13. The calm before the storm
13. The calm before the storm
*
自分が隠れていたポジションから顔を上げると、フチノベ ミチルが
こちらが近づいているのに気づいていないフチノベ ミチルは、その場で立ち上がった途端、ゆらりと力なく倒れた。
フチノベ ミチルは蠍のそばで、うつ伏せになって動かなくなっていた。息があるか確認すると、浅いながら呼吸はしていた。
ヒナカワを乗せたマナトの家の車は、マナトが乗って行ってしまったところだ。
その場で、狐に車で迎えに来いと連絡したが、時間はかかるだろう。
フチノベ ミチルを背負って、ヒナカワの別荘の裏手に降りる。
ヒナカワの別荘に、
そのタイミングで、
全く見覚えのない、民間人には見えないスーツ姿の中年の男が車から降りてきた。
筋肉質な体がスーツを着込むと窮屈に見える、殺気を隠さない男だった。
白髪が薄っすら混じった黒髪をオールバックにしている。目元がマナトとよく似ていて、直感的に誰なのか理解できた。
マナトの父親。関東エリアで覇権を持つジャパニーズマフィアでNo.2の男。フチノベ ミチルがクガパパと呼ぶ男。
自分は、満身創痍のフチノベ ミチルを背負った状態でこの男と
男は自分の姿を見るなり、顔を曇らせた。
よく喋るマナトとは反対に、この男は全くと言っていいほど喋らなかった。
唯一喋ったのは、「病院に連れて行くから、この車にミチルを乗せろ」だった。
クガの車には、運転手の若い男がいた。助手席にクガが座り、後部座席に自分とフチノベ ミチルが乗った。
道中、フチノベ ミチルは一度も目を覚まさなかった。
クガも一言も話さず、自分も煙草を吸う以外やることがなかった。
運転手はこの沈黙の中、身を縮こませながら緊張した面持ちで運転していた。
フチノベ ミチルが診療所と呼ばれる、クガの息がかかった医療機関のベッドで目を覚ましたのは、運び込まれて半日経った頃。13時手前あたりの時間だ。
黒い眼を開けて数秒、天井を凝視した後、じっくりと周りを確認する。その流れで自分と目が合う。
「お腹空いた」
起きて一言目が、これだ。気が抜ける。
点滴のチューブに繋がれ、手足は包帯を巻かれた姿。顔は、殴られたところが黒く変色していて痛々しい。
「三週間は入院だと」
医師や看護師は嫌な顔一つせずに治療に当たってくれたが、正直、こんな状態で連れてこられて迷惑だったろう。
「うーん……入院費が払えない」
「そういう問題じゃない」
とはいえ、入院費はクガが払うだろう。それを返すために、この女はアルバイトを増やす。
今までこうやって、クガは何かと恩を売って、フチノベ家との繋がりを持ち続けたに違いない。
「明日退院できないですかね」
「この状態見て、よくそんなこと言えるな」
明日にでも退院したいとは、本気で言ったわけではないだろうが、半分は本気の発言だと思う。
そこで会話が途切れ、窓の景色を眺めるしか、暇を潰す方法がなくなった。
この診療所は、表向きは医療機関の看板を掲げているため、喫煙はできない。
意識を取り戻したのを確認したのだし、煙草を吸いに外へ出てもいいはずだ。
それなのに、足が重く感じて動けないのは、話をしたいと思っていたからだ。
「つまらないメロドラマだった」
そう切り出しながら腕を組み、足を組む。座り心地が硬いパイプ椅子は、少し動くだけで軋む。
「めちゃくちゃはっきり言う」
フチノベ ミチルは困った顔で小さく笑った。
「あのガキらしい、計画性のない終わり」
「あの二人みたいに、ノリと勢いだけで生きられるのは羨ましい……ような気もする。私はやらないけど」
