29. Comin' Thro' the Rye
*
金色の麦の穂が一面に広がっていた。
その頃はまだ、国境沿いの戦闘が主で、首都への攻撃はそう多くなかった。
育成組織の施設は首都からほど近いところにあり、宿舎も施設内にあった。
宿舎の裏手2kmのところに、ライ麦の畑があった。何代か前からそこで、農業をしていたらしい。
畑面積はそう大きくなく、老婆が細々と手入れしていた。
収穫期になると金色の麦の穂が風に靡く。
その様は、素直に美しいと思っていた。
訓練が早く終わった日の、夕食までの少しの時間。その畑まで行って、片隅で
穂をつけたライ麦は、自分の背丈より遥かに高く思えた。あの頃の自分はそれくらい、ちっぽけで、何も知らない子供だった。
「これからいっぱい金を稼いでさ。投資とかして、どんどん増やして土地を買う。占領するんじゃなくて、正式に手続きを踏んで、所有権を持つ」
狐と名がつく前の、口から生まれたのではないかと思うほど喋りまくる少年は、チョコバーのパッケージを破りながら、自分に言う。
「そうやって、クルネキシアにも、リエハラシアにも手を出されない聖域みたいな場所を作れたらいいなって思うんだよ」
この話をしたのは、まだ育成組織の『
「まず最初に教会、学校と病院を建てる。そういう場所はさ、気楽に攻撃できないじゃん?」
「それは、なんとも言えない」
狐が言うことに頷いてやりたかった。だが、現実はそうはいかない。
自分たちが少年兵として駆り出されていた現場では、そういう場所こそ狙われた。
リエハラシア・クルネキシア双方とも、医療機関や教会、学校を対象にした攻撃は日常茶飯事。
「俺とお前で協力して、クルネキシアもリエハラシアも手を出せない、独立した州を作って。そしたら今より、きっといい」
自分より年上の狐は、やたらと知識が豊富だった。聞いているだけで学びになる話が、たまにはあった。
狐は、リエハラシアにもクルネキシアにも属さない独立州を作り、双方からの攻撃を受けない中立した地域として存在させたいのだという。
それを口の端にチョコレートをつけて、熱心に喋る姿は間抜けだったが。
狐の、夢みたいな話を聞いている自分は、好きではないフレーバーのキャンディを口に入れ、なんとも言えない気分になっていた。
「その土地を買うにはいくら要る?」
少年兵たちは、衣食住を確保される代わりに、お小遣い程度の給料しか払われない。
「そうだなぁ……3億? いや、10億?」
「さすがに無理すぎる」
狐が半笑いで答えた金額は、正確なシミュレーションで出た金額ではないにしろ、自分たちが手に入れるには気が遠くなる。
今なら、口にすらしない馬鹿げた話。
子供だったから、そんな夢を見た。
*
あの時のライ麦の穂よりも、背丈が伸びた頃。
金色の穂が揺れる畑は、もうなかった。
畑があった敷地は更地になり、有刺鉄線が張り巡らされていた。有刺鉄線には、国所有地と書かれた看板が貼られていた。
畑を管理していた老婆は、一年前から見かけなくなった。一年前、首都を狙った大規模な空爆があった。
それで死んでしまったのかもしれない。はたまた、命からがら逃げ出し、親戚の元に身を寄せているのかもしれない。後者であってほしいと思った。
自分たちが菓子を隠れて食べていた場所は、有刺鉄線の柵の内側になっている。それを眺めながら、煙草をふかしていた。
自分たちは相変わらず、そこで時間を潰していた。だが、ここに集まるのは、小さい子供の頃と違い、任務についての話をするためにだった。
この時も、狐は地面に作戦内容の案を指先で書いて説明した後だった。
狐は煙草を吸わなかった。自分が吸い出すと、煙たそうに距離を取り、柵の周りをうろうろと歩いたりした。
