後編

14. Similar yet different


 

 戦争とは、国家同士や国内の派閥間のパワーゲームであり、巨額のマネーゲームだ。


 白亜の豪邸で、護衛に囲まれて、大国のトップ達はチェスをやるように戦争をする。


 金が動けば人も動く。

 軍人や民兵だけでなく、傭兵も世界中から集まる。

 そして殺し合って、頃合いを図っては和平を結び、時間が経てばまた殺し合う。

 そのたびに金は舞い、私を呼び寄せる声がかかる。


 銃をくれ。

 弾薬をくれ。

 爆弾をくれ。

 敵陣営よりも、いい武器をくれ。


 私を呼ぶ彼らの声は欲深く、その欲は金と悲劇を生む。しかし、経済を蘇らせ、人々に豊かさを与えることもある。


 そして生まれた富を手にする者を責めることは、この資本主義に染まった社会ではできない。


 今日も世界のあちらこちらで、世界中の武器商人と、私が売ってきた商品を使って、見知らぬ人間が殺し合っている。


 世界を平和にも、血塗れにもできるのは金と欲。

 しかし、金と欲では手に入らないものがある。


 私が求めているのは、愛だ。


 愛とは不思議なものだ。


 人生の伴侶とは、所詮は墓場までの付添人を言い換えただけに過ぎない。肉体を愛し合い、子を成したところで、子の養育という共同責任を果たすだけに追われる。


 それでも、それはあの時、私を満たしたもの。


 それを手に出来るのならば、私は持てる全てを失っても構わない。

 しかし、それは二度と手に入らない。


 空っぽの私に愛を教え、去っていった愚かな女は、異国で死んだ。

 私が売ったかもしれない銃と弾丸に、撃ち抜かれて。


 だから私は、私から愛を奪ったものを、許さない。


 眼を開けて広がる世界は、血の臭いに溢れかえっている。


 むせ返るような血の臭いの中から、私が愛したものの残り香を感じ取るために、私は今日も生きている。

 


         *


 

 イヴァンは、いつも世界中を飛び回っていて、家にはほとんど帰らなかった。


 いつの間にか、イヴァンの4人目の妻は家を出ていって、長年勤めていた住み込みのメイドもいなくなっていた。


 それでも家が朽ちたり、荒らされていなかったのは、住み込みのメイドの末娘が律儀に家に残っていたからだ。


 家を取り仕切っていた住み込みメイドは、4人目の妻が家を出た後しばらくして病に倒れ、あっという間に亡くなったそうだ。


 メイドには3人の娘がいた。

 上の2人の娘は独り立ちしていたが、母の死後、末妹の15歳の少女を養えるほどの余裕はなかったらしい。

 メイドの末娘は、イヴァンの家にたった一人残されたのだ。


 メイドには身寄りがなく、娘たちの父親は既に故人だった。

 メイド亡き後、一人遺されたメイドの末娘は、メイドがやってきたようにイヴァンが出発した時と何一つ変わらない姿で、文字通り家を守っていた。


 長年家を取り仕切っていた信頼のおけるメイド。そのメイドの背中を見て育った少女。この二人にイヴァンは恩義を感じていた。


 だからイヴァンは、少女が成人になるまで面倒を見ると決めた。


 そして、当時15歳だった少女は24歳になった。今はイヴァンの秘書として傍にいる。


 美しい金色の髪、長い睫毛に彩られた緑色の瞳、白く輝く肌。


 しかし子の躾には厳しかったメイドの影響で、感情表現が苦手だった。今でも、人前で笑ったり泣いたりする場面は滅多にない。


 イヴァンの隣で言葉少なに佇んでいるその姿は、陶器でできた美しい人形とそっくりだった。


 少女にはイリーナという名前があるのは知っていたが、いつしかイヴァンは、少女を陶器人形ビスクドールと呼ぶようになった。


 イヴァンは時折思う。自分に娘がいたら、こんな関係性になったのだろうか、と。


 仕事にかまけて、ろくに自宅に帰ってこない父を、父と認めてもらえる気もしない。そして、ビスクドールのようにいつも寄り添ってくれるとは思えない。


 イヴァンには子供はいない。4人の女性を妻にしてきたが、その誰とも、子供を持とうとは思えなかったのだ。


 自分とユーコの間に子供がいたら、ユーコはまだ傍にいてくれたのだろうか。

 