この口振りは、自分の話に合わせたとは思えなかった。この女だって、目の前で繰り広げらたメロドラマには辟易していたのだ。
「羨ましくない。あんなクソみたいなままごとに付き合うくらいなら、くだらない恋愛リアリティショーを見る方がマシだ。蠍のやったことに、何の価値があったって言う」
こちらはさんざん振り回されて、自分の服は雨と泥、血で汚れ切った。
そしてこの女は、この有様だ。
ありとあらゆる方向に容赦ない言い方しますね、とフチノベ ミチルは苦笑いしている。視線は相変わらず天井を見つめていた。
「蠍の死体はどうしたんですか」
「
本来、フチノベ ミチルを運ぶために呼んだのだが、クガの登場でその必要がなくなった。代わりに、蠍の死体を片付けるのを任せたのだ。
「情報屋さんって言うより、何でも屋扱いしてない?」
それは否定できない。だが、狐が何でもできてしまうからこそ、頼んだのだ。
不意にフチノベ ミチルは右手を宙に伸ばし、掌を広げ、指を一本ずつ折る。
「ヒナちゃんを狙ったよね」
拳を握る形にした掌を、もう一度開く。
その声音はフラットそのもので、こちらを責めるような感情は混ざっていない。
「そこは否定させてもらう」
まるで何かに導かれたかのように、配置が完璧だった。ヒナカワのすぐそばにフチノベ ミチルとマナト。その少し後ろの草叢に蠍。
「どこにいようと、あいつはヒナカワを庇うと確信していた。ヒナカワの隣にいたお前は、ヒナカワを助けようとする。
だからヒナカワじゃなく、蠍が飛び出してくるだろう位置を狙った」
「えげつないなぁ」
フチノベ ミチルはぼそりと呟いた。独り言のつもりなのだろう、こちらの反応など気にしていない。
疲れた顔で天井を見る黒い眼は、どこか生気がない。
「お気に召さないやり方をしたなら、申し訳ないな」
すまないとは思っていなかったし、そもそも謝る気などなかった。
フチノベ ミチルは溜め息を漏らす。
その溜め息は、話し続けているのに疲れたからか、自分の言葉に対してなのか、わからない。
「胸と腹。死ぬまでほんの少し時間がかかるような位置。それを狙ってました?」
そう言いながら、フチノベ ミチルが視線をこちらに向けてくる。
何を思っているのか読み取れない、黒い眼。
「俺は、ベッドの上で静かに死ねると思っていない、と前に話しただろう」
そう言いながら腕組みをした手を解き、膝の上で指を組む。視線から逃げたつもりはないが、意図せず視線を逸らす形になっていた。
「蠍だって同じだったはずだ」
こちらの言葉を静かに聞いていたフチノベ ミチルは、宙に伸ばした手を、ペールピンクのカバーがかかった薄いタオルケットの上に置く。目を閉じ、寝ようとしたのかと思ったが、唇が動いた。
「蠍の思う壺」
目を瞑ったまま、フチノベ ミチルはおかしそうに笑っている。
「蠍はこうやって、サバちゃんの記憶に残ろうとした」
蠍は馬鹿だ。
こんなことをしなくても、ぽろぽろと涙を流していた蠍の顔は、自分の脳の中に焼きついて消えやしない。
無性に煙草が吸いたくなって、胸ポケットに手を伸ばして、ここでは吸えないのだと諦める。
胸ポケットを漁った時に違和感があり、その違和感の正体を探し出すと、泥がついている四角い何かだった。
「やる」
その四角い、小さな物体を指で弾いて投げる。
「泥ついてる」
枕元に軽い音で着地したのを、フチノベ ミチルは左手で拾い上げて、軽く顔を顰めた。
ホルスタイン柄の包装された小さなチョコレートは、フチノベ ミチルからどこかのタイミングで渡されたチョコレートだ。
「腹減ったんだろう? 包装紙剥けば食える」
「なんかちょっと溶けてるのが、これまた……」
包装紙を剥がした後のチョコレートを指で摘んで、フチノベ ミチルは難しい顔をしている。しかし空腹には勝てなかったのか、口に入れた。
