君と朝まで

ゆーすでん

君と朝まで


鳥羽 真希の場合


ただいま、午後八時三十分。

さて、夕食に何を食べようかと冷蔵庫の作り置きを漁る。

今日は疲れた。

大きな決断を、会社に報告した。

この時の私は、このあと再び一大決心をすることになろうとは、

夢にも思っていない。


何となくお湯を溜めるのが面倒になり、シャワーだけですませた。

化粧も落とし、気の緩んだおばさんを驚かせる、会社の後輩からの

突然の電話。

「多田君、どうしたの? 

 今、出張中でしょ?

 商談、上手くいった?」

「相談というか、悩んでることがあって…。

 鳥羽先輩、今から、部屋に行ってもいいですか?」

「はあっ!? もう、無理でしょ。」

「戻って来たんです。話したくて、どうしても。」

「戻ってきた?! 出張先から?

 いやいやいや、明日も仕事だし。電話じゃ、駄目なの?」

それにしても、急にどうしたことか。

こんな事を言うような子じゃないのに。

思ってもみなかった展開に、一人で焦る。

電話の向こうの後輩は、こちらをよそに黙っている。

多田君は人当たりが良くて人気者なのに、周りには目もくれず、

何故か私に懐いていた。

ずっと、一人だと思っていた自分にこの場所に居てもいいのかなと

思わせてくれたのは、多田君だった。

挨拶するだけで、笑顔になる。

彼との会話が、楽しくて、嬉しくて。

年も離れているのに、何故か安心した。

彼の笑顔に、何度も救われたのは秘密。


いや、今はそんな事どうでもいい。

普段は明るい性格だから、心配になる。

「今日はもう遅いから、とりあえず家に帰って落ち着いたら? 

 それからでも話聞くから。」

相変わらず、後輩は黙ったままだ。

「多田君?」

「今、〇〇駅にいます。」

「え? うちの近くじゃない。」

「はい。」

と、だけ答える多田君は、また黙った。

どうしよう、可愛い後輩が何やら悩んでいるらしい。

とはいえ、男性だ。

軽々しく部屋に入れるのも、どうなのか。

「お願いです。直接話がしたいです。」

『だが、しかし』と部屋の中を、右へ、左へ歩き回っていると、

突然激しい雨が窓を叩いた。

思わず、口に出た。

「わかった。迎えに行くから、目の前にあるコンビニで待っていて。」

「でも、夜中に危ないです。」

「すぐそばだから。いったん切るよ。」

カーディガンを羽織り、財布とスマホをポケットに入れて、

二本の傘を手に部屋を飛び出す。


駅前までは、徒歩五分。

斜めに降る雨に傘を差しながら早足で進む。

歳には勝てず、数分の早足で息が上がった頃、駅前のコンビニに

たどり着いた。

中を覗くも、外からは姿が見えない。

小脇に一本挟み、傘を畳みつつ入り口前で大きく一呼吸して、

自動ドアをくぐる。

入店音とともに「いらっしゃいませ」と、けだるそうな店員の挨拶が

聞こえてくる。

店内を進むと、多田君はアルコール類が並ぶ冷蔵庫の前に立っていた。

「多田君。」

声を掛けると、やはりいつもとは違う表情で振り向いた。

なんだろう、物凄く落ち込んでいるように見える。

「急にどうしたの? 何かあった? 

 元気ないけど…。」

「鳥羽先輩。俺が払うので。

 酒、付き合ってもらえませんか。」

「ん? 今から?」

黙ったままの後輩を見上げれば、大きな瞳に涙を滲ませながら私を

見下ろしていて、驚きで言葉が詰まる。

これは、本気で何かあったなと勘ぐると同時に、

連れて帰るしかないと腹を括る。

しかも、酒が入って長い話になりそうだ。

て、ことは部屋に泊まるのか。

なんてこった。

え、これ、大丈夫?

