第9話: 美しすぎる弊害(昭和仕様)




 ──『天使の微笑』




 それを得た当初、千賀子は内心ではビクビクしながら身構えていたが、危惧していたような状況にはならなかった。


 店先の掃除をしている時など、常連客に笑顔で挨拶はするが、誰も彼もが何時ものように挨拶を返すだけで、それ以上はなかった。


 強いて違いを挙げるなら、以前よりも『今日も元気な笑顔ね』とか、『大人びてきたわね』と常連客から声を掛けられるようになったこと。


 あとは、『秋山商店の娘さん』ではなく、いわゆる、『秋山商店の看板娘』として見られるようになったぐらいだろうか。


 道子や明美からの反応は変わらず、教師やクラスメイトの態度も変わらない。まあ、男子に関しては以前からちょっと距離を置かれていた感じなので、分からないという方が正しいけど。


 一番身近な他人であり、接する時間が長い家族も……こっちはそもそも影響が除外されているらしいので、むしろ変わる方が怖いが……で、だ。



 何か起こるかもと身構えていたが、そんな警戒は長く続かなかった。


 不用心と言われたらそれまでだが、仕方がない。



 だって、待てど暮らせど、年が明けて雪が解け始める頃になってもまだ、何も問題が起きなかったからだ。


 それは知能が発達し過ぎた結果の弱点であり、何も起こらないままの状況が続くと、どうしても余計な思考を始めてしまうのだ。



 具体的には、『そこまで心配しなくても、大丈夫なんじゃないか?』という、油断。



 どこかで区切りを付けなければならないし、その程度でまいってしまうようでは、どのみちこの時代では生きてはいけない。


 両親に不安を訴えれば多少なり配慮してくれはするだろうが、限度はある。貧乏ではないとはいえ、手伝いも何もしない子供を育てられるほど裕福ではない。


 加えて、長男である和広が……肉体的には最年少である千賀子も最近感じるようになったのだが、素行がどんどん悪くなり始めている。


 いちおう、言われた通りの仕事はするが、それだけ。


 店番を任せても傍目に分かるぐらいにやる気がなく、品出しを任せてもダラダラと時間を掛けるばかり。


 配達なんて任せたら、サボる。というか、実際にサボった。


 さすがに父からも(この時は母からも)本気で怒鳴られるが、開き直っているのかケロッとして右から左に聞き流している。


 おそらく、何だかんだ言いつつも情が深い父母の性根を見抜き、高を括って甘えているのだろう。


 なんとも腹立たしい話だが、実際にそれが父母には通じているのは事実。分かってはいるが、情が邪魔をして非情に成りきれないのだろう。



 ……そんな和広だが、とりあえずは一線を越えてはいないようで、今は悪い友達とつるむ頻度が増えているようだ。



 いわゆる札付きの不良という程ではないが、どうもタバコは既に覚えているようで、けっこう臭い時が多い。


 酒に関しては見た目に出過ぎるし、煙草より手に入り難いので、まだそっちは覚えていないようだが……それも時間の問題だろう。


 まあ、この時代はまだしも、戦後すぐは煙草を吸っている小学生(男児、女児、関係なく)ぐらいの子供があちらこちらに居たのだ。


 今でも、小学生ならさすがに言われるが、中学生だと人によっては『バレないよう隠れて吸え』と笑うだけで見逃す人も多い。



 もちろん、教師たちはそうではないが、一般人はけっこうそれなりにいる。



 どうしてかと言えば、そんな彼ら彼女らが子供の時にはもう、だいたい既に煙草を覚えていたからだ。


 だから、臭いがしているぐらいでは誰もそこまでは言わず、和広も分かっているようで、露見しないようには頑張っているようだった。



 ……さて、話を戻そう。



 とにかく、長男である和広が戦力にならない以上、小学生とはいえ千賀子が頑張るしかない。


 幸い(?)にも看板娘として知名度が出始めた千賀子のおかげで、和広によって減った分の客足は戻せている。


 人間、明らかにやる気がないうえに感じの悪い店員が居る店よりも、朗らかに笑って出迎えてくれる店員が居る店の方を利用したいと思うのは、必然のこと。



 加えて、千賀子は美少女だ。『天使の微笑』も、+に働いているのだろう。



 千賀子が店に出ると、心もち客足が増える。


 最初はたまたまと思われていたが、帳簿には結果が現れるから、自然と千賀子が店に立つ頻度も増える。


 祖父か祖母のどちらかが必ず一緒に出てくれるが、客足が増えればその分だけ忙しくなるわけで。


 その結果、忙しさのせいで、何時までも起こらない問題に気を向けている暇がなくなってしまったのんであった。



 ……が、しかし。



 先述のとおり、それは油断であった。


 そう、千賀子は軽く考えてしまった。



 女神より与えられた恩恵の力を……その中でも、『SSR』がもたらす恩恵は、『R』や『SR』とは根本から違うということを。



 千賀子は、すっかり忘れていた。