「あーぁ。この土地も麻薬工場になっちゃうね」
有刺鉄線の、棘がないところに手をかけ、狐は呆れたように笑っていた。
戦況が激化する中、国は輸出で外貨を稼ごうとした。
農産、畜産は自国分で精一杯で、輸出など到底できるはずがない。
この国でできたことは、主人のいなくなった農地に、麻薬を精製する工場を作るというもの。
そうして、兵士の適性がなかった大人や子供に、仕事が生まれた。国には、人々に賃金を払う余裕ができた。
狐と自分は、その頃には『六匹の猟犬』に加入していた。
給料と階級は跳ね上がった。
だが、目の前の更地がライ麦畑だった頃に話していた夢物語は、話題に上らなかった。
戦時に、誰も攻めてこない土地など存在しないのだと、身をもって知ったからだ。
とはいえ、
「どっかの島でも買おうかなぁ? のんびりリタイア後の暮らしのために」
「死なずにリタイアできた時に考えた方がいい」
自分たちが死なずにリタイアできるとは、思えなかった。
増やした金を使う機会もないまま、脳漿を撒き散らして地面を汚す、そんな身汚い死に様しか思い浮かばない。
「そりゃそうだ」
狐は手を叩いて笑った。
*
麻薬精製工場を仕切る高い塀。
夜中に宿舎を抜け出し、ここに来ていた。狐に呼び出されたからだ。
空には星が輝いている。月は新月で、塀に取り付けられた電灯の灯りが地面を照らしていた。
自分は塀の真下、電灯が当たらない場所に座り込み、煙草を吸っていた。
狐はその隣で、腫れ上がって変色した顔に氷嚢を当てている。
殴る蹴るの暴行を受けたというから、わざわざ
「何があった」
情報収集のために標的と関係を持つのは、この男にとっては当たり前で、そのせいでよくトラブルに見舞われていた。
「外務大臣の愛人と寝てたら、そこに外務大臣が現れて、ボッコボコにされた」
今の外務大臣は、クルネキシアと繋がっていると噂のある政治家の一人だった。その調査を担当していたのが、狐。
「お前の自業自得じゃねぇか」
狐の調査の脇が甘くて、暴行を受けただけの話。聞いて損した、と思った。
殴られた時に切れた傷から血が溢れてくるのか、狐は血の混じった唾を吐き出した。
「政治家どもがクルネキシアに尻尾を振り始めた。この先、この国は必ず滅びるよ」
この頃から、狐はリエハラシアが死に体だと言い始めた。
狐が、任務で入手した情報から裏付けされた事実に、自分は真っ向から否定できなかった。
麻薬の精製と、精製した麻薬を納入して金を稼ぐしかない国に、とても
では何のために、自分たちは命懸けで任務にあたるのか。
「それでも、滅び方は選べる」
自分も、この国も、より良い死に方を、滅び方を模索しているだけだ。
「あーあ、早くリタイアして、のんびり暮らしたぁい」
狐は氷嚢を放り出し、地面に大の字になった。
ボロボロになった体で空を見上げ、狐はクスクスと笑い出す。
「俺たちは、死んでく国のために今日も明日も必死なんだなぁ」
狐がぼやくのも無理はない。無理はないが、それ以上に市民はもっと過酷だ。
民間人ができる防衛など、高が知れている。一度攻め入られたら、彼らにできる手段は多くない。
思い出したくないことを思い出し始めたせいで、吐き気がしてきた。口の中に唾が溜まってくる。
自分の記憶にはないのに、記憶としてインプットされているもの。
自分が赤ん坊の頃に預けられた孤児院。そこは、国境沿いの村にあった。
およそ25年前、その村はクルネキシアとの戦闘の最前線になった。
クルネキシアは、村にいた老人たちを殺し、子供は人質交渉の駒や兵士にするため、クルネキシアへ連れ去った。女は暴力で犯した。
だから、自分が孤児になった理由は、おおよそ見当がついている。
自分を産んだ親を無責任だと恨む時代は、とうに過ぎていた。