とはいえ、話を聞いてあげられるのも、これが最後かもしれないな。

なら、じっくりと聞こう。

「わかった。部屋においで、話を聞くから。

あ、でもほどほどにしておこうね。

明日があるから。

出張だったなら、着替えはあるね?」

微笑んで、大き目のカバンを持ち上げながら「大丈夫です。」

と小声ながら言う後輩。

少し力が戻った様子に、胸を撫で下ろす。

角に積み上げられたカゴをとり、それぞれお酒の缶を選んで入れていく。

つまみも適当にカゴへ。

多田君が財布を取りだそうとモゾモゾしているうちに、

レジへ走って会計を済ませる。

「俺が払うって言ったのに。」

「後輩に奢らせるわけには、いかないの。」

と、言い合いながら店を出ると、まだ少しだけ雨が降り続いている。

「なんで、二本も傘持ってきたんですか? 二人で入ればいいのに。」

「今、何て言った?!

 いやいや、そんな大きな荷物あったら二人で入れないでしょうが。」

傘を並べて夜中に後輩と言い合いをするなんて、誰が想像できただろう。

何だろう、楽しい。

多田君と話している時は、何故か楽しくて心が浮き立つ。

年甲斐もなく、はしゃぎそうな自分を、慌てて律する。

自分は、彼の元指導係で、先輩なのだ。 

そんなこんなであっという間に部屋に着いてしまった。


鍵を開け、ちょっと待つように伝える。

お風呂を沸かす準備をし、一応部屋の中を見渡し、

もう一度自分を落ち着かせた。

中に招き入れると、多田君は緊張した面持ちで入ってきた。

そりゃ、緊張するよねぇ。

私も、緊張してるもん。

何話してくるのか気になってしょうがない。

リビングへ移動しながら、

「そういえば、お腹空いてない?

 おうどんでも食べる?

 私、夕食まだなん…」

言い終わる前に多田君のお腹が『ぐう~』と、鳴った。

二人で顔を見合わせ噴き出す。

多田君が笑って、また安心する。

ひとしきり笑い終えると、お風呂が沸いたと音声が流れる。

「え、風呂の準備してくれたんですか。」

「出張で疲れたでしょ。

 入っている間に、ご飯の準備しておくね。

 ゆっくり入っておいで。

 後で、タオル出しておくから。」

「じゃぁ、お言葉に甘えます。」

着替えを手に脱衣所へ消えた多田君の耳が少し赤い気がしたけれど、

気にせず新品のバスタオルを取りに行く。

脱衣所をノックしてドアを開け、棚にタオルを置く。

傍らに綺麗に畳まれたワイシャツやスラックス類が見える。

ちゃんとしているなあと、感心してしまう。

「タオル、置いておくね。」

すりガラスの向こうから、

「ありがとうございます。」

と、多田君の声が聞こえてくる。

さ、うどんの準備をしなくては。

鶏肉とかき玉のうどんにしよう。

あとは、作り置きのおかずたちを少しずつ小鉢に入れて出すことにする。


バタバタと動いているうちに、多田君がお風呂からあがってきた。

少し上気して赤くなった頬が可愛らしくて、ドキリとしてしまう。

「温まりました。ありがとうございます。」

「あ、シャツとスラックス皺になるよね。ハンガーこれ使って。」

「すみません。なんか、色々…。」

何を今更と思いながら、

「もうすぐ出来るから、そこ座っていて。

 ビール、先に飲んでたら? グラスと一緒に、冷やしてあるから。」

「いえ、出来上がるまで待ちます。」

そう言うと、やはり元気なさげにテーブルの前に座った。

小鉢をそれぞれのランチョンマットに並べ、うどんを運ぶと、

「美味そう」とうれしそうに呟いている。

「「いただきます」」

二人して、お腹が空いていた。

「はふはふ」言いながら、無言で食べた。

少しとろみをつけた汁を飛ばし、多田君が頬を膨らませながら咀嚼している。

目線が合えば、二人して笑いあう。

無言さえ、多田君となら気にならなかった。

『美味しいな。』

心の中の私が、嬉しそうにしている。

いつも一人だけの食事の虚しさを、今だけは忘れられる。

今まで生きてきた人生、子供の頃も、結婚生活でも、いつも一人だった。

一瞬の幸せを、感じてしまった。

急に、怖くなる。

私は、先輩で、多田君は後輩。

悟られない様に、小さく深呼吸をして、心の中の自分を感じない様、蓋をした。


食欲が満たされた。

さて、次はどうする?