 鼻腔にほんのりと漂う茶葉の香りを感じながら、イヴァンは呟く。

「いや、無理だな。私より愛される存在は許せない。そんな存在は、うっかり殺してしまう」

「独り言が不穏ですよ、イヴァン様」

 畳の上で仰向けになって寛いでいたイヴァンは、ユーコとの思い出を振り返って、独り言ちていたらしい。

 隣の部屋で紅茶を淹れていたはずのビスクドールが、ティーカップ片手に敷居のところに立っていた。


「すまないね、ビスクドール」

 イヴァンは、ゆっくりと躰を起こして、ティーカップを受け取る。

「日本の宿は、部屋に温泉があるのですね」

「ここが温泉だからだよ。それに、部屋に露天風呂があるのも、デラックスルームだからだよ」

 イヴァンが昔、ビスクドールを日本に連れてきた時は、東京のシティホテルに泊まった。今回は温泉地に来て、純和風の旅館に泊まっている。


「ゆっくりお湯に浸かっておいで。今日は疲れただろう?」

 自宅のあるモスクワから十時間のフライトに加え、東京郊外の墓地へ墓参りをしに行き、神奈川の温泉地へ向かった。ビスクドールも疲れたはずだ。


「疲れましたが、とても楽しいですよ」

 しかしビスクドールは、口元を少し緩ませた。少しも楽しそうに見えないだろうが、これはビスクドールなりの喜びの表現なのだ。

 


          *



 スコルーピェンが死んで二日。火消し作業もほぼ終わりが見えてきた。

 

 穏やかに晴れた昼下がり。陽射しの強さに目を瞑れば、風が気持ちよくて過ごしやすい気温。

 こんな清々しい昼下がり、俺は辛気臭い男の顔を見に来たわけで。

 

 サヴァンセの部屋のインターフォンを押すが、一向に出てくる気配がない。電話をかけながらインターフォンを連打してみるも、反応しない。


 今日自宅へ顔を出しに行くと連絡したのに、それを無視して、梟は寝たのだろう。

 故郷でも、梟の寝起きの悪さはひどかった。起こすのにどれだけ苦労したか。


 コール音だけが聞こえる電話を片手に、インターフォンを15分ほど押し続けていると、やっと鍵が開く音がした。

「うるせぇなこのクソが」

 と同時に、ドアチェーンの隙間から、おそろしく殺気立った灰色の眼が見えた。見間違いでなければ、銃口もこちらに向いている。


「何の用だクソ」

 クソの連呼に加え、呼んでもないのに来るな、と顔に唾が飛んでくるんじゃないかと思うくらいの剣幕で怒鳴られる。

「調べておけ、って言われたことをさ、調べてきたから来たんだって」

 宥める口調で言うと、玄関のドアが閉められる。そしてドアチェーンを外して、もう一度ドアが開く。


「……聞かれるとまずいのか」

 玄関に入るなり、何かを察した顔の梟から尋ねられた。

「公安外事課ってわかる? 胡散臭い外国人とかテロ組織を調べて監視する、警察の部署。そこに目をつけられてるから、外で話すのは気が引けて」

「だろうな。蠍と俺は派手にやりすぎた」

 リビングのソファに寝転んだ梟は、納得したようだった。だけど、梟の考えは間違っている。

「目をつけられてるのはミッチーだよ」

 ソファしかないリビングなのに、そのソファを梟が陣取っちゃっているから、床しか座る場所がない。

「フチノベ ユーコは昔から有名なんだよ。だからその娘も捜査対象になる。前にもこの話、チラッとしたはずだよ?」

 ソファで仰向けになっている梟は、それを聞いて舌打ちをした。眉間に皺が寄っている。


「ところでミッチーのお見舞い、今日は行かないの?」

 この男なら、なんだかんだでミッチーの面倒を焼きたがる気がしたのに、ちょっと意外だった。

「俺が見舞いに行ったところで、回復するわけじゃない」

「馬鹿だなぁお前。病院のベッドであれやこれや、そのシチュエーションが萌えるじゃん。狭い上に誰かに見られたらどうしよう、ってスリルが余計に」

「その脳みその中身がなさそうな発言、いい加減にしろ」

 殺意しかない灰色の眼が、ギロッとこちらを睨みつけてくる。AVは大好きな癖にこういう話はNGな理由が、いまだにわからない。


 梟は煙草のフィルターを噛み、こちらを睨みつけて舌打ちをする。早く情報を出せ、と言わんばかりの苛ついた様子を見せられて、思わず苦笑いが出る。

 