自分が引き金を引くのは、あの村で起きた出来事を繰り返させないためだ、と思うようにした。
「俺たちがやっていることは、この世で最も愚かで、無駄なんだろうな」
地面の上で、疲れた顔で笑い続ける狐の姿を眺めながら、煙草の火を消す。
「あっ流れ星だ!」
急に起き上がった狐は、空を仰いで指差す。
狐が指差す方向を見上げても、流れ星はもう、見えなかった。
*
銀色に見える薄い毛色と、黒い毛色が混ざったシェパード。この犬には、クレヴェラと名前がついていた。
穏和で従順な軍用犬だったから、自分に特別懐いていたわけではない。この犬は、相手が狐だろうと、同じ態度をしていたはずだ。
滅多になかったが、
この日も、クレヴェラを連れて散歩していた。周囲の匂いを嗅ぎ取りながら、注意深く歩く姿に、スピード感はない。
急に足取りが早くなったと思えば、クレヴェラは何かの意思を持って、ライ麦畑があった方向へ進んでいく。止める理由もなく、仕方なくついて行った。
視界に、自分の背丈を超えるコンクリートの塀が見えた。これは、麻薬精製工場を周りを取り囲む塀だ。
この景色に、記憶と感情が入り混じる。
無力な子供が見た、金色の穂の畑。
金はあれど手に入れられない、有刺鉄線に囲まれた土地。
記憶の中の景色は、灰色の塀がぴったりと塞いでしまった。
理想に満ちた世界を作り出すために、まだ何かできたのではないか、とどこか未練がましく思っている自分を、捨てきれないのだろう。
クレヴェラは塀に向かって、吠え始めた。
きっと、麻薬探知犬としても有能な犬なのかもしれない。
「お前は偉い」
屈んで撫でてやったが、それよりも塀の向こうが気になるクレヴェラは、落ち着きなくうろちょろしては、塀に近寄ろうとする。
「お前は偉いんだよ」
クレヴェラを抱き上げ、塀から離す。自分の肩から顔を出すと、なおも吠えようとしているクレヴェラの背中を撫でてやった。
*
ライ麦畑から麻薬精製工場に変わった土地に、わざわざ出向かなくなった。
その代わりと言っては何だが、よく行く場所ができた。
訓練所と宿舎の間の通路の隅に、喫煙所。
もとはなかったのだが、ある教官が廃材を集めて、喫煙所を自作したのだ。
その喫煙所を作ったのが、
「お前さぁ、この前の任務のアレ、良くない」
この国では珍しいアジア人。サハラだった。
使用言語は
「この前の任務のアレ、とは具体的にどれですか」
顔を合わせれば小言を言われるか、うざったい絡み方をされるので面倒な相手だった。
「んなこと言って。自分が一番わかってるだろうに」
サハラが煙草を咥えながら、くぐもった声で言う。
訓練所のグラウンドでは、ライ麦畑で菓子を隠れ食いしていた頃の自分と同じくらいの歳の子供が、隊列を組んで走り回っていた。
「建物に隠れてた子供を逃がすために、わざと時間稼ぎしたんだろ? いずれ、生き残ったガキらが俺たちに牙を剥くようになるのに」
サハラが言っているのは、国境沿いの町にある、クルネキシア国境警備隊の本部への突入作戦時の、自分の「ミス」についてだ。
銃撃戦の音に気づいた民家から、子供が顔を出していた。
敵が子供のいる方向へ行かないように、そして味方すら子供に近寄らないように、
任務完了報告の説明をしに行った時、味方には気づかれていなかったものの、サハラにバレていた。
かと言って、それを人前で指摘されはしなかった。
サハラの中には、見過ごせるラインがあるらしく、そのラインを超えなければ、見逃す。
部下である自分たちの行動を上層部に伝えるような無粋さはなかった。
ただし、このように直接、一対一になると、ねちねちと小言を言われた。
「お前はもうちょっと愛想があった方がいいよ。それだけで、多少は息がしやすくなるのに」