グラスにビールを注いで、お互い手に持つと『おつかれさまです』と

グラスを合わせ、くいと飲む。

さあ、ここからが本番だ。

彼に、一体何があったのか。

「えーっと、今日って何。

 何か、出張先でとんぼ返りしなきゃいけないようなことでもあったの?」

「いいえ。」

「ん? 何か失敗やらかしたとか?」

「いいえ、むしろ出張は上手くいきました。

 思った以上に契約取れたので、それで泊らずに帰って来られたんです。」

「え、あそうなの? それは良かった。

 じゃあ、明日の朝は田所さんもいるのね?」

「田所さんの事は分かりません。

 出張先から、俺一人で帰ってきました。」

「え…、それって置いてきたって事?」

「はい。」

「うわぁ。なんか、明日大変そう。」

「何が、ですか?」

思わず、テーブルに突っ伏してしまう。

多田君は、きょとんと小首を傾げている。

多田君、君は確かに大変な事をやらかしているよ。

同期入社で、多田と田所。

社内での呼び名は、TTコンビ。

皆、ダサいと笑いながら、見守っていた。

田所さんは、多田君の事を狙っている。

数日前から、何故か私に、『多田君と泊まりで出張行ってきます』と、

一生懸命アピールしていた。

いや、好きなのは知ってますよ。

しかも、お似合いだなと思っていた。

これは、荒れる予感しかしない。

ん? では、多田君は何に悩んでいる?

「ええと、じゃあ、悩みって何?」

「会社辞めて、独立するんですよね。

 それなら、俺も連れて行って下さい!」

「は?! 独立の話、何で知ってるの?」

「朝、会社に寄ってから出張に出たんですけど、その頃には噂になってましたよ。」

「へ~、そうなんだ。へ~…。」

朝の人もまばらなうちに部長に伝えていたつもりが、しっかり誰かの耳に

入ってしまった訳か。

独立の決断は、自分にとって一大決心だから伝えるのに必死だった。

噂になっている事すら、気付けなかった。

ため息をつき、壁の向こうを見てしまう。

「ん? ていうか、今。連れて行って下さいって、言った?」

「はい、真希さんに付いていきたいです。

 今後、真希さんが経営に専念するなら、他に営業の人間も居た方が

 都合がいいですよね?

 それが駄目なら、結婚してください。」

手をぎゅっと握られ、お互いの顔が十センチ位までの距離まで詰められる。

おーい、ちょっと待って? 頭が、追い付かんぞ。

まず、しれっと下の名前で呼ばれたなあ。

次に、結婚してください? 

いやいや、こっちはバツイチだよ。

いきなり、バツイチのおばはんが相手だなんて知ったら、

ご両親泣いちゃうよ?

それから、この距離近すぎでしょう。

近い、近すぎる。心臓がもたない。

「あ、あの、多田君。近すぎる。一旦離れて、落ち着こうか。」

「嫌です。真希さん、俺の事見て下さい。」

「多田君。あのさ、私の事…。」

「はい、好きです。真希さんが好きです。」

ひぃぃぃぃ。

そんな事、言っちゃいますか。

思わず顔を引いたのに、また詰められる。

「多田君。正直、これじゃ落ち着けない。

 ちゃんと話をする為にも、離れよう?」

「わかりました。」

明らかに納得していない様子で、顔だけは離れた。

手は、未だに離れない。

これは、長くなるぞ。

もしや、朝まで?

さてさて、何からどう話そうか。

空いている手で、ビールを一口飲む。

その間も、多田君はじっと見つめたまま。

さて、まずは一番の疑問から解消しよう。

「そもそも、どうして私?

