6. Day4
*
オープン前のクラブの一角、VIP席と呼ばれるエリアの革張りのソファに、玖賀 愛人は憮然とした表情で横たわっていた。
ここはマナトの父が経営に参加しているクラブなので、我が物顔で出入りできる。
言葉少なに、不機嫌そうに姿を見せたマナトを見て、スタッフは遠慮がちに、なるべく音を立てないようにオープン準備をしていた。
当のマナトは硬く目を閉じ、今日ここに呼び出した幼馴染が現れるのを待っている。
今日話す話題をいくつか挙げ、内容を整理しながらどうやって話そうか、とシミュレーションして、待ち時間を潰す。
次に目を開けた瞬間、幼馴染はニヤッと笑いながら、マナトの顔を覗き込んでいた。
気配など一切なく、幼馴染は目の前にいた。マナトは悲鳴に似た声を上げる。
ソファから慌てて体を起こしたマナトに、幼馴染は軽妙に言い放った。
「よぅ、パワハラ親父のパワハラ息子」
「誰がパワハラ息子だ!」
マナトの前で声を出して笑う幼馴染の姿は、いつもと変わらないように見える。
いつもと同じ、作り笑い。
幼馴染はマナトの隣に座ると、膝の上で頬杖をついて尋ねる。
「随分怒ってるみたいだけど、理由は何?」
「うちの倉庫にあった武器、全部持っていったろ」
「あれは預けただけじゃん、所有者は私だよ」
「そりゃそうか……あ、あと、あの何とかって国のヤツ、昨日、ウチらがよく使う診療所にかかっただろ」
ざっくりとした発言だが、リエハラシアから来た男たちの一人が、自分たちが使う医療機関に現れた件に対する説明を求めている。
「私が紹介した」
幼馴染は、マナトの問い掛けをサラッと流した。
「あいつ、どういう知り合いだよ」
マナトはムッとした表情を露わにしているが、幼馴染が差し出してきた四角いチョコレートの包みは素直に受け取った。
「命の恩人。あの人がいなかったら、
淡々と答える幼馴染は、チョコレートの包装を剥がして頬張る。
「そもそもあいつが何者なのか説明しろって」
「現地の通訳」
チョコレートを頬張りながら答えるので、幼馴染の声はくぐもっている。そのせいで、声から感情を読み取れない。
「嘘つけ。何回尾行まかれたと思ってんだよ、民間人なわけない」
リエハラシアから来た二人組の男に関しては、玖賀が抱えている舎弟の中でも精鋭を何人も尾行につけた。それでも居場所まで特定できなかった。
その立ち振る舞いは民間人ではない。少なくとも、裏社会の人間にはそれがわかる。
マナトの指摘に、幼馴染は小さく頷いた。
「割と立派な肩書きがあった、元軍人」
「え、なんか強そう」
軍人と聞いて素直にリアクションした後、間髪入れずに質問する。
「じゃぁ、赤毛の男は?」
幼馴染は眉間に皺を寄せ、視線を上に向ける。誰のことなのか思い当たらない様子だった。
「その、元軍人ってやつの連れ」
そうマナトが説明を足すと、その言葉にやっと合点がいったらしく、幼馴染は答えた。
「仲のいい友達らしい。私はまだ会ってない」
赤毛の男については、幼馴染もそれ以上の情報を持っていないようだ。マナトは本題へ戻る。
「で、問題は、俺たちが使う診療所を使ったってところだ。しかも刺し傷」
幼馴染は、視線だけをマナトに向けた。
切れ長の黒い瞳が一直線に向いてくると、長い針で刺されているような気分になる。
「民間人として日本にいるなら堂々と、普通の病院に行けばいい。刺されたんなら、警察に事件として捜査してもらえばいい。そうしないから不穏なんだよ」
視線に負けじと、体ごと幼馴染の方に向け、マナトは言う。
幼馴染が静かに瞼を閉じる。ゆっくり瞼を開け、またマナトに一直線の視線を向ける。
「正規ルートで入国してないとか? 病院行きたがらなかったから」
だから紹介したんだよ、と幼馴染は言葉を付け加える。
マナトはその言葉が真実ではないとわかっている。
目を閉じて、ゆっくり瞬きをする。その動作の間に、回答を考える時間があったのだから。
幼馴染とは長い付き合いだからわかる。
これは、嘘というほど悪質ではないが、事実は言っていない時の態度だ。
マナトは深い溜め息をついて、テーブルの上のグラスを見る。
水が入っていたグラスの氷は残り僅か。グラスの表面には、びっしりと水滴が張り付いている。グラスの中と外、隔てているのは透明な器。