「お前、サハラって教官、覚えてる?」

 そう尋ねると、梟は「何だいきなり」と言って、呆れた顔になる。

「忘れるわけがないだろうが、あのクソ教官」

 梟が顔を顰める。


 俺たちが候補生だった頃、サハラという教官がいた。今で言うパワハラと暴力、下手すれば若者に対して拷問としか思えない課程を組んだ、真性のクソ教官だった。


「あの教官には何度も殺されかけた。そのサハラが」

 サハラがどうした、と言いかけて、梟は動きを止める。俺が何を言いたいか、すぐに察したらしい。


「そ。15年前、俺たちの前から突然消えた鬼教官の名前だよな。そいつは日本に逃げたんだよ」

 目を見開いた梟は煙草から唇を離し、俺を凝視して動きを止める。


 信じられない、と言いたそうな顔を、梟がしているのが面白い。こんなに驚いた様子を見るのは初めてだと思う。


「サハラが、あいつの育て親だと?」

 思っていた通りの反応だった。煙草を咥え直して天井を仰いでいる。

「びっくりだよね」

 笑いながら言ったら、胸ぐらを掴まれた。

 起き上がってから胸倉掴むまでの動きが早すぎる。

「……いつからその情報を持っていた?」

 睨み合いの後、梟はいつもより重くて低い声音で尋ねてくる。


「蠍がヒナカワのホテルで大暴れした後に、お前があのコの親も調べろって言っただろ」

「嘘をつけ」

 押し殺した声音で、梟は言う。

 ここまで冷静さをなくしているのを見られたのは、蠍の死に様を見られなかった俺への、神様からのサービスだろうか。


「信じてよ」

 俺はヘラヘラ笑うしかない。胸倉を掴む梟の手の力が強くなった。

「お前を信じられるか」

 殺気を隠しもしない、灰色の眼。その眼に映り込む俺は、頼りなく笑っている。そういう振る舞いをするのが俺の仕事。

「お前が求める情報は与えただろ。ついでに言うと、が来日したって話もしとこうか」

 これを言ってすぐに通じるだろうか。ミッチーは何をどこまで話しているのだろうか。その探りを入れる意味もある。

「まだ隠してないだろうな」

 梟は誰が来たか、理解していた。梟の手がやっと胸倉から離れる。


「もうないよ」

 俺は皺が寄ったシャツを直しながら笑って見せる。苛ついた顔で梟は、煙草を灰皿代わりの空き缶に捨てる。

「フチノベ ミチルの育て親がサハラなら、リエハラシアへ行ったのも、偶然じゃない」

「それはどうかわかんないよ。だってサハラは2年ちょい前から、ミッチーの前から消えてるから。

 で、サハラが消えた経緯について何か知っていると思しき人間が」

「イヴァン=アキーモヴィチ・スダーノフスキー」

「お前、ちゃーんとミッチーから聞き出してるじゃん?」

 意外だった。

 ミッチーの親の話なんて、蠍とやり合った時まで気にしてなかったと思っていたのに。

 そこまで話してもらっていながら、今までサハラの名前が出なかったのは、むしろ不自然なくらいだ。

 俺の言葉は無視されて、梟は新しい煙草に火をつけている。

 

「あと、これはイヴァンとサハラの話とは関係ない話。トップシークレットの情報が入ったから、共有ね」

 これは世間話だ。

 こうして梟に話しておいて、このトップシークレットに繋がる可能性のある情報を、どこかから引っ張れたらありがたい。言わば種まきだ。

「いわゆる旧東側諸国たちで技術を持ち寄って作った軍事衛星の打ち上げが、今日終わった。今後は、そこら辺の勢力図がザワザワする」


 東西冷戦なんて古臭い話だけど、結局いまだに対立構造からは抜けきれない。我が愛しの祖国もそう。

 軍事衛星自体は、あくまでGPS情報や通信整備に関わるもので、打ち上げ自体はそんな珍しくない。それが、勢力図を書き換える可能性を生むとすれば。


「秘密裏に兵器を乗せたか」

 梟は煙草を指に挟んだまま、顔の前で手を合わせる。眉間の皺が一層深くなる。


「それをさ、あのイヴァンが知らなかったわけないよね。でもおかしいんだ。これから地上での対立が激化して、武器商人の仕事が増えるタイミングなのに、日本でゆっくりしてる」

