締めることしか出来なかった。




 ──暗黙の事ではあった。




 千賀子と和広は、仲が悪い。


 幼少期から、仲が良い方ではなかった。


 和広はお兄ちゃんとして、妹を守ったり譲ったりしたことは一度も無いし、反対に、千賀子が和広に対して甘えるようなそぶりを見せたことは誰の記憶にもない。



 それ自体は、よくあることだ。



 兄や姉が、弟や妹に対して意地悪をするのはよくあることで、下僕のように扱おうとするのはよくあること。


 弟や妹が、兄や姉に対して反感を抱いて拒絶するのは、よくあること。


 子供同士、ちょっと仲が悪いぐらいでいちいち目くじらを立てるのも……大人の誰もが、最初はその程度に考えていた。


 ……それが、どんどん悪化し始めた……キッカケがなんだったのか、それはこの場の大人たちの誰にも分からない。


 気付いた時にはもう、2人の仲は拗れ、周りが声を掛けたぐらいではどうにもならなくなっていた。



「千賀子が、和広より頭が良いのが……そんなに気に食わんのけ?」



 だからこそ、祖母が初めて……大人たちの誰もが察してはいても、和広の事を考えてあえて口には出さなかった事を……初めて、真正面からぶつけたのであった。



 ……。


 ……。


 …………今度の沈黙は、始まりの時よりも長く、重苦しかった……が、それでも、和広から……初めて、その言葉が零れ出た。



「……気に入らねえのは、そうだよ」

「それはよぅ、千賀子の方がちゃんと勉強を──」



 それ以上、祖母は言えなかった。



「──分かってんだよ、それぐらい!」



 和広が、遮ったから。


 目尻にうっすらと涙を滲ませた和広は……唇を、身体を、声までをも震わせながら、それでも、ハッキリと答えた。



「分かってんだよ、千賀子とはモノが違うって! 言われなくてもさ! 子供の時から、ずっと分かっていたんだよ!」

「おい、それは──」



 堪らず、口を挟もうとした父……だが、しかし。



「父ちゃんも! 母ちゃんも! 爺ちゃんも婆ちゃんも! どいつもこいつも……みんなそう思ってんだよ! それぐらい、俺にだって分かるよ!」



 血反吐を吐かんばかりの、その内心に……父は唖然と……それでいて、何かを堪えるかのように顔をしかめた。


 それは、父だけではなかった。


 母も、祖父も、祖父母も、大なり小なり、似たような表情を浮かべ……それを見た和広は、震える拳で畳を殴れば──そこへ、水滴がしたたり落ちた。



「……最初は、ちっちゃい頃は、そう思わなかった」


「とろくさいし、頭の覚えも悪いし、身体だって小さいし、すぐに疲れて座り込むし……舌足らずの千賀子を、俺は自分より下だと思ってた」


「でも、そうじゃなかった」


「最初……そうだ、最初に違和感を覚えたのは、学校から漢字の練習を出された日だ」


「あの時の先生はさ、宿題を忘れたりサボったりすると、すげー怒って怖い先生だった」


「だから、嫌だけどその宿題だけはやってた。てきとうに書くと怒られるから、俺なりに真剣にやっていたんだ」


「でもよ、その時の俺は、間違えていたんだ。漢字の跳ねるとこを書き間違えていた。俺はその事に気付かず、間違った字を何度も書いていたんだ……ああ、そうだ、その時だった」