幼馴染が来る前に脳内でシミュレーションしたことを思い出しながら、マナトは話を切り出す。
「その元軍人と、俺らが話す場を設けるのは可能?」
「……まだ難しいと思う。警戒心が強い」
先ほどとは違い、思案を巡らせている様子を隠さず、幼馴染は答えを絞り出した。
「野生動物みたいな言い方してやるなよ」
人慣れしていない動物に対するような言いようだった。
バツが悪そうに、幼馴染は苦笑いを浮かべる。
そしてまた、鞄からチョコレートを取り出して、マナトに差し出してくる。
「こっちも慎重に話を聞き出してる途中だから、今は、マナトや玖賀パパには動かないでもらいたいってのが本音なんだよね」
「みちるさぁ、なんでそんな回りくどくやってんの?」
やんわりと関わるな、と咎められて、マナトは声を荒げる。
「あの場にいた人間に一人ずつ聞き回って探してる間に、時間はどんどん流れてく。もう一年経ったぞ? あと何年かけるんだよ? みんな、つらいまんまじゃねぇか」
マナトやマナトの父親にとっては、「家族同然の付き合いをしていた渕之辺 優子をテロで喪った」。その事実だけがある。
その事実に対して、どうけじめをつけさせるか、が目的だ。真実がどうとか、それは大事でない。
マナトが大声を出した時から、店内は一切の音が消えた。スタッフたちが息を殺して、フロアの片隅に固まっている。
しん、と静まり返った空間で、幼馴染は静かに微笑んだ。
何度も見た、何の感情もない、仮面のような張り付いた笑み。
「一番効率のいい復讐をするために、回りくどくやってるんだよ」
そこまで言うと、幼馴染は顔から笑みを消して、いつもより低い声のトーンで続ける。
「私はそのために何年かかろうと構わない。マナトと玖賀パパがそれを待てないって言うなら、ここで手を切ろう」
そこまで言わせる気はなかったマナトが、何か言おうと口を開いたが、幼馴染が席を立つ方が早かった。
「もちろん、これだけ協力してもらって、こちらから何の話もしないのは筋が通らないからね。もう少し聞き出せたら、その話をしに行くって、玖賀パパに伝えて」
突き放すように早口で言うと、幼馴染はエントランスに向かっていく。
マナトは早歩きで幼馴染の背中を追うが、一歩分の距離は埋まらず、幼馴染はマナトを振り向きもしない。
「ヤバいことになりそうだったら、早めに言えよ! 絶対助けてやるから」
追うのを諦めたマナトが、エントランスのドアに手をかける幼馴染に声をかけると、背を向けたまま足を止める。
「
エントランスのドアが開いて、閉じると同時に幼馴染の後ろ姿は見えなくなる。
ドアの前で立ち尽くすマナトは、困り顔で天井を仰ぐ。
「その言い方さぁ、これからヤバくなるやつじゃん」
* * *
この家のリビングはガラス張りで、昼間は容赦ない陽射しが当たる。カーテンを用意しなかったのを今になって後悔した。
顔に当たる陽射しが強烈すぎる。苛立ちで舌打ちしながら、ゆっくり起き上がった。
煙草に火をつけ、一息つくと、右手がちゃんと動くか確認する。右掌を何度も開いたり閉じたり、関節が曲がるかをこの目で見て、やっと落ち着く。
それくらい、利き腕を痛めたことに不安を感じているのだ。情けない。
不意に、リビングの床に放置していたスマートフォンが振動する、鈍い音が響いた。馴染みのある電話番号に、嫌悪感しかない。
スマートフォンは床に置いたまま、音声の入出力をスピーカーに変えて通話に出た。
『ミッチー、クガの息子に呼び出されてたよ。お前、昨日クガの診療所使ったでしょ』
この男の情報網は通り抜ける隙間がない。クガの周りには入り込めないと言っていたのは嘘なのかと思うほど、情報が集まっている。
「だから嫌だったんだよ」
とはいえ、神経に傷がついていないと診断してもらって、不安材料が消えた。それは良かったと思っている。
『そんな深手負ったの?』
一応、傷の心配はしてくれるらしい。
「いや。ただ右腕をやられた」
『あぁ、状況が状況だからね。その判断は間違ってないよ』
「笑うな」
こちらが怪我をして弱腰になったと思ったらしく、狐は堪えきれない笑いを漏らしている。
『いつ
「一昨日の夜。セーフハウスに割と近い地点で」
昨日は何もなかった。