 バツイチの冴えないおばはんだよ?」

「真希さんは、おばはんじゃありません。

 社会人としても、一人の人間としても、そして、

 一人の女性としても、魅力的です。

 それに、仕事も出来て尊敬しかない。

 俺は、ずっと、真希さんに憧れています。

 ずっと、真希さんの事を見てきました。

 真希さんは、自分の事を卑下しすぎです。

 なのに、すぐ『自分はポンコツだから』とか言うから、

 俺の方が辛くなります。」

おっと、そんな事言ってくれるんですか。

でも、自分がそう思得ないからこそ、その言葉が納得できない。


父と母、姉そして私の四人家族。

家族という温かさを、私は知らない。

経済力での、豊かさはあったと思う。

優しいながらも転勤族の父は、ほぼ不在。 

それが、当たり前。

住み慣れた土地を離れる事を嫌がった母は、寂しさからか、

長女という理由か。

年の離れた姉に執着していた。

姉は美人でスタイルも良く、頭も良かった。

姉を何とかして有名大学に入れて、官僚か大手の会社に就職させるのが、

母の夢。

朝から晩まで、自分が立てたスケジュールに姉を従わせる生活。

食事の準備などは、全て姉が最優先で、私はいつも独りぼっちだった。

どんなに勉強を頑張っても、どんなに家の手伝いをしても、

認められる事は無い。

『どうしてこんなことも出来ないの。

 お姉ちゃんを見習いなさい。

 あんたを産んで、損したわ。』

事ある毎に、母に言われた言葉。

姉は、そう言われている私を、ドアの隙間から見て笑っていた。

恐らく姉は、母の言葉を聞いて自尊心を保っていたのだろう。

まさに、見下すという言葉がぴったりの表情だった。

それでも、何とか笑顔でいられたのは、姉と違う学校に

通っていられたからだと思う。

姉は小学校から私立の有名校に入学し、私は市立の小学校に入学した。

友達も出来たし、学校に行けば楽しかった。

ある意味、私には自由があった。

それでも、やはり家族の話になり、姉の話題が持ち上がると、

皆不思議そうにした。

『どうして、真希ちゃんは違うの?』

無邪気な疑問に何度も傷ついた。

私は、美人でも秀才でもない。

姉との違いについて、揶揄う人たちも居たには居たが、

そんな事気にせず接してくれる友達もいて、遊ぶ楽しさも知った。

中学・高校は、いわゆる青春というものを経験できたと思う。

家事を続けることと、成績だけは落とさないようにした。

そうしなければ、前より酷くなった母の暴言に耐えられないから。

母は、姉に相変わらずべったりで、付き合う友人にも口を出していた。

結果、姉は最初こそちやほやされていたものの、中学校の頃から

孤立していった様だ。

相変わらず母の暴言は続いていたが、その様子を見る姉は、

むしろ羨ましそうだった。

大学に入学すると、バイトを始め貯金に精を出した。

気に掛けられていない分、休日も朝早くから夜遅くまでバイトが出来る。

夜遅く帰っても、何も言われない代わりに、閉まりきっていないドアを覗くと、

母に『貴女は凄いのよ。』と言われ、椅子の上でぐったりと膝を抱える

姉の姿をたまに見るだけ。

その光景は、今考えれば地獄だった。


大学卒業を控え、一度だけ官僚の姉と遭遇した。

何処の官庁だったかなんて、覚えてない。

卒論の確認を終えて、教授からもお褒めをいただいた。

就職先も、しっかり内定を頂けた。

やっと、自分の時間が出来るかも。 

なんて、のほほんと玄関に居た時、玄関が開いて、姉と出くわした。

「お姉ちゃん。あ、未来(みく)さん。お帰りなさい。」

母から、姉を呼ぶときは、未来さんと、呼ぶようにと言われていた。

呼ぶような事なんて、無かった。

いつも、勉強を強いられている背中しか見た事が無かったから。

母は、眠っている。

明日、早く起きて、朝食を作らなきゃと言っていた。

夜遅く帰る、姉の為に。

「ただいま、遅くまで起きているのね。」

「卒論が片付いたから、出来てなかった家事とかしてたら、

 こんな時間に。

 今日も、遅かったですね。毎日、お疲れ様です。」

「やめて。」

「え?」

「敬語。」

「でも…。」

「お母さんの言葉に、従わないで。」

「そうはいきません。だって、」

「お願い。今だけ。」

驚いた。姉が、泣いている。

「…お姉ちゃん。」

昔の様な、あの見下す視線はもう無い。

化粧が落ちるのも構わずぼろぼろと流れる大粒の涙を、そっと拭う。

何故だろう。どうして、この人が泣く?