「ほら食えるだろ」
「空腹には勝てないぃ」
人が死んでも腹は減る。生きている以上、生理的欲求は空気など読まない。
口の中のチョコレートを味わいながら、フチノベ ミチルは剥がした包装紙を両手の指先で広げ、しげしげと眺めている。
「何もしないで、私を見捨てても良かったのに」
いつの間にか、視線は包装紙から自分に向いていた。
「見捨てるって言い方は、助けに来ると思い込んでいる証拠だ」
フチノベ ミチルの手から包装紙を取り上げ、ゴミ箱に捨てる。
「サバちゃん、周りから面倒臭い人って言われてない?」
その言葉は狐からよく言われるが、あえて返事はしない。
「蠍の頭を撃った時」
フチノベ ミチルは、何度目かの天井を見た。
「びっくりするくらい、何も感じなかった」
そう話しながら、ゆっくり瞬きを繰り返す。
「怒りとか、かわいそうとか、達成感とか、いろんな感情が沸くのかなって思ったのに。なーんにも」
目的を果たしたその後、何を思うか。
この女は何も感じなかった。そしてそれは、自分も同じだ。
蠍は、生きてきた時間の半分くらいを、任務という名の人殺しに懸けてきた。
その最期に対して向けた自分たちの感情は、あまりにも素っ気ないのかもしれない。
血で血を洗って生きた者はきっと、生きてきた時間への言葉や、生きていた時間に対しての評価といったものを与えられないのだ。
「マナトが突入してくる直前、蠍は私の首を掻き切ろうとした。私にはもう抵抗する手段がない状況でね」
死んだ人間の話など何の役に立つ、と言いたいのを抑える。これは、この女なりの葬送の言葉だ。
「なのに、あいつは手を止めた。というか、できなかった。ヒナちゃんの顔でもチラついたんだと思う。
その時思ったんだよね。あぁこいつもただの人間だったんだ、って」
敵味方に入り混じる戦場でも、お互いに無関心な雑踏でも、そこにいるのが人間なのは間違いない。
「殺人鬼のままでいてくれたら、達成感だけはあったかもしれない」
「ただの人間じゃない。一人前の兵士だ」
「……そうだね」
フチノベ ミチルはわかっていないだろう。
目の前の相手にとどめを刺せないなら、兵士としては使い物にならない。そんな脆さを持った蠍は、いずれ死ぬ運命だったとしか言えない。
「私は、サバちゃんを、ちゃんと人間だと思ってますよ」
だからなんだと言うのだろう。自分が死んだところで、誰が悲しむわけでもないのに。
なんと返そうか考えているうちに、フチノベ ミチルは眠り込んでいた。そんなに長い時間黙っていたつもりはなかったのだが。
*
白雪がマナトの車に送ってもらって帰宅した時、家には怒りと安堵の混じった顔をした両親と、通いで来ているお手伝いが泣きながら出迎えた。
白雪はシャワーを浴びて着替えたところで、両親からリビングに呼び出された。息を吸うのも重たい空気から、何を言われるかは想像がついた。
経営者の親族だと無理を言い、さらにはスイートルームが入っているフロアを当面の間、使用できなくした。白雪とクランの情報は報道には一切出てきていないが、白雪がスイートルームを取ったのはホテルのスタッフには知られている。そのうち情報は漏れるだろう。
きっとそうなる前に、両親は手を打ちたいのだ。
「すぐに、ボストンへ留学してもらう」
顔色の悪い父親からは、いつの便に乗るかなど業務的な言葉しか出てこない。
「はい」
いつもは座り心地がいいはずのリビングのソファが、ひどく居心地が悪かった。
疲労困憊した様子の母親は、鋭い視線で娘である白雪を見る。
「もう、ここには戻ってこれないと思って」
「わかった」