なんならフチノベ ミチルはこの家に来なかった。わざわざ連絡は取らなかったが、今日クガの息子に会っているなら、生きているのは確かだ。
『じゃ、新しいセーフハウス、一応探しておくよ』
「頼む。蠍の動向は?」
『あのクソガキ、珍しくここ数日、一人の女のところに通ってる』
普段、蠍は一夜限りの相手のところにいる。だから「珍しく」と付け加えられるわけだ。
「なんでこう、俺の周りには女癖悪いのしかいないんだか」
『ホント不思議だよねぇ』
狐は笑いを噛み殺しながら言うが、笑い過ぎてきちんと発音できなくなっている。もはや雑音に近い。
『えーと、真面目な高校生の女のコなんだよ。17歳、俺にはちょっと幼すぎるな〜。でもって、大手ホテル経営者一族のご令嬢。こんな怪しくてチャラいおっさんはなかなか近づけないんだよねぇ』
一つ驚いたのは、この男が自分自身の胡散臭さを理解していたことだ。
とりあえず女だったら誰彼構わず粉を撒くんだと思っていたが、攻略しにくい相手もいるらしい。
「たしか、蠍もそれくらいの歳だったな」
『蠍は18。奇遇なことにミッチーと同じ』
「……知らなかった」
そう考えると、時々見せる感情的な仕草は、歳相応といったところだろうか。
『さて、その女子高生、フチノベ ミチルの通ってた学校の一学年下の後輩ちゃん。ちなみにフチノベ ミチルは、その学校を昨年3月で中退してる。
で、ミッチーがまだ学校にいた頃、学校活動の中で知り合ったミッチーと後輩ちゃんは、仲良くなったんだとさ』
わざとなのか、狐は軽薄な語り口で話し続けている。自分は、煙草のフィルターを噛むしかない。
『これが意図的なら、あのガキもなかなか考えてる』
「
故郷でない場所で、蠍が人を殺せば殺すほど、リエハラシアの、そして自分がいた部隊の名は悪名高きものとなる。
『そうだよ。だって、蠍には何の後ろ盾もないんだから、手段を選ぶ余裕がない。その状況でこの案を採るのは理解できるよ、俺はね』
「お前ならもっといい方法を考える」
故郷では有能な作戦参謀だったくせに、何を言っているんだと思った。
この男は最小限のリスクで最大の効果を出す作戦を、故郷ではいくつも編み出してきた。蠍のひどい愚策を、この男が評価するはずない。
『それはそう。俺には、ここまで大事に培ってきたツテがあるからね。でもあのガキにはない』
武器を持たない人間は、武器を求める。
相手を潰すために、より破壊力の大きいものを。
『そこまで追い詰めてるのは誰だと思う?』
その言葉を発した男の声は、穏やかだ。見透かされているようで癪に障る。
何も言わずに、床に置いたままのスマートフォンの画面に表示されている終話キーをタップして、フチノベ ミチルの番号を連絡先から探した。
*
フチノベ ミチルを電話で呼び出すと、ものの30分で家に駆けつけてきた。
「あの綺麗な顔のクソ野郎、私の後輩を人質に取るつもりですか」
インターフォンも鳴らさず、スペアキーで入ってくるなり、話し始める。言葉の端々に怒りが滲み出ていた。
「そう考えるのが妥当」
咥え煙草でソファに横たわったまま答えると、リビングに入ってきたフチノベ ミチルは一瞬、心配そうに眉を寄せる。
何でもないとアピールするために右手を上げると、フチノベ ミチルは無言で頷いた。
「ちなみに、ヒナちゃんとまだ連絡つきません」
そう言うフチノベ ミチルの左手にはスマートフォンがある。フチノベ ミチルには、移動中にでも例の後輩に連絡を取ってみろ、と伝えていた。
「俺なら連絡を待つが、お前は?」
古式ゆかしい人質戦法。
待っていれば要求を通すために連絡を入れてくる。今連絡がつかなくても、大した問題ではない。
だがこの女は、そうもいかないと言うだろう。
「後輩はただの民間人ですよ」
ピリついた空気を纏わせて、フチノベ ミチルは語気を強める。黒い眼は少し血走っている。
「わかってる。大事なかわいい後輩なんだろ」
「かわいい後輩……」
フチノベ ミチルは急に、困惑と始末の悪い感じに心配と苦悩の入り混じる、表現に難しい表情を浮かべた。
「なんだその顔」
「あの子は、悪い子じゃない。ただ、ちょっと……重かった」
「重い?」
「連絡が来たら、すぐ返事しないと電話が鳴り続ける。それが毎日。
逆に、あの子に連絡したら即、返事が来る。だから、返事が返ってくるまでこんなに時間が空くのは、おかしい」