半ば呆れた様子で言い、サハラは煙草を灰皿で押し潰す。
「俺は、お前の技能を高く買ってるけど、それだけじゃ生きていけないって覚えておけ。
愛嬌の一つや二つ、持ってて損はしない」
いつもの説教臭さとは別次元の、癪に障るような態度に、舌打ちが出そうになった。煙草の煙を吸い込み、何とか堪える。
「これからはさ、人と仲良くなる時には、歌でも歌ってみろよ。少しは愛嬌あるって思ってもらえるから。
この前お前に歌わせた"My Funny Valentine"なんか、最高に面白かったよ?」
こちらはアルコールが一滴も飲めない体質だというのに、無理矢理連れて行かれた飲み会の名を冠した
今でも覚えている。
あんな屈辱は二度とない。
「ごめんね、そんなに怒ると思ってなかった」
苛立ちが殺気に変わっていたのか、サハラは申し訳なさそうに謝ってくる。
そうやって謝られるのもまた、屈辱だと知らないのかと。
「あ、そうだ。お前にやるよ。こういうの好きそうだ」「要らない」
サハラが、着ていた戦闘服の胸ポケットから何かを取り出しながら言ってくるのを、遮る。
サハラは困った顔でこちらを見る。
「ほれ、愛嬌があった方がいいって話したばっかりだろ?」
押し付けがましく差し出してきた手。その指先に摘まれているのは、メダイだった。
「エウスタキウスだっけ?
「死神じゃない。任務を遂行しているだけだと何回言えば」
渋々受け取りつつも、また死神と言われ、うんざりし、これよりもっときつい表現で言ったかもしれない。
正直なところ、先にこちらの気分を害したのはサハラなので、今でも悪いとは思っていない。
その時受け取ったメダイは、日本でフチノベ ミチルの手に渡った。
サハラは、死神という言葉に対するこちらの反論など聞いてないフリをして、新しい煙草に火をつけた。
「なぁ、お前は口が堅そうだから
今にして思えば、サハラは罪滅ぼしのつもりで、そう言ったのだろう。
この日、ここで話した直後、サハラは『ファラリス』とマイクロチップを持って、国から出て行ったのだから。
「バラしてはいけないから、国家最高機密なのでは」
何を言い出すつもりだろうと、身構えた。
聞いたところで幸せになれない内容なのは、薄々わかっていた。だが、サハラは言いたくてしょうがない様子で、こちらを見ている。
どんな人間も、表情より眼の方が雄弁だ。
「『ファラリス』は、お前らが思っているようなシステムじゃない」
自分も、燃え尽きかけた煙草を消し、新しい煙草に火をつけた。自然と眉根が寄った。
「この前死んだ博士」
ガイツィナロクナフ博士は、この1ヶ月前に自殺した。以来、『ファラリス』の研究開発はほとんどストップしている。
「『神の杖』の技術を、うちの国が東西に売り渡したのを後悔していて、そこから『ファラリス』が生まれたわけだが」
その経緯は、『ファラリス』の初期版の運用実験に携わった『六匹の猟犬』は周知している。
「けど、『神の杖』は戦争抑止力じゃなくて、戦争を起こすための道具になるのは、もう自明だろ」
最初からそうなるだろうとは思っていた。
だが、ガイツィナロクナフ博士の理想は揺るがなかった。いつか、この技術は地上から戦争を失くすものにできる、と本気で思っていた。
この国は、博士のその理想を逆手に取って、甘い言葉を言って、研究開発を進めた。さすがの博士も、利用されていることを気づいていただろう。
「だから博士は、『ファラリス』の使い道を考え直したんだ。
博士が亡くなった今、これは俺とお前しか知らない事実になる」
それを聞いてしまったら、いつか『ファラリス』が使われる時、不都合が起きたら自分が責任を取らなくてはいけないではないか。