白雪はそう答えるしかない。だが、そう答えた次の瞬間、立ち上がった母親から平手打ちをされる。
母親は経営者一族の娘。父親はその婿だ。だから母親の方が、この家業に対して思い入れが強い。
「お友達は選びなさいってママは言ったでしょう!!」
母親は白雪の肩を掴んで、何度も揺さぶる。白雪は死んだような眼で、母親の泣き怒る顔を見つめる。
高校卒業までは日本にいたいと言うから日本に残したのに、それは僕たちも納得して決めたことじゃないか、あなたは黙っていて白雪はしっかり反省しなきゃいけないの、君のやり方はいつもこの子に圧をかけすぎるんだ――
いつの間にか、白雪と母親ではなく、母親と父親の言い争いが繰り広げられる状態になっていた。
普段の二人は、白雪の前でこんな言い争いをするような親ではない。
白雪は耳を塞ぐ。
この家の平穏をぶち壊したのは他でもない、白雪自身だ。
「ごめんなさい」
白雪は両親に向けて、ソファに腰掛けたまま深く頭を下げる。
謝罪の後、ゆっくり頭を上げた。言い争っていた二人は、白雪の謝罪を静かに聞いていた。それを見て、白雪は笑いかけた。
「でも、弱い立場の人を痛めつけて、言いなりにして、狂わせてく大人なんか、許さないし従わない」
白雪の笑みは、眼には怒りの色を滲んでおり、口元だけ無理矢理笑った形にしているだけだ。
母親は顔を真っ赤にして、強い言葉を投げかけてくる。それを父親が諌めて、母親と父親はそこでまた言い合いになる。白雪は逃げるように自室に戻った。
自室の机の上に投げ出していたスマートフォンを手に取ると、トークアプリの連絡先からマナトの名前を探し出す。
通話ボタンを押し、呼び出し音をしばらく聞いていると、マナトが通話に出た。
『うぁい?』
マナトの声はいつも通りすぎて、白雪は一瞬固まる。
あまりに平然とした声で、明け方の出来事が夢だったんじゃないかと不安になる。
「
『
ただ寝ぼけていたから、いつもと変わらないテンションなだけだと思い込むようにした。
マナトが運転した車で帰ってきたのは、夢ではないのだから。
「私、アメリカへ留学させられるみたいです。もう、日本に戻ってこれないと思います」
白雪は自分でも驚くほど淡々と、報告の言葉が出てきた。夜の間、泣き通していたせいで、声が掠れている以外は、平然と話せたと思った。
『それは、寂しくなるなぁ』
少しだけ沈黙して、電話の向こうのマナトが言う。
「私は、親の言いなりです。たくさん親に迷惑かけたから、私はろくに反抗できない」
知らず知らず、白雪の拳に力が入っていた。
『そりゃ仕方ないって。俺も親父に逆らうのは命懸けになるから』
「あの、玖賀先輩のお父様って」
命懸け、という言葉が不穏で、白雪は思わず尋ねる。
クランが発した一言一言に、どれも不穏と事実が溢れていたからだろう。
『あーあのね、ただのヤクザ』
とても軽い口調で、サラッと話された言葉に、白雪は言葉を失う。
マナトは、表向きは実業家の息子として学校生活を送っていたので、白雪は玖賀家の実際の稼業を今、知ったのだ。
「ヤクザって……」
初めて知る事実がこんなところにもあって、白雪は言葉に詰まる。
『だから今後は、俺とかに関わるのはやめときな。いわゆる反社ってヤツだから、白雪が日本帰ってこないとしても、親御さんの事業に関わるかもしれないんだよな』
日本から離れた場所に行かされようと、勘当されようと、両親の間に生まれた子であるのは変わらない。白雪が何かすれば、家業に響く。
この肩書きはどこまでもついて回る。
「はい……」
言い返す言葉もなく、白雪は頷いた。
『これ、あんまり言いたくないけどさ、この件は終わっちゃったんだよ。誰かが、誰も知らないうちには片付いちゃってる』