 世界中に武器を売り歩いて、各国政府首脳とのコネもしっかり構築したイヴァンが、今このタイミングを逃すはずがないのに、本当に不思議でならない。


「これ絶対、何かあるっしょ」

 梟は何も言わずに、苦々しい顔をしている。

 今日この男にもたらしてやった情報は、いずれ倍になって、俺のもとに帰ってくる。


「イヴァン=アキーモヴィチ・スダーノフスキーは、どんな相手だ」

 丁寧にイヴァンの名前をフルネームで言うのは、梟のこだわりなのだろう。

「お前は会ったことなかったっけ? 昔、リエハラシアに来たよ。物静かな紳士って感じ」

 リエハラシアに昔来たのは知っている、と煙草を咥えた男が、話の途中に言葉を差し込んでくる。


「お前とおんなじ色の眼をしてるロシア人。お前みたいに髪は黒くないし、うねうねしたカールじゃないけど」

 俺は、自分の眼と髪を順番に指差して言う。

「そういうのはいい」

 梟は面倒臭そうな顔で舌打ちする。

「一つ、世界で一番稼いでる武器商人。

 二つ、フチノベ ユーコに今でも固執してる偏屈な男。

 三つ、俺はまだ接触できてない。今言えるのはこれくらいよ」

 一つ二つと挙げていくたび、俺は指を一本ずつ、梟の顔の前に立てる。


「ミッチーはきっと、俺よりイヴァンを知ってるから、俺に聞くより早いよ」

 そして、聞いた情報を俺に流してくれればいい。俺たちはそうやって、情報を渡し合ってきたのだから。


 不機嫌そうな灰色の眼が、うんざりしたように閉じられる。こうやって黙り込むと長い。話は終わったんだし、これ以上いる必要はない。


「それじゃあね」

 梟の返事など聞かずに、俺は玄関に向かっていった。



          *



 黄昏時、黄金色の夕陽が山々の稜線を染めていく。


 イヴァンの部屋の窓からは、そんな美しい光景が広がっている。夕陽は、鬱蒼とした緑の山々を染めようと必死だが、染め上げる前に日暮れを迎えてしまうだろう。

 イヴァンは居室の座卓で頬杖をつきながら、その光景を眺めていた。


「あの娘は今どこに?」

 不意に尋ねたからか、イヴァンの真向かいに座っていたビスクドールは焦った様子で返事をする。

「クガと協力関係にある医療機関に入院しています」

「入院? いよいよメンタルが壊れたか」

 入院と聞き、イヴァンは驚いた顔でビスクドールに向き直す。

「いえ、怪我で入院したようです」

「なんだ、死んでいないのが残念だ」

 また頬杖をつき、窓の外を眺める格好になったイヴァンは、そう鼻で笑う。

「お見舞いに行かれますか?」

「うーん。気が向いたら」

 ビスクドールの問いに、イヴァンは答えにならない答えを返す。

 ビスクドールは過去の経験上、この返事の時は、すぐ気が変わって、出向くと言い出したりする。

 なので、手土産を用意しておいて損はしない、とわかっている。頭の片隅の一割で、手土産を何にするか考え始めていた。


「リエハラシアから来た『六匹の猟犬シェスゴニウス』の残党の行方は追えたか?」

 イヴァンの質問は続く。ビスクドールは即座に、静かだがはっきりとした口調で言う。

「クガの手下と連絡を取りました。口を割らせるのに苦労しましたが、聞き出せました」

「ありがとう。ビスクドールは仕事が早いし的確だ」

 イヴァンから褒められ、ビスクドールは口元が緩みそうになるのを堪える。

 イヴァンはそれに気づいているし、隠さなくていいと思っているが、生来真面目な性格の秘書なので、何も言わない。


「ミチル様は、『六匹の猟犬』の生き残りの一人と親交が深いようです」

「そうか」

 イヴァンはパッと目を輝かせている。ビスクドールはその様子を見て、口角を微かに上げた。

 楽しそうに表情を輝かせたイヴァンは呟く。

「それは面白い。気が向いた」

 イヴァンはゆっくり立ち上がると、寝室へ一人向かう。着替えて出かけるつもりだ。

 ビスクドールはそれを察して、頭の中でリストアップした手土産の中から道中で買えそうなものを絞り出していた。



          *



 自室のベランダに出たマナトは、手元のスマートフォンで幼馴染の電話番号をコールする。