だが、『ファラリス』を使用する権限を持たされた自分が、仕様変更されたという事実を聞いて、知らないフリをするわけにいかないだろう。
二つの意見が、頭の中で拮抗していた。
「狐にも言うなよ。あいつ、この情報悪用するから。博士もそれを用心して、あいつには言ってない」
グラウンドで走る、子供の兵士たちが声を揃えて数を数えている。その声をBGMに、サハラは淡々と話し出す。
サハラが話す間、自分は黙って聞いているしかなかった。
言われた情報を理解するのに精一杯だった。
*
見渡す限り、灰色の厚い雲に埋め尽くされた空。
10月下旬のリエハラシアは、冬に足をかけている。夏の間はロシアにいたので、その間に適当なコートを用意した。
季節外れのコートを入手するのは難儀したが、今のリエハラシアで衣料品を手に入れようとする方が、その何倍も難しい。
煙草をふかし、昔を思い出しながら、あの麻薬精製工場の周囲にある、高い塀を見上げた。
コンクリートの塀に等間隔で「国有地につき関係者以外立入禁止」と書かれた、古ぼけた注意書きの看板が掲げられている。
ライ麦畑の隅っこで、自分と狐が菓子の隠れ食いをしていた場所は、この塀の向こうにある。
風化したコンクリートの高い壁が封印した、二度と戻らない景色。
そんな自分の背中に、一歩一歩近づいてくる足音は、気配を消さない。敵意を少しも持たない、その警戒心のなさが無性に苛立たしかった。
振り向きざま、
相手が自分に向かって向けてきたのは、四角い小さなチョコレートの包みが乗った掌だった。
「はい、どーぞ」
日本語。
この女はいつも、こんな風にチョコレートを差し出してくる。
本人はきっと、二度と着ないと思っていただろう、使用感のあるダウンジャケットを着込んでいる。あの日、あの大統領府から逃げ出した時に渡した、ダウンジャケットだ。右肩に黒い鞄を掛けている。
この怜悧な黒い瞳に、今、何が見えているだろう。
嘘つきな大人か、夢破れた子供の成れ果てか。それとも哀れな男か、冷酷な殺人者か。
視線を合わせても、銃口を向けたままチョコレートを受け取らない自分の姿に、フチノベ ミチルはやっと諦めた。
掌のチョコレートをダウンジャケットのポケットにしまい込む。
その代わりに取り出したのは、一枚の小さな紙。
人差し指と中指の間に挟んだその紙を、見せてくる。
「これ」
今度は
そこにあるのは、いつか書いた――イヴァンと公園でやり合った日に書いた――チョコレートの包み紙に残した暗号文だ。
「ここの座標が書いてあったんですね」
「やっと解読したのか。時間かかったな」
「これ、結構難しかったですよ」
やっと、と言われたのが納得いかない顔で、フチノベ ミチルは言う。
「暗号としては簡単な方だ」
自分の言葉に対し、フチノベ ミチルはわざとらしい溜め息をつく。
それから困ったようにこちらを見て笑う。
その顔は、メダイを渡そうとしてきたのを断った時のサハラに、少しだけ似ていた。
この場所の座標を暗号にして残したのは、5月の上旬。今は10月、もう5ヶ月以上も経っている。
とはいえ、あれだけの負傷から動ける状態に戻るまでに、相応の時間がかかるのは理解している。
「何しに来た」
我ながら愚問だと思った。
この女は、知りたいもののためなら、どこにでも出向こうとする。それは、自分が一番知っているはずだ。
「あなたが知っていることを聞きに来た」
それもわかっていた。そしてこの女には、知る権利がある。
フチノベ ミチルは肩に掛けていた鞄を下ろした。
「聞きたいことの、一つ目」
屈んで、鞄のファスナーを開けて中身を漁り出す。
「イヴァンの乗ったセスナが墜落した時、私は入院していた」