嫌いになりかけた事だってある。

でも、姉に嫌な事をされた事は、ただの一度も無い。

「頑張ってるね。大丈夫だよ。」

歳の離れた姉を抱きしめ、頭を撫でた。

堪える様な泣き顔から、一気に幼子の様な号泣に代わる様を初めて見た。

姉の泣き声が聞こえない様に、二階を伺いながら居間へ連れていく。

この声を、絶対に母に聞かれない様に。

ソファーの前で崩れ落ちた姉に、置いてあったブランケットを

頭から被せて抱きしめる。

咳を切ったように、くぐもった泣き声が聞こえてくる。

本当は、もっと叫びたいだろうに。

ブランケットの上から姉を抱きしめながら、鎖に繋がれる人生を思った。

暫くして、泣き止んだ姉が小さな声で、

「お腹、すいた。」

と、呟いた。

咄嗟に、明日の朝食用に残しておいた冷蔵庫の冷ご飯を思い出す。

「おにぎりで、いい?」

腕の中で、こくんと頭が動いた。

「分かった。すぐに準備するね。」

ブランケットを浅く被り、気恥ずかしそうにしている姉にそう言い、

台所へ向かう。

手をまず洗って、深呼吸を一つ。

冷ご飯が入ったタッパーを冷蔵庫から取り出し、蓋をずらしてレンジへ。

温めている間に、ケトルで湯を沸かし、具材にする梅干しの種を取り除き、

刻みながら少し練って鰹節と混ぜ合わせる。

真四角の海苔を巻きやすい大きさにハサミでカットすれば、準備は完了。

ご飯が温まったら、掌を少し濡らしてお塩を少し付けて梅と共にご飯を握る。

小さめのおにぎり四つをテーブルへ。

湯が沸き、お椀を二つ用意しインスタントのお味噌汁に湯を注ぐ。

あらかじめ刻んで冷凍しておいたネギを少量ずつお椀に散らせた。

ケトルを戻して振り返ると、ダイニングテーブルの前でひっそりと待つ姉の姿。

「お姉ちゃん。出来たよ。一緒に食べよう。」

向かい合う様にダイニングチェアに座り、『いただきます』と手を合わせる。

ゆっくりとおにぎりに噛り付き、見た事もない笑顔の姉。

味噌汁を啜りながら、その光景に見入る。

「作ってくれて、ありがとう。美味しい。

 お母さんのより、何倍も美味しい。」

おにぎりは、結局姉が四つ全て食べた。

姉妹の遣り取りは、あの時が最初で最後だった。


大学卒業後、実家から逃げる様に家を出て、社会人となった。

営業職は、遣り甲斐があって、辛いことも多かったが楽しかった。

社会人になって数年が経ち、無理矢理連れていかれた飲み会。

そこで出会った人の、優しい言葉につられて結婚した。

けれど、お互い仕事が忙しく、休日ですら顔を見る事はほぼ無かった。

それに、自分以上に私が稼いでいる事実が、彼のプライドを傷つけたらしい。

夫の不倫が発覚し、結婚二年で離婚。

離婚が成立した時、

「なんで、こんなつまんない女と結婚したんだろうな。

 何の取柄もない、仕事しか出来ない女。」

そうか、私は、仕事をする事は出来るんだ。

なら、私は、今の仕事に邁進するだけだ。


そうして、私は一人を生きていた。

離婚後何年かして、唯一私の連絡先を知る父から連絡があった。

そこで、知らされた事。

姉が、勤めていた官庁を突然辞めて家から出て行き連絡がつかない、

だとか。

それを機に母が、私と連絡を取りたがっているとか。

父が定年退職したのを機に家に戻った事が、

きっかけになったようだった。

父は、今まで聞いた事のないような厳しい声をしていた。

父だけは、いつも私の味方だった。

でも、これは、私に何とかしろという事かと思いそうになった時、

『お前は、ずっと苦労してきた。

 辛い思いをさせてすまない。

 これは、私が見て見ぬふりをした代償だ。

 お前は、お前の道を歩きなさい。

 こんな話をしてしまったが、お前が気にすることは何もない。

 絶対に、お前には母さんを、近づけさせないから。

 真希。

 真希には、自由に生きる権利がある。

 何もしてやれずに、すまない。

 幸せになるんだよ。』

そう言って、父は電話を切った。

 

それからすぐ、多田君の指導係になり、何にもない自分に何ができるだろうと

靄を抱えながら、毎日を過ごすことになった。

ある日、いつもお世話になっている取引先の社長から相談があると

連絡があった。

自分の後を継がせる長男について。

以前から、噂は耳に入っていた。

先々代の社長の娘である奥様は、長男ばかりを可愛がっており、

次男を見る事は無い。

古い考えだとしても、やはり「長」が付くだけで特別な存在なのだ。

その長男は。素行がわるい。

若い頃から警察沙汰ギリギリの行動を起こしても、奥様が守ってしまう。

社員からも反発が大きかった様だが、先日社長に就任した。

案の定、社内は荒れだしているそうだ。

「こんなことを、君に相談するなんて、情けないんだが、

 どうしても聞いて欲しかった。

 君にも、強要しているんだろう?