 夕暮れ後の空の色は、すっかり藍色になり、街の光が強すぎるこの場所では、星は一つ二つしか見えない。

 だが、マナトにとてはそれどころではない。


 長いコールの後、やっと応答に出た幼馴染へ、マナトは早口で話しかけた。

「みちる! もっと早く出てくれよ!! 今、ガチでマズいんだって!!」

『電話使っていい場所まで行かないといけないから、時間かかるんよ』

 電話の向こうの幼馴染は、苦笑い混じりに答えた。

 マナトはそこでやっと思い出す。


 幼馴染が入院した病院は、病室で携帯電話の使用が許されていないので、1階フロアの端に設けられた通話エリアまで行かないと、電話できない。


「あぁぁごめん! あのさ、怒んないで聞いてくれよ……どうやら、うちの舎弟が、おっさんのことをアイツにバラしちゃったんだよ」

『アイツって誰?』

「イヴァン」

 その名前を聞いた幼馴染が、息を呑むのがわかった。


『イヴァンが、日本に来てる?』

 声を殺して、幼馴染は聞き返してくる。その声音は驚きを隠さない。

「そう。で、秘書の女が舎弟のところに来て」

 マナトはそこまで言って、言葉に詰まる。


『その舎弟さんは、ビスクドールから拷問されて情報を吐かざるを得なかった』

 幼馴染がすらすらと述べた推理は、マナトが説明しようとした内容そのものだ。見えないとは知っているが、マナトは頷いた。


「その舎弟が拷問から解放されて親父に電話した時は、まだ息があったらしいんだけど……見つかった時には」

 そこまで喋っている間に、マナトの眼が潤んでいく。ビスクドールに捕まった舎弟の行く末は、幼馴染の想像よりも悪い方向になっていた。


『大事な舎弟さんを、申し訳ない。ごめんなさい』

 幼馴染が喋っている言葉は、もはや呻き声にも聞こえた。

「だから、親父がめちゃくちゃ怒ってる」

『でしょうね』

 マナトの父親は、関東一円を支配下に置くヤクザの若頭だ。舎弟に手を出されて黙っているわけがない。それはマナトや幼馴染に止められるものではない。


「親父もブチキレだけど、おっさんの話をしちゃってるから、おっさんにブチギレられて殺される気がする」

 おっさん、と連呼しているが、マナトはあの男の名前を知らない以上、おっさんと呼ぶしかない。


 黒い癖毛の、灰色の眼をした煙草臭い男。


『ごめん、後でかけ直す』

 幼馴染は何かに気づいたようで、慌てた様子で電話を切る。

 マナトは途方に暮れた顔で、急に通話が途切れたスマートフォンを手に、すっかり項垂れていた。





 

 誰かと話していたあの娘は、こちらに気づくと通話を切った。

「やぁ」

 その動きと同時に声をかけると、あの娘は一切の感情を捨てた顔で、こちらに視線を向けてきた。


 顔は至って真面目なのだが、前髪がギザギザに切られていて、面白い髪型になっているのがおかしく、つい笑ってしまう。


「その前髪はどうした?」

 舌打ちが聞こえてくる。前髪について聞くのは良くなかったらしい。

 人に向かって舌打ちなど下劣極まりないが、もともと躾がなっていないのだから、致し方ない。


 軽く溜息をついた後、面白い前髪になっている娘は口を開く。

「玖賀を怒らせましたね。あなたが日本のヤクザに喧嘩売るのは、これで何十回目ですか」

 こちらを受け入れるつもりがないとはっきりわかる、刺々しい言い方だった。

「В чужой монастырь со своим уставом не ходят(郷に入れば郷に従え)、私の苦手な言葉だ」

 ロシア語は流暢に話せるはずなのに、わざわざ日本語で話すのは、この娘なりの反抗だ。こちらに合わせる気はない、と露骨に意思表示してくる。


「面会時間でもないのに、何をしにいらしたんですか」

 無表情なまま、こちらを睨みつけている黒い眼は冷たい。

 点滴を吊るすスタンドを右手で掴みながら、立っているのがやっとな姿は痛々しいものだ。

 真正面に向き合った私は、手にしていた紙袋を差し出す。

「お見舞いだよ」

 これは有名なチョコレート菓子店の袋。この娘も、さすがに名前は知っているだろう。ここに来るまでに、ビスクドールがわざわざ寄り道して用意したものだ。

 