 そして、その代償を……千賀子は、身を持って体感するはめになったのであった。






 ──それは、年度も開けて小学5年生に進級してから一ヶ月ほどが経った頃。



 これまでと同じく、いつものように音楽の授業が行われたわけだが、この日、この時……いつもと違う事が起こった。


 結論から述べるなら、この日……なんと、千賀子の通う学校の生徒に縦笛が……いわゆる、ソプラノリコーダーが授業の道具として導入されたのである。



 ……前世の世界において、リコーダーが学校の教材として使われ始めたのは、1959年頃だと言われている。



 実はその前から『縦笛』が学習指導の要領に含まれていたらしいのだが、導入は困難とされて見送りされ続けたらしい。


 理由は幾つかあるが、最大の理由は使用するリコーダーの品質や強度を統一出来ないから。


 現代では樹脂を使って品質と強度を一定にすることが可能となっているが、この昭和の時代ではまだ製造ラインが確立されていなかった。


 作る事は、可能。しかし、現代よりもはるかに高価になってしまうだけでなく、数を揃える事が難しかった。


 まだまだ販売されている楽器は高いので、代用として竹やトーネット(いわゆる、プラスチック)が使われていたが……当然ながら、品質はメーカーごとに大きく異なっていた。


 無いよりは有る方がマシとはいえ、合奏させようにも音階も音程も根本的に合わせられない楽器を使わせるのは、如何なものか。


 それに、竹は自然由来の素材、トーネットは軽いけど質のムラが大きく、また、それよりも他の事に……という理由から、後回しにされていた。



 ……そうして、だ。



 そんな経緯の果てに、徐々に日本の経済が持ち直し、少しずつ他のところへ目を向けられるようになった……現在。


 ついに、千賀子の通う学校にもリコーダーが導入され、まずは5年生以上にと各自にリコーダーが贈呈されたわけだが……凄い事になった。


 具体的には、受け取った生徒たちが滅茶苦茶喜んだのだ。


 それはもう狂喜乱舞という言葉が似合うほどで、昼休みだろうが放課後だろうが、ぷーぷか吹き鳴らす生徒が続出したのだ。



 まあ、当時の日本の状況を考えれば、この時の生徒たちが喜び跳ねるのも無理はない。



 何故なら、経済成長期にあるとはいえ、まだまだ貧しい暮らしの中に居る人たちは多い。


 着ている物もそうだが、使う道具もお下がりだったり中古品だったりで、衣服などの生活必需品を除けば、本当の意味で私物と呼べるモノを持っている生徒は多くなかった。


 そんな中で……千賀子たちに配られたのは、木製のリコーダー。ポッと出て来て与えられた、自分だけのリコーダー。


 品質がどうとか、そんなのは関係ない。


 お下がりでも中古品でもない、自分に与えられた新品。


 ましてや、娯楽用品に飢えた子どもたちにとって、それはキラキラと輝く宝物。現代基準から見れば安っぽいモノでも、変わらない。


 ただただ校歌と国歌と、すっかり歌い慣れた歌を繰り返し練習するだけの音楽の授業が、パッときらびやかなモノになったわけである。


 ちなみに、この時にはもう現代と同じく樹脂製のリコーダーが販売されていたが、どうやら、千賀子たちが通う学校には木製の方が……さて、話を戻そう。



 リコーダーを与えられた千賀子たちは、そりゃあもうぷーぷか吹いた。



 家が裕福な道子も、千賀子の中身が大人であろうとも、関係ない。


 根本的に子供の娯楽そのものが少ない昭和中期。テレビもまだまだ大人向けが多く、子供向けはこれから……という時に、コレだ。


 千賀子からしても、己が如何に娯楽に飢えていたのかを実感した。


 おかげで、ぷーぷか、ぷーぷか、ぷーぷか……他の生徒たちと同じく、千賀子も二人と一緒にリコーダーを吹いて遊ぶのに夢中になったのであった。




 ……そんな、ある日。



 すっかり退屈とは無縁となった、音楽の授業。以前はやる気のない生徒も多かったが、リコーダーの登場により騒がしくなったこの頃。


 今日はうろ覚えな前世の曲をリコーダーで吹くぞと気合を入れて、真っ赤なランドセルから笛袋を取り出した千賀子は……おや、と違和感に首を傾げた。



 ……理由は、記憶にあるリコーダーの向きが変わっていた。裏側にして入れていたのが、表側になっていたのだ。



 記憶違い……いや、違う。内心、千賀子は首を横に振る。


 千賀子には、他人には話していない癖がある。


 それは、片付ける時は必ず決まった位置、決まった形で直さないと、ちょっとモヤモヤしてしまうというもの。


 以前からずっと商品陳列の手伝いやら何やらをしていたからこその、癖なのだろう。


 あるいは、『商売をする者ならば、道具は雑に扱うな』という両親からの教えがあったからこそなのだろうが……とにかく、だ。


 違和感を覚えた千賀子は、笛の状態を見やり……気付いた瞬間、ゾワゾワッと背筋に怖気が走ると共に、ヒッ、と思わず仰け反るようにして笛を遠ざけてしまった。



 ──いったい、どうして? 