イヴァンが乗っていたセスナ機は、7月にロシア領空上で墜落した。死体は見つかっていないが、死んだのは
「その頃、あなたはどこに?」
フチノベ ミチルは顔だけ上げ、真っ直ぐな視線をこちらに向けてくる。
「それを聞くのは野暮だろう」
自分の返答に、フチノベ ミチルは一瞬目を見開く。
自分の取り調べが終わって、この女が入院している間に、ロシアへ渡った。
イヴァンが日本から送還されたのは、7月。それより前に、公安からの聴取が終わっていた自分には、準備する時間が十分あった。
フチノベ ミチルは軽く咳払いをして、質問を続けた。
「二つ目。アヴェダを大統領の座から引き摺り下ろしたのは、あなたの策?」
今日の時点で、アヴェダは政治犯として拘置所に入れられている。
たった数日前まで大統領として、TVに出て演説していたというのが、嘘のようだ。
「いや。
「じゃあ、アヴェダの自滅だ」
フチノベ ミチルは、どこか満足そうな笑みを浮かべ、鼻で笑った。
フチノベ ミチルの感情では、そういう顔になるのだろう。
「反政府勢力が暫定政権を建てたが、ヤツらが政治をできると俺は思っていない。
このまま、クルネキシアと統合する流れになるだろうな」
国内の状況を知っている側からすれば、新たな苦境の到来になるのだから、素直に喜べるものでもない。
こちらのトーンが低いのを察して、フチノベ ミチルは真顔に戻る。
「あなたから見たら、納得できない結果なんですよね」
「感情論は意味がない。より多くの市民が生き延びられる道を選んだ方がいい」
「……そうだね」
戦争を続けるよりも、いかなる形であれ、無辜の民が生き延びられる方が、大事だ。
だが、戦争をやめたところで、どんなに努力しても軋轢は生まれる。
サハラが語っていた通り、長い時間を費やしたこの戦争は、子世代・孫世代にまで、相手への憎しみをこびりつかせてしまった。
この血と教育の呪いが解けるのは、当分先だ。戦争をしてきた時間の倍は、かかるかもしれない。
フチノベ ミチルは、鞄から出したガーデニングで使うスコップ片手に、足元の地面を掘り出す。
その脇には、同じく鞄から出された、蓋付きの小さな壺のようなものが置かれている。
何をしようとしているのか、さっぱりわからない。
「三つ目。わざわざ座標を教えてくれた、この場所はどんな場所?」
壺が入りそうなサイズの穴を作りたいのか、話しながらも、せっせとスコップで掘っている。
「俺がガキの頃、ここはライ麦畑だった。収穫時期は、綺麗な景色で、まだ覚えている。そういう、思い出の場所」
自分の思い出語りに対し、食い気味に「そっか」と素っ気ない返事をされた。正直、こちらの説明を聞いているのか、不安になる。
「お前は、さっきから何をしている?」
こちらが尋ねると、フチノベ ミチルは壺を両手で持ち上げた。
「
骨と聞いて、面食らう。数秒固まって、やっと答えた。
「勝手に、したらいい」
日本は、こちらと違って火葬する文化がある。火葬の後に残った骨を、墓地に埋葬するのだ。
文化の違いを、こういうところで目の当たりにするとは。
「遺骨の半分は、
スコップが地面を掘っていく音に紛れて、フチノベ ミチルは言う。あっけらかんと振る舞っているのが、演技には見えなかった。
ずっと向け続けていた銃口が意味のないものに思えて、
まだ小雨のうちに、この穴は掘り終わった方がいい。
そう思い、フチノベ ミチルの向かいに屈み込むと、その手からスコップを奪って、代わりに掘る。自分がやった方が早い。
「お前が次にこの国に来るとしたら、
骨を入れてあるのだろう壺が収まるサイズの穴は、そろそろ出来上がる。
「それをやったところで、何か一つでも、私の手に戻ってくる?」