マナトの言葉は抽象的な表現ばかりだ。だが、何を言いたいのかは、薄っすら把握できた。
「でも、たしかに存在してました」
白雪やマナトが覚えている出来事は、いろんな人間の手を経て「なかったこと」にされる。クランの遺体の行方すら、白雪は知る由はない。
『俺たちは、覚えておけばいいんじゃないの? つか、それしかできねぇんだよ』
「悔しい、悔しいです」
白雪は唇を噛み締める。血の味がする。その瞬間、白雪の目の前でクランが地面に倒れていった時の景色が脳裏に蘇る。
『残念ながらさ、大人に意見言うには、一人で何でもできるようになんなきゃいけねぇんだって。親父が言ってた』
マナトはとても軽い口調で話す。白雪は零れ落ちてきた涙を手で強引に拭う。
「子供だから、意見すら言えない」
『そういうわけじゃなくて。義務と権利っていうの? やることやらないと、やりたくてもやらせねぇよ、みたいな』
言い方は雑だが、マナトの言葉はわかりやすい。マナトの飾らない言葉を聞いて、白雪は思わず小さく笑う。
電話越しの鼻を啜る音を聞いて、白雪の気分が落ち着くまで待って、マナトはぽつりと言う。
『自分がやりたいことと、自分ができることって、すげぇ差があんのよ。それをどうしたらいいかって、俺にはまだわかんねぇや』
「悔しい、悔しいよ」
『本当にな』
白雪は電話を繋いだまま、また涙を零す。
こうしてマナトと、こんな話をするのはもうできない。
渕之辺 みちるとは、もう二度と連絡を取る機会はないだろう。
誰かのせいにしてしまえば楽だが、すべて白雪自身が引き起こした結果だと理解している。
己の無力さを思い知らされ、涙をどれだけ流そうと、失ったものが白雪の手に戻ってこない。
*
かわいい公安のコとのパイプを作っておいて、本当に良かった。
蠍の後先考えない大暴れの後始末は、やっぱり俺がやる羽目になった。まぁ実際は、公安のコに色々お願いして、不都合な事情はボヤかした。
長生きなんか、するもんじゃない。今回の件で、つくづく思った。
今だって、今回の火消しに尽力してくれた公安の女のコの機嫌を取るために、高級ホテルのスイートを取ったりして、大変なのだ。
「でもさ、テロリスト同士の仲間割れとは、無理矢理なオチだよね」
ベッドに腰掛けながらネクタイを緩める仕草を見せると、気づかないフリをしながらソワソワする、可愛い公安のコに文句を言ってみる。
「あのね、
そんなのはわかってる。
無機質さすら感じる、乱れの一つもないホテルのベッドに女のコを沈めて、のし掛かる。
「だから特ダネを渡してあげるよ」
ご褒美に、情熱的なキスと美味しい情報をあげる。
「国際手配犯の極秘入国情報」
前回と違って、彼女は仕事帰りの出で立ちで、フリルのついたシャツにストライプの入ったネイビーのマーメイドラインのスカートを着ていた。とても素敵だ。
それはさておき。
目の前の女のコは、息を呑んで俺の言葉の続きを待ってる。
「ただし、捕まえるのは無理だよ。各国の上層部との繋がりが深いから、圧力が半端なくかかる」
その人物が手配されてるのは建前上の話で、誰も本気で捕まえる気はない。
あるとしたら、目の前に居る彼女みたいな、功名心が強い野心家の、世間知らずな青二才くらいだ。
「それは誰?」
案の定、このコは前のめりで尋ねてくる。思わず笑ってしまう。
「イヴァン=アキーモヴィチ・スダーノフスキー」
「え」
その名前を聞いて、ベッドの上の女のコは、顔色をさっと変えて目を見開いた。
「イヴァン=アキーモヴィチ・スダーノフスキーが日本に来てるよ」
「嘘でしょ?」
かわいい公安の女のコは、黒目がちな眼を見開いて、覆い被さる俺を疑り深く見返してくる。
「疑うなら疑えば?」