フチノベ ミチルの視線は下を向く。手にしたスマートフォンの画面を見ている。
見つめたところで、プリセットの壁紙の上に時計しか表示されていない画面。
例の後輩からの連絡の密度とレスポンスの速さに、ただの上下関係だけとは思えず、つい聞いてしまう。
「その後輩、お前の恋人だったのか?」
「いえ。そういうんじゃ……あの子、好きだと思った相手との距離感の詰め方が、なんていうか、急すぎるというか強いというか」
この女も、自分に対しては距離の詰め方がかなり強引なのだが、それ以上のものが、例の後輩にはあったようだ。
「在学中はただの先輩後輩として仲良くしてたんですけどね。
学生って身分を離れたら、私は健全な企業様と付き合うには相応しくない反社会的勢力の一員だから、ひっそりと連絡先を変えたんですよ」
自分が最初に会った時、フチノベ ミチルは武器商人だった。
だが、日本でのフチノベ ミチルは、歳相応に学生として暮らしていた。
何ら不思議な話ではないのだが、出会いが出会いだったので、フチノベ ミチルが学生として学校に通っていたイメージが沸かず、違和感がある。
だが、例の後輩は、フチノベ ミチルが武器商人だと知らず、慕っていたのだろう。
「中途半端な拒絶が、一番拗れるぞ」
どの口が言っているのだ、と我ながら思うが、言ってしまった。
「それはそう、なんだよね。うん、私が悪い」
「現状、お前と後輩の関係は拗れてたって理解でいいんだな」
「拗れてたっていうか……私が拗らせた」
少しだけ物悲しそうな顔をした後、自嘲するように笑っていた。
例の後輩が、フチノベ ミチルに対してどんな感情を持っているのかわからないが、もし敵対感情を抱いていたとしたら、想像よりも良くない展開もあり得る。
床に置いた空き缶の口で煙草の火を消すと、缶の中に吸殻を捨てる。新しい煙草に火をつけ、煙を吐いた。
フチノベ ミチルは硬い表情で、何度もスマートフォンの画面を見ては溜め息をついている。
これだけはフチノベ ミチルからはっきり聞いておかなければならないと思ったことを、口に出す。
「後輩の命はどれくらい大事だ?」
「後輩がこちらに歯向かってきたら、殺していいか、って?」
懸案事項は、お互いに一緒だった。感情のない黒い眼が向けられるかと思っていたが、この時向けられたのは、強い意志のこもった目線だった。
「それはだめ。後輩の安全確保が最優先」
声を荒げるでもなく、はっきりとその意志を伝えてくる。
「後輩の確保に手間取っている間に、蠍が逃げたら?」
「最優先は、あの子の安全確保。蠍は追えなくてもいい」
もう一度、フチノベ ミチルは同じ回答をした。この言葉が嘘でないようにと祈るしかない。
こちらが疑心暗鬼なのを見透かすような黒い眼と、無言のまま視線を合わせる。
その静けさは、スマートフォンのバイブレーションの音が破った。
「マナトだ」
電話をかけてきた相手の名前を呟き、フチノベ ミチルはスマートフォンを耳に当てる。薄っすらと相手の声が聞こえるが、明瞭には聞こえない。
「……不穏な空気だけど、何かあった?」
そう言って、フチノベ ミチルはおもむろにスマートフォンの音声をスピーカーに変え、床に置く。この部屋にテーブルもないのが、不便だといまさら思う。
『ヒナが行方不明になった。ヒナの学年の先生たち、緊急招集かかったりしてるらしい』
スピーカー越しに聞こえるのは、若い男の声だった。周囲からガヤガヤとした音が混ざっているので、人混みの中で話しているのだろう。
「ヒナちゃんは、今日登校してたの?」
フチノベ ミチルは床に置いたスマートフォンの画面を見つめ、腕組みをする。表情は硬い。
『今日は連絡なしで休んでたらしい。昨日は来てたって』
「誘拐の痕跡は?」
クガの息子と会話している口調は淡々としているが、腕組みをした手の指先は、落ち着かない様子で動いている。
『ヒナの家の周り、今確認させてる。とりあえず、なんか痕跡があったら連絡するし、お前も手が空いてたら探して』
「わかった。こっちも何かわかったら連絡する。一旦切るね」
床に屈み込むと、フチノベ ミチルはスマートフォンの画面をタップして電話を切る。
そのまま、こちらに顔を向けて、