壺を大事そうに抱えて、穴を掘る自分の姿を見守っているフチノベ ミチルは、口元に笑みを湛えながら、寂しげな眼をしていた。
こんな眼をするのか、と驚く。この眼差しは、初めて見る。
「……何もないな」
壺が収まるサイズの穴が完成した。
何も言わずに、フチノベ ミチルは穴の中に壺を入れる。壺が地面と触れ合い、カチャカチャと音がした。
フチノベ ミチルは、自身の首元に手を伸ばす。そして襟元からネックレスを引っ張り出した。
そのネックレスのチェーンに手をかけたと思えば、ぐいっと力を入れて、千切る。華奢なチェーンは少しの力で切れた。
ネックレスのチェーンにぶら下がっていたのは、エウスタフィのメダイだった。
サハラが自分に寄越したもの。フチノベ ミチルに渡したもの。
それを手から滑らせるように、壺の上に落とした。壺に金属が当たる音が、微かに聞こえた。
フチノベ ミチルは壺に目掛けて、上から素手で、土を被せていく。小雨が降る中の作業で、その手が土で汚れても、気にも留めない様子だった。
「四つ目」
自分の手からスコップを回収したフチノベ ミチルは、スコップについた土を叩き落としながら言う。
「『ファラリス』の本当の性能とやら」
あの、感情を見せない黒い眼に、戻っていた。
胸ポケットから煙草を取り出し、火をつける間に、どう話すべきか頭を働かせる。
ちょうどいい切り出し方が思いつかないまま、口を開こうとした瞬間、
「っていう話はもう、私にとってどうでもいいので」
急に話の腰を折られて、拍子抜けする。
フチノベ ミチルは握手を求めて、自分に向かって手を差し出す。
「改めて、友達になりませんか?」
唐突な言葉に困惑しかない。「改めて」と付けて言うからには、前にも一度言われているはずだ。
「わけがわからない」
いつ言われたのか、思い出す手間を惜しんだ。
この女の突拍子もない言葉に、眉間に皺を寄せてしまう。この女はいつも、こうやって強引に話を展開させる。
「そりゃ戸惑うのもわかる」
こちらの困惑を感じ取ったフチノベ ミチルは、苦笑いして言った。
日本で見てきた、作り笑いめいた顔はすっかり減って、少し表情が豊かになった気がする。
「あなたは私を、何とも思わなくていい。けど私は、あなたを友達だと思っているから」
友達になろう、と最初に言われたのは、日本で再会した時だった、と急に思い出す。
「今後あなたがどんな選択をしても、どんな死に方をしても、骨を拾いに行く」
しっかりとこちらを見つめる黒い瞳に、怪訝そうな顔をしている自分が映り込んでいる。
春先の夜、非常階段で話した時。
この女は、自分や狐の動向を見極めようとするのに必死で、やっと辿り着いた自分との繋がりを持つために、「友達になりませんか」と言った。
それが今は。
勝手に人を友達扱いした挙句、友達だから、死んだら後の始末をしてやろう、と言い出している。
自分たちの間にあるのは、友情でも愛情でも憎しみでもない。名付けようのない繋がり。
その関係に、わざわざ名前をつけてやる必要もない。
吸い終わった煙草を、地面に押し潰す。
サハラの骨を埋めた場所の土が、掘り返されて、周囲と色が少し変わっているのが目に入る。
「冗談じゃない」
フチノベ ミチルから差し出された手。
その汚れた手を、握り返す。
「俺が、お前の骨を拾う羽目になるのが見えているっていうのに」
そんな悪態をついたにも関わらず、
サハラの骨を埋めた場所には、目印をつけなかった。
自分やフチノベ ミチルが再びここへ来たとしても、埋めた場所を当てることはできないだろう。
骨の半分は日本に、もう半分は故郷の土の中に。サハラの死に方は、これでいいのだと思う。
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