 申し訳ない。あんな息子を世に出して…。」

「会長。頭をあげて下さい。それから、専務も。」

元社長の横で、深々と頭を下げている次男さんにも声を掛けた。

「兄の事、本当に申し訳ありません。」

やっと上げられた顔が、また見えなくなる。

「専務。もし、私がお兄さんを陥れても。

 あなたは、問題を抱えた会社の社長として、後を継ぐ意思はありますか。」

テーブルギリギリまで下げられた頭を保ったままの背中に語りかける。

背中の筋肉がぐっと固まり、すっと上がった瞳の奥には、

強い意志が見えた。

「はい。俺が、会社を引き継ぎます。」

「では、少しお時間をください。

 考えがあります。

 私の後輩を、守る事にもなりそうです。

 敢えて、何も言いません。

 本当に、いいんですね?」

父と息子は、目を合わせ頷いた後、

「「宜しく、お願いします。」」

と、再び頭を下げた。


私は、ある事を実行した。

そして、それは、成功した。

相手先の会社も、多田君も守ることが出来た。

先輩として、多田君にしてあげられたのは、本当にこれだけしかなかった。

彼の手を握り返す資格は、私には無い。

私より大きな手を、離そうとした。

「真希さん、私は駄目な人間だって、また思ってません?」

「え? あ、いや…。」

すっかり見透かされていて、正直怖い。

どんなに仕事をしようとも、出来るのが当たり前だと思うから、

周りが自分をどう思っているのかばかり気にしてしまう。

私が出来ているという事は、他の人も当たり前に出来る事なのだ。

だから、自信を持てなんて無理だ。

「真希さん、あなたがしてきたことは、凄い事ばかりなんですよ。

 あなたが居たから、今の俺が居る。

 あなたが、俺を守ってくれたから、今日、沢山の契約だって取れたんです。

 あなたが沢山の事を教えてくれたんです。

 だから、俺の為にも、自分を卑下しないで。

 俺は、真希さんと笑っていたい。

 俺と、ずっと、一緒に居て下さい。」

そうして、私は彼に抱きしめられた。

暖かくて、力強くて、思わず両腕を背中にまわす。

もっと力を込められて、自分の手にも力が入り、涙が溢れてくる。

『どうか、私を離さないで。』

まさか、駄目だ。そんな事は。素直な気持ちに焦ってしまった。

多田君のご両親だって、納得する訳ない。

そんな心に気づいたのか、

「真希さん、俺。

 両親に真希さんの事が好きだって話してあるんです。

 年上だって事も、バツイチだって事も。

 俺の両親も、母の方が年上なんです。

 二人とも、承知の上です。

 だから、俺は真希さんの事諦めません。

 絶対にね。」

「え…? むしろ、こわ…。」

何? 何なのこの用意周到な感じ。

なんか、嬉しいけど、引くわ…。

思わず引きつる顔。

「いや、嫌わないで。」

多田君が、慌てて私の頬に手を添えた。

さっきみたいに体が勝手に動くことは無い。

添えられた手の温もりが心地よくて、瞼を閉じてしまいそうになる。

右手を彼の左手に重ね、頬を寄せる。

そのまま、多田君を見つめた。

多田君の瞳が揺れて、喉仏が上下する。


私は、どうしたいんだろう。

私は、これから、どう生きていきたい?