 そこまで言い終えたあたりで、和広は一瞬ばかり言葉を止めると……はあ、と震える吐息を零した。


『──そこ、間違えているよ』


 そして、ポツリと……その時に掛けられた言葉を口にした。



「たまたま傍を通った千賀子が、そう言ったんだよ。馬鹿な千賀子がなんか言ってる……そう思ったけど、いちおう、確認してんだ」


「……そしたら、その通りだった」


「千賀子は、俺が全く気付けなかった間違いを一瞬で見抜いて……正解を知っていたんだ」


「……気になった俺は、たまたま千賀子の近くを通りがかったフリをして……アイツが、ひらがなの練習をしているのを見た」


「──上手かった。俺の下手くそな字とは、比べ物にならないくらいに」


「一目で、分かった。千賀子は、馬鹿なんかじゃないって。こんな綺麗な字を書けるやつが、頭が悪いわけがないって」


「見下していた妹が……実は、俺よりもよほど凄いやつだって……俺はその時、胸が張り裂けるような、醜い気持ちになった」



 その言葉と共に、ギュッと畳が軋んだ。



「実際、そうだった」


「千賀子は、分かり難いけど、周りの事をちゃんと理解していた」


「親父たちの会話も、近所の人たちのお喋りも、新聞に書かれた難しい言葉も……当時の俺や友達にとっては遠い話だったけど、千賀子だけは、そう感じていなかった」



 ──どすん、と。



「……悔しかった」



 和広は、畳を力無く殴った。



「本当に、悔しかった」



 何度も、何度も、何度も……和広は、畳を殴った。



「でも、勝てるって思えなかった」


「千賀子は、俺の知らない言葉を、知らない漢字を、知らない事を、いっぱい知っていた」


「それが、すげえ悔しかった」


「何時の間にか、父ちゃんも母ちゃんも……爺ちゃんも婆ちゃんも、何かあると千賀子を呼ぶようになった」


「それが……泣きたくなるぐらい、悔しかった」


「じゃあ、足の速さで、体育で勝てるか……そう思って、俺はいっぱい練習したさ。家の仕事をサボって抜け出して……馬鹿な話だけど、その時の俺はそれが正しいって……」



 ──いや、それは言い訳だ……そう、和広は呟いた。



「父ちゃんも母ちゃんも、言葉は選んでいたけど、ちゃんと俺に言っていたんだ。千賀子に勝つ事よりも、ふてくされずに真面目にコツコツ頑張れ……って」


「それを、俺は意地を張って受け取らなかった」


「俺は、千賀子にさえ勝てれば良いと思っていた。だから、家の事とかも、勉強の事とかも、どうせ勝てないからって諦めていた……そんなのは、言い訳だった」



 その言葉と共に、初めて和広は顔を上げて……正座をして己を見つめている千賀子と、視線を交わした。



「中学に入ってさ……俺、分かったんだよ」


「千賀子だけじゃない。俺が知らないだけで、この町にも凄いやつはいっぱい居るって」


「俺よりも頭が良いやつは居たし、俺よりも運動が出来るやつも居たし、俺よりも身体のデカいやつだって居た」


「俺が10頑張って10の結果を出しても、5頑張って20の結果を出すやつがいる。同じ練習をしても、俺が出来ないことをあっという間に覚えていくやつがいる」


「……千賀子だけじゃなかったんだ」


「千賀子だけが凄いんじゃない。俺が知らないだけで、俺よりもずっとずっと……凄いやつが、俺以上に努力をしているんだって……俺は、分かったんだよ」


「──だから、俺は逃げ出したんだ」


「怖かったんだよ……本気になって頑張って、それで、俺なんてどう頑張っても上には行けない程度のやつだって……思い知らされるのが……俺は、怖かったんだ」


「……夜の町にはさ、俺みたいなやつらがいっぱい居たよ」


「世間様は、落ちこぼれだって言うけどさ……楽だったよ。どいつもこいつも、俺みたいな負け犬の面をしていたからな……初めて、息が出来たような気がしたよ」


「そいつらはさ、俺と千賀子を比べなかったんだ」


「まあ、当然さ。まともに学校言っていないやつらばっかりだし、家にも戻らねえ悪共ばかりだからな……俺と千賀子が兄妹だって知っているやつが居なかった」


「そこに居ると、俺は初めて千賀子の兄じゃなくて、和広っていうただの男として見られているのが分かって……本当に、気が楽になったんだ」


「喧嘩も、煙草も、酒も、楽しかった」


「俺は1人じゃねえ……盗みだって、仲間たちと一緒にやっていれば、悪い事をしただなんて全く思えなかった……コレがずっと続いてくれたら……そんな事も、考えてた」



 そこまで話したあたりで、不意に……和広は苦笑した。



「そんな時に、あの人に出会った……警察署で、俺の事を話していた、あの人だよ」


「あの人はよ、俺たちだけじゃなく、俺たちのようなやつらからはすげー嫌われてた。そりゃあ、そうさ。なんてったって、警察官だからな」


「俺たちを捕まえて説教をする時、それはもう人をゴミ屑か何かを見るかのような冷たい目をされたよ」


「……でもさ、ある時、気づいたんだ」


「その時の俺は、なんも悪さなんかしていなかった。盗みだってしていないし、酒も煙草もやっていない……ただ、ブラブラ1人で歩いていた時……ばったり、あの人と出くわした」