「毒でも入ってます?」

 だが、この娘は迷惑そうな顔で袋を受け取ろうとしない。

「それは食べてみなければわからないな」

 小さく笑って答えると、あからさまに顔を顰められる。

「嘘だよ。ビスクドールが、君のために用意したギフトだ。信頼してくれ」

 そこまで言って、やっとユーコの娘は渋々受け取った。

 ここまで露骨な態度を取られるのは癪に障るが、相手は怪我人なので、耐えてやる。


「ビスクドールのお土産はセンスがいいですね」

 仏頂面の娘は、渡した袋の中身を覗き込みもせず、ただ空いている左手で受け取るだけだ。

 私は後ろを振り向き、待合室なのかよくわからない空間にある、貧相な長椅子に腰掛けた。

 

「今、ちょうど玖賀の息子から電話があったところです。あなたの秘書が玖賀の舎弟を殺したと」

「あぁ、そんな話を聞いたような気がする」

 さも深刻そうな言い方をされたが、クガの配下はこの娘の友達でもなんでもない。

 尊い犠牲だと言い張られたところで、末端のマフィアだ。同情の余地はないのに。


「ビスクドールはどこに」

 あの娘は無表情だったが、瞳には怒りの色を滲ませていた。見えるのは、露骨な苛立ちだ。

「外で待っているよ。クガに言いつけてもらっても、こちらは一向に構わないよ」

 私の答えに、小さな舌打ちが返ってくる。

「ところで『六匹の猟犬』の残党から何を聞き出した?」

「いいえ何も」

 険しい顔をしたあの娘は、「携帯電話使用可能」とステッカーが貼られたエリアから出ようとしない。


「君と私は、いまは同じ目的を果たそうとしている仲間なんだ。ここは手を組んでいいはずだと思う」

 あの娘と私が座る位置まで約3メートルほど。一歩もこちらに近寄ろうとしないせいで、私が声を張るしかない。


「何の仲間ですか」

 あの娘は心外そうに言ってくる。

「この世界で数少ない、『ファラリス』を使う価値を持つ者という意味だ」

 私はフロアの中で唯一、煌々とした灯りがついている病院受付、その無人の空間を見つめながら答えた。


「私は『ファラリス』を手に入れる。そして私からすべてを奪ったこの世界へ、最大の復讐をする」

「くだらないポエムはやめてもらっていい?」

 冷めた眼をしたあの娘は、鼻で笑った。

 『ファラリス』の名前を出しても、一切動揺しない。それは予想通りの反応で、思わず笑ってしまう。だから私は、これ以上『ファラリス』の件は話さない。


「リエハラシアでユーコが死ぬ理由はなかった。こんな現実を、私は許せない。

 今、君のそばに『六匹の猟犬』メンバーがいる。君も、ユーコの死の真相を知りたがっているからだろう? なら、私に協力してほしい」

 滔滔と語ると、やっとあの娘は一歩だけ、こちらに踏み出してきた。


「残念だけど、あなたに協力したいとは思っていない」

 絶えず笑みを浮かべ、こちらの様子を伺う眼。ユーコに似た仕草で、声は違う。この違和感がいつまでも慣れない。


「そんな強がりを言えるのは今だけだ。君ができることと、私ができることには、差がありすぎる」

 この娘は己の力を過大評価している。そして、私の力を過小評価しすぎている。


「君がしようとしている復讐には、私の後ろ盾が必要になる」

「あなたの手を借りるほど、私は無力ではない」

 馬鹿を言うものだ、と言わんばかりの嘲笑だった。

 あまりに無礼な振る舞いに、せっかく耐えていた私の我慢も限界を迎えていた。右足で一回、床を踏み鳴らす。


「なら、君も私の復讐の標的だ」

「大丈夫。覚悟はとっくにできてる」

 踏み鳴らした音には微動だにせず、あの娘はなおも笑っていた。

「君は死ぬ間際、私の申し出を断ったのを後悔するだろう」

 私の言葉に、あの娘は強気な眼差しで、唇を笑う形に歪めて見せた。ユーコの皮肉そうに笑った顔とは、また違う。

「後悔ならもうしてる。ここに拳銃ハンドガンを持ってこなかったのを」


 フチノベ ミチル。

 ユーコの姪。

 笑い方はユーコに似ていないのに、話し方や顔立ちがよく似ている。それがより一層、憎たらしい。

 

 ここにいるのは、似て非なるもの。ユーコの面影を残す、醜い紛い物。


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