 理由は……リコーダーの頭部管とうぶかん(口を付けるところから、穴がある手前)が、己の使っていたやつではなくなっていたからだ。


 気付いたキッカケは、亀裂の有無だ。


 リコーダーの手入れ方法など知らない千賀子は、とりあえず熱湯に入れたら良いだろうと、定期的に熱湯に入れて消毒をしている。


 感覚的には、普段は水洗いしているけど、定期的に熱湯で洗えば水で落ちない汚れや菌とかも死ぬよね……といった感じだ。


 これまではなんともなかったのだが、先日、小さな亀裂が入ってしまった。原因は、熱湯による急激な温度変化。


 幸いにも音に異常はなく、注意深く見なければ分からない程度の小さな亀裂だった。


 ただ、教師にバレてしまうと怒られてしまうかもしれない。なので、指摘されるまでは家族にも黙っていたが……その亀裂が、このリコーダーにはないのだ。



(……名前は、ちゃんとそのまま。じゃあ、口を付ける上の部分だけ……すり替えられている?)



 ゾゾゾ~っ、と。


 徐々に状況が頭に浸みこむにつれて、背筋を走る怖気と嫌悪感が跳ね上がってゆく。



(え? いつ? いつすり替えられた? え、いや、毎回持ち帰っているわけじゃないけど……その時か? その時にすり替えられたのか!?)



 反射的にリコーダーを投げ捨てたくなったが、こんな場所でそんなことをすれば、教師から怒られるのは確実に己である。


 加えて、笛の頭の部分がすり替えられた云々を教師に訴えても……おそらく、犯人は見つからないだろう。


 だって、目印は、目を凝らしてようやくわかる小さな傷だ。親にも友人にも、傷の事は教えていない。


 加えて、このクラスで傷が何一つ無いリコーダーを持っている者はそう多くはない。


 用途目的外の遊び方をしている男子が相当数いるだろうし、実際に何度か目撃していた。


 女子だって手入れの方法なんて知らないから、似たような傷が出来ている可能性もある。というか、もしもすり替えたのが女子なら……ぶっちゃけ、表沙汰にしたくない。


 前世の記憶とは別に、伊達に女として10年以上生きたわけではない。


 子供とはいえ、女特有のいやらしさ、同調圧力にも似た無意識の行動を何度か垣間見たことがあるからこそ。


 下手な対応を取れば、思いもよらない方向、後に引くかもしれない……そう、千賀子は思った。



(……なんか前よりも当たりがキツくなったような気がする女教師もいるしなあ)



 それは、『天使の微笑』による影響なのかは、はっきりとは断定出来ない。とりあえず、男の教師からは……ん~、どうだろうか。


 音楽の先生(女)は今のところそのようには感じないが、何かあった時、中立どころか敵に回りそうな教師の顔を思い浮かべた千賀子は……一つため息を零すと、手を挙げた。



「先生」

「あら、秋山さん、どうしたの?」



 授業中ではあるが、まだ授業が始まる前。喧騒の最中だが、手を挙げるという行為に素早く気付いた先生が近寄って来る。



「その、お腹痛いので、保健室行っていいですか?」

「保健室?」



 便所ではなくて……おそらく、そう思ったのだろう。


 首を傾げる先生に、千賀子は……あえて腹部ではなく、下腹の辺りを先生に見えるよう指差した。



「なんか、変な感じがして……」

「え……あ、ああ、そう。それじゃあ、少し横になってきなさい。1人で行けるかしら?」

「大丈夫です」



 チラリと、先生は千賀子の下腹部へと視線を向ける。それだけで色々と都合よく察してくれた先生は、それ以上は言わなかった。


 正直……この手はあまり使いたくない。


 まだ両親を心配させてしまうし、嘘である。


 しかし、このままだと、誰のか分からないリコーダーへの間接キッスが待っている。


 下手に大事にしたくはないが、かといって、間接キッスも避けたい……これ以外の方法を、千賀子は思い付けなかった。



「千賀子、大丈夫?」

「ちょっと気持ち悪いだけだから、心配しないで」



 事情を知らない明美と道子から心配され、申し訳ない気持ちになるが……どうしようもない。



(とはいえ、どうしたものか……教師に言ったところで、問題が解決するどころか形だけの注意で終わりそうな気もするしなあ……)



 2人へ軽く手を振ってから教室を出た千賀子は……下腹部ではなく、胃の辺りを抑えながら……とりあえず、気を落ち着かせるために保健室へと向かうのであった。




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