「あの人は……俺を、蔑んだ目で見なかった」


「まるで、顔見知りに会ったかのように手を挙げてさ、『おお、元気か? 酒も煙草もまだ早いぞ』って、笑顔を向けられたんだ」



 ……少しの、間が空いた。



「気づいたんだよ……俺がそんな目で見られるのは、俺が悪い事したからだって。悪い事をしなければ、誰も俺を蔑んだ目で見て来ないってことに……その時、やっと気付いたたんだ」


「考えてみれば、そりゃあそうだ」


「悪い事をするやつを、誰が好きになる。すぐに手を出すのに、手を出した俺だって辛いんだって顔をするやつ、誰がまともに見てくれるってんだ」


「……そう思った時、俺は……その時になってようやく、勝手にふてくされていたのは俺の方だったって……気付いたんだ」



 そこまで話し終えた和広は、大きく深呼吸をする。



「父ちゃんも母ちゃんも、俺を蔑んでなんていなかった。爺ちゃんも婆ちゃんも、俺を蔑んでなんていなかった」


「父ちゃんが俺を叱る時も、俺が悪い事をしたから叱っていたんだ。今まで一度だって、俺の努力が足りないなんて言わなかった。ただ、やるべきことをしない、それだけを怒っていたんだ」


「母ちゃんが俺を叱る時も、俺が仕事をサボったからだ。それなのに、母ちゃんは一度だって俺の飯を用意しなかった事はないし、汚れた俺の服だってちゃんと洗濯してくれた」


「爺ちゃんが千賀子だけを東京に連れて行った時だって、その時は千賀子だけを特別扱いされたって思ってた……でも、そうじゃなかった」


「俺が爺ちゃんの立場だったら、きっと俺も爺ちゃんと同じことをした」


「普段からやるべきことをしないでサボっているくせに、貰える物はちゃっかり貰おうとした、俺が悪かったんだ」


「婆ちゃんだって、そうだ」


「悪い事をするな、お天道様が見ている、ずっとそれだけ。でも、俺がふてくされる前は、俺が良い点数を取った時には褒めてくれたんだ」


「……そうだよ、千賀子だって、そうだった」



 その言葉に、顔を上げた千賀子と、和広の視線が、改めて重なった。



「千賀子が俺を嫌うのは当然だ。だって、俺は千賀子に意地悪しかしなかった、邪険な扱いしかしなかった」


「小さい千賀子の面倒を見ろと言われたって無視していたし、掃除とかもやらせていた。オヤツとかも、どうせ分からないだろうって、誰も見ていない時に不公平に分けてた」


「他にも、色々やったさ……でも、千賀子は、そういう事には冷たい目をしても、一度だって……俺の不出来を責めはしなかった」


「宿題をサボっている時も、仕事をサボった時も、無視して遊びに行く時も、その事だけは、責める目をしていた」


「でも、俺の成績が下がった時も、野球を止めようってなった時も、千賀子は俺を馬鹿にすることもなく、蔑むこともしなかった」


「……その日の晩飯、千賀子が自分の分のオカズを少しばかり俺に回してくれていたのも、分かっていた」


「そうだよ、千賀子は俺を嫌っているけど、追い出そうとはしなかった。魚だって、いつも俺の方に大きいやつを回してくれていた」


「──―俺は、それが腹立たしかった」


「上から見下ろされているようで、無性に腹立たしかった。俺よりも年下なのに、どこか年上のように俺を見てくる千賀子の事が……腹立たしくて堪らなかった!」



 そこで、和広は……少しばかり俯いて、言葉を止めた。



「でも、それ以上に……そんな俺自身を、俺は……情けなくて堪らなかった」



 そして、涙で滲んだ目を固く瞑り……静かに、目を開けると。



「みんな、ごめんなさい。俺が馬鹿だった。俺のせいで、みんなに迷惑をかけて……本当に、ごめんなさい」



 家族に向かって……深々と、頭を下げたのであった。




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