私は、多田君と一緒に居たい。


「多田 紘一さん。

 私と、一緒にいてくれませんか?」

独立宣言に並ぶ、一大決心。

この素直な気持ちを、やっと伝えられた。

目の前には、大きな瞳を更に見開いたまま固まっている元後輩。

「そ…そ…」

「そ?」

「それって…そっ、それって…」

「うん。」

「俺と、結婚してくれるってことですか?!」

「うん。まあ、そういうことだね。

 ただ…」

「やったあああああああ!」

「ちょっと、いたい! くるし…」

「よおっしゃああああああ!」

「夜中に迷惑だから、大声出さないの!」

多田君の両腕にがっしりと抱きしめられて、腕やら肺やらが圧迫されている。

苦しいけれど、負けずに抱きしめ返す。

肩の上に顎を乗せて、目を閉じ、暫くその苦しさを感じることにした。

けれど、

「俺、明日。会社に退職願を提出しますね。」

の、言葉に、すっかり我に返った。

「いや、それは、絶対に駄目だから。」

多田君を慌てて引き剥がす。

「なんで、ですか? 俺、真希さんの居ない会社には居たくないです。」

「いや、最初に言ってたのと違ってない?

 そもそも、独立して、まともに会社が回るまで何年かかるか分からないんだよ?

 結婚だって、落ち着いてからがいいし。」

「結婚は、今だっていいじゃないですか。」

「うんん? ま、そうかもしれないけど。

 でも、安易に会社を辞めるのは駄目!

 二人して辞めて、路頭に迷うようなことは絶対にしちゃいけないの。」

「そうかも、しれないけど…。」

お互い、見つめ合ったまま時間が過ぎる。

何だか、このまま堂々巡りの話し合いに発展しそうだな。

けれど、ちゃんと話しておかないと。

「多田君、あのね?」

「その前に、俺と真希さんは、今、恋人だってことで間違いないですよね?」

「へ? あ、えと。」

「間違い、無いですよね。」

「うん。そうだよ。」

「分かりました。ふふっ、恋人。

 真希さん、俺、コンビニ行ってきます。」

「え? コンビニ? 今から?」

「はい、5分で戻るので待っていてください。

 大事なものを、買ってこないと。」

「大事なもの?」

「はい。恋人ならではの必需品です。」

「え? あ、ちょ…っと…」

私の恋人が、鞄から財布を掴み、物凄いスピードで玄関を出て行った。

玄関で、彼を待つ。

そうして、本当に5分程で戻ってきた彼。

「お、おかえりなさい。」

戻ってきた彼を、出迎える。

戸惑いながらも、嬉しくなる。

ふっと、微笑んだ多田君。

荒い息をしながら右手で私を抱き寄せた、彼の左手に握られていたもの。

「真希さん。これからの事は、二人でちゃんと話し合いましょう。

 でも、その前に恋人なんだから、コレ使ってもいいですよね。」

「え? これって。」

「はい。恋人たちの必需品。スキンです。」

眩しい笑顔に目をやられそうになりながらも、何故か愛しい気持ちが

どんどん大きくなっていく。

「多田君。」

「紘一。真希さん、俺、紘一。」

「こういち。これから、宜しくね。」

「はい、宜しくお願いします。」

どちらともなく、唇を重ねる。

体も、心も温かくて、苦しくて。

生まれてきて良かったと、初めて思えた。

 

ちゃんと話し合うと言いながら、目が覚めると次の日の朝になっていた。

時計を見れば、午前六時二十九分。

いつもの習慣とは、恐ろしいものだ。

後ろから聞こえる寝息を邪魔しない様、目覚ましを止め、

ゆっくりと抜け出そうとしたが叶わなかった。

ゆっくりと伸びてきた長い腕に、しっかりと後ろからホールドされてしまった。

「真希さん。今日、有休取りましょう?

 明日は、土曜だし。二人の今後のプランを話し合う為に。」

「起きてたの? 

 昨日の契約の件とか報告があるでしょ。」

「それなら、昨日メールで報告もしてあるし、仮契約書なら、

 田所に渡してあります。

 問題ありません。」

昨日も思ったが、怖すぎる。

これから、私はこの用意周到な恋人と一生を過ごしていくわけか。

恐怖を通り越して、何故か笑ってしまう。

「ん? 真希さん、何で笑ってるの?

 こっち向いて、顔見せて。」

「やだよ。恥ずかしい。」

「それなら、こうだ。」

微かに音を立てながら、首筋や肩、背中にかけて満遍なくキスの雨が降っていく。

どう足掻いても、勝てそうにない。

仕方ない、負けを認めよう。

朝までのつもりが、ずっとに変わった。

自分から体勢を変えて、向き合う。

「分かったよ。大好き。」

こんな風に、何度も迎えよう。

君と、愛おしい朝を。

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