公安の女のコのシャツのボタンを、一つずつ外しながら、余裕の笑みで言い返す。
「イヴァンは今、どこに?」
こちらに笑い掛ける余裕すらなくして、情報の続きを聞き出そうとしてくる。
深刻そうに眉間に皺を寄せてはいるけど、されるがままだ。
本当、こういうところが素直じゃない。
「あなたに頼まれたことは、ちゃんとした。だから、正確な情報をちょうだい」
「口答えしていいって、誰が言ったかな?」
右手で、公安の女のコの両頬を挟むように掴む。
「情報はギブアンドテイク、わかってるよね」
公安の女のコは両頬を掴まれたまま、小さく頷いた。それを確認してから、ネクタイを外してシャツを脱いだ。
「今夜は、君の上司の話を教えてね」
この公安の女のコの上司は、公安警察外事課のベテラン。このコよりもたくさんの情報を持つ、有能な捜査官だ。
*
「♪But don’t change a hair for me」
男は口元に笑みを湛え、小さく口ずさんでいた。
「♪Not if you care for me」
薔薇は本数にも意味がある。
例えば、男が今用意した11本の薔薇ならば「最愛」。
「♪Stay little Valentine, stay」
薔薇は、色ごとにも花言葉が異なる。
たとえば赤い薔薇の花言葉は「愛情」「情熱」「美」。はたまた、黒赤色の薔薇の花言葉は、「永遠の愛」。
それぞれ、花が醸し出すイメージを裏切らない花言葉だ。
「♪Each day is Valentine’s day」
赤に黒が混じるだけで、花言葉の意味が少しずつ変わっていく。
男の手に大事そうに抱えられた11本の、黒赤色の薔薇の花束。
『最愛』と『永遠の愛』
男は、完璧な花束だと思った。最愛の人へ捧ぐに相応しい、と。
5月半ば、陽射しは夏を先取りしているようだった。
この墓地は日除けになる木々がなく、日中は陽射しをたっぶり浴びる。
男は、黒赤色の薔薇の花束を、眼前の墓に供える。日本式の墓石は黒味の強い灰色の石で、艶やかなその表面に、男とその隣にいる女の二人の姿が映り込む。
しっかり整えられた銀髪、目尻に皺が刻まれた灰色の瞳、隆起した鼻筋と少し厚めの唇を持つ初老の男は、着ていた黒いスーツのジャケットを脱ぐと、隣にいる女へ渡す。
上半身の躰つきは無駄な肉がなく、とても初老とは思えない。シャツ一枚になると、それがよくわかる。
少し厳格そうで紳士的な佇まいの男だった。
隣の女は、娘か孫かと思うほど歳の差がある。
女の、緩く大きく巻かれたカールが印象的な金色の髪は、風に優しくそよぎ、緑色の瞳を縁取る長い睫毛と真白い肌は、まるで
「久しぶりだな、ユーコ」
男は、屈み込むと墓石に手を添え、側面に彫られた名を愛おしげに見つめる。
彫られていた名は、
「こんな姿になってしまって」
そう言うと、男は女に向かって、右手を出す。
女は、手に持っていた男のジャケットから煙草を取り出し、素早く渡すと、慣れた手つきでライターを着火した。
その火に、男は顔を近づけて煙草に火をつける。流れるように自然な、二人の動きだった。
「あぁユーコ」
男は一回だけふかした煙草の火を墓石の表面に押し付けた。
「君に会えないのが本当に寂しい」
灰色の瞳は、忌々しいものを見るように、鋭く冷たい。
火が消えても、穂先が潰れても、男は紙屑みたいになった煙草を、爪が白くなるほどの力で押し付け続ける。
女は、そんな男の背中を憂いを帯びた眼で見つめている。
男の名は、イヴァン=アキーモヴィチ・スダーノフスキー。
世界でも名だたる「死の商人」として、世界各国を暗躍し、今や国際手配されている。
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