「今のは私の幼馴染、ジャパニーズマフィアの息子で、こうやって耳に入れた情報をくれる」
電話の相手の説明をする。されなくとも、わかっているのだが。
「クガの息子だろ」
「話が早い。”深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ”」
自分の口から「クガの息子」と出てきたのが予想外だったらしく、目を見開いてニーチェの言葉を引用してきた。
「お前らが覗いていたのは、俺のただの日常だ。こっちの方がはるかに深いところまで調べている」
「真顔で気持ち悪いことを言いますね」
いちいち癪に障る言い方をする女だと思う。
「で、ヒナって名前なのか、その後輩は」
苛つきながら、後輩の話に戻してやる。
「フルネームは
後輩はヒナカワ、クガの息子はマナトと、顔も知らない新しい登場人物の名前を、頭の中にインプットする。
任務に関する情報を覚えるのは苦ではないが、任務でも何でもない情報を覚えるのは、シンプルに苦だ。
フチノベ ミチルの左手が、不意に窓の向こうを指差す。
「ヒナちゃんの家は、老舗のホテル経営者一族。ここから見えるあのホテルも系列」
指差した先にある建物は、見覚えのあるホテルだった。
「蠍が男を殺したホテル」
「それは初耳だけど?」
手を下ろし、フチノベ ミチルは少し驚いた顔でこちらを見る。
「このセーフハウスに移動する前日まで、あのホテルに俺が泊まっていた。そこで蠍と遭遇した話はした」
そうですね、と相槌が入る。
「その翌日に、あのホテルで男の死体が見つかった。ニュースにもなっている」
それを聞いて、フチノベ ミチルは手元のスマートフォンで検索しようとしていた。
「あぁ……本当だ」
たった4日前の事件だ。検索すればすぐに出てくる。
「殺された人は、あなたたちに関わりがある人?」
「いや。おそらく、蠍とワンナイトしようとしただけの男だろう。そこで蠍の機嫌を損ねて、殺されたんじゃないか」
狐が言うには、蠍はその日暮らしで日々を食い繋いでいる。その流れで、運の悪い犠牲者が出た。ただそれだけの話。
「あいつがヤバいヤツなのはわかっていたつもりだったけど、私の認識が甘かった」
フチノベ ミチルは険しい顔で虚空を睨む。そして、囁くような小さな声で、ぼそりと呟いた。
「あの綺麗な顔の人がそこにいるだけで、死人が増える」
蠍が積み上げる死体の山に混ざるのは、自分かもしれないし、この女かもしれない。もしくは例の後輩か。
「ヒナカワの周辺を調べるのは、狐に任せろ。これ以上、死体を増やしたくないなら、クガの手下には手を引いてもらえ」
クガの手下がどれくらいの人数で動いているのかわからないが、蠍にとっては、暇潰しにもってこいの獲物がぞろぞろ揃っている、くらいの感覚でしかないだろう。
「玖賀の手下の皆様は、玖賀パパの命令しか聞かない」
フチノベ ミチルは真剣な顔で、真っ向から否定をぶつけてくる。
「なら、そのクガのパパに言っておけ」
「玖賀パパは私の話なんか聞いてくれませんよ。玖賀パパが私に協力してくれるのは、私の母と玖賀パパが仲が良かったからで、私が頼んだからじゃない」
クガパパ。ジャパニーズマフィアのナンバー2。さっき電話をかけてきた、マナトの
「つくづく面倒臭い」
これが故郷だったら、フチノベ ミチルの周りの事情など考慮してやる義務はない。だが、
「一つ聞いても?」
こちらをじっと見つめる黒い眼は、疑問形で尋ねているが、問いかけの拒否は認めない、と言わんばかりの強さがある。
「サバちゃんにちょっかい出すためだけに、こんな手間暇かけるのが、意味わからない。あいつ、何がしたいの?」
何がしたい、と聞かれたら、こう答えるしかない。
「お前の後輩を盾にして、最も有利な状況で、俺と殺し合いをする。
俺を殺して、ついでにお前と狐を始末して、
吸い終わった煙草の火を空き缶で消し、新しい煙草に手を伸ばす。これが何本目か数えるのも忘れた。
「ついで、って扱い雑すぎる。……蠍はなんでそんなに、サバちゃんにこだわるの?」
「嫌いなんだろ、俺が」
自分には、そうとしか言いようがない。
そこまであの子供を追い詰めているのは、誰か。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます