5. Day3
鯛の塩焼き。
内陸国だった故郷ではまず見ない、海水魚。赤い体に塩を纏って、網で香ばしく焼き上げられた白身。
フォークを入れると、皮がパリパリといい音がする。
艶やかな白身は、頬張ると柔らかく溶けるように、舌の上で解れていく。美しい食感。
調味料を極限まで排したシンプルな味付けが、魚本来のポテンシャルを最大まで引き出す。感動するほど完成された料理だ。
鯛の塩焼きの美味しさに機嫌を良くしていると、隣の椅子が引かれて、赤毛の男が座る。
「手間をかけたな」
魚を食べつつ、隣にいる
「それ、いつの、どの件について!? お前には山ほど手間かけさせられてるんだけど⁈」
狐はあれもこれも、それもこれも、と思い当たる節があるらしいが、自分にとっては家を探してもらった一点しかない。
面倒臭くなったので、色々喚かれているが、聞かないようにした。
「目撃情報は結構集まってきたよ。目立つ容姿で助かる」
狐に頼んだ依頼は、ちゃんと結果を出している。
「蠍くんさぁ、お前に会いに行った前か後に、ホテルの部屋で
ねぐらにしていたホテルで出くわした時、連れがいると言っていた記憶がある。
そしてその翌朝、そのホテルの一室で、刺し殺された男の死体が見つかったのも記憶にある。
これらは全て、一昨日の夜から昨日の朝までの出来事だ。
昨日の夜に、フチノベ ミチルが家に来て帰って、今日は狐と会う約束をした。
今のところ、あの金髪の子供が近くにいる気配はない。
「生きてる間にさんざん刺して、失血死させたんだと。怖いよね」
「そういう無駄な手順を踏むのが好きなのは、もう直らないな」
「良くない嗜好だよねぇ」
狐は、そう言いながら冷酒を呷る。
自分の手には、湯呑に入った茶色いお茶がある。その水面は、天井の照明を反射している。
あの子供の青い眼も、最初はこれくらい光を弾いていた。
整った環境で、養育に相応しい人間が育てていたならば、真っ直ぐ生きていたのかもしれない。これは意味のない、ifの話だ。
蠍が、軍特殊部隊の育成組織に入ったのは6歳。
それから大人と遜色ないほどの歳になるまでの時間。歪むには十分すぎる時間が過ぎた。
「要らぬ犠牲が増えれば、俺が叱りにくると思ってる」
「そうそう。甘ったれの構ってちゃん」
人の悪い顔で低い笑い声を漏らしながら、赤毛の男は言う。
「いっそ、叱りに行ってあげたら?」
「叱ってもらえるのは情があるうちだけだ」
そもそも、叱ってやる義理はない。そして叱る権利もない。
隣から視線を感じ、いやいや顔を向けると、何か言いたげな顔でこちらを見ている狐がいる。
狐の、緑みの強いヘーゼル色の眼が、一瞬の動きも見逃さないように警戒しているのがわかる。
何事かと思いながら、睨み返す。
「一度聞きたかったんだけどさ、あのガキが
狐が声のトーンを数段階落として、尋ねてくる。
今になって、そんなネタまで深堀りしようとしているところに、呆れてしまう。
「聞いたこともない。そんな噂が?」
「噂だけ。証拠なし」
狐は続けざまに、なーんだ知らないか、と言い、ネタの深掘りが不振に終わってがっかりしている。
こういう情報に対して貪欲なところは、味方にしているうちは心強いが、敵になった時はひどく厄介なのだろうと思う。
*
街というものは、存在する大半の道は必ず繋がり合っているのだが、時々袋小路も存在する。
こんな道でも、歩き進めれば今住んでいるマンションの近くに繫がるのだから、街が迷路そのものと言える。
ある建物は消え、更地に新しい建物が建ち、道は増えたり細くなったり、街は絶えず形を変え続けている。
朝晩変わらずに人が溢れる駅、雑踏。
夜中でも街を照らす電灯。
建物が無作為に破壊されず、整然と並ぶ風景は、故郷にはない光景だ。
これは国が発展し開発された、平和の象徴なのだと思う。
だが、見た目の豊かさと中身の豊かさは比例しないところが、成長した国家が持つ矛盾だろう。
そんなことをぼんやりと思っていた。
反応に一瞬遅れた。
普段なら避けられるのが、タイミングがズレて、刃先が首を横切った。
「暇そうだね」
背は小柄な男とはいえ、この細い道で、全く居なかったわけではないだろう通行人を、どうやってやり過ごし、待ち構えていたのか。不思議だ。
「ね、ちょっと遊ぼ」
蠍が
幸い、浅い切り口だったが、鎖骨へ血が垂れてきたのは感じた。買ってからそんなに経っていないシャツが汚れる羽目になり、つい舌打ちする。
「珍しいね、新しい服着てるの」
普段着ない、カーキ色のシャツに視線を向けられて言われる。
「狐に会うのがそんなに楽しみだったの?」
ニヤついた顔と冷たい眼がこちらを見つめていた。
だから、服や靴を新調するのは嫌いだ。
普段やらないようなことをやると、こういうロクでもないになる。くたびれていようと何だろうと、着られるうちは着ておけばいいものを。
「フチノベ ミチル」
蠍は半笑いでその名前を出した。
「よりによって、何であんなバケモノに手ぇ出してんの?」
「相性がとても良かった」
わざわざ返事してやるのも面倒だったが、適当に軽口を返した。
あの日、大統領府で睨み合った時も、蠍はフチノベ ミチルを「バケモノ」と呼んでいた。そう呼ぶのを気に入っているのだろう。
「ふーん」
蠍はこちらの軽口に、予想通り苛ついた様子を見せる。
「あのバケモノより、僕の方がイイと思うけど?」
すっと顔を近づけて、鼻息がかかるくらいの距離で囁いてくる。
またキスでも狙ってきているのかも知れないと、後ずさった。右手を腰に挿した拳銃へ伸ばす。が、蠍はナイフと拳銃をしまい込んでいた。
「一度でいいから、あんたがどんな顔してイくのか見せてよ」
そう言いながら、ルージュを塗ったみたいに赤い唇を舌舐めずりする様はエロティックだ。残念ながら、興奮どころか背筋が凍るような寒気しかしないが。
「一人で妄想してろ」
会う度に毎度、ありがたくない色気を振り撒かれても困る。
「ちゃんと相手してくれないと、あのバケモノ殺すよ」
拗ねた口振りで、殺気立った眼をする。子供っぽさが全面に出た、中途半端な威圧だ。どうせならもっと感情が出ないように振る舞え、と先輩面して注意したくなる。
「それでいい。二人で潰し合いをしろ」
あの日、自分があの場にいなければ、もう決着がついていただろうに、何故日本まで追いかけてきて、しょうもない襲撃を繰り返している。
蠍は、すっと真顔になる。
「言っておくけど、あんたにあのバケモノは手に負えない」
まるで狐みたいな、勿体つけた言い方だ。
「訳知り顔だな。お前も狐に似てきた」
狐の名前を出した途端、蠍の表情が一変する。
「あのクズ男と一緒にしないでくれる⁈」
蠍の「地雷」の一つは、狐。
狐は蠍を危険視して徹底的に除外しようとしたし、蠍の「
それを根に持った蠍は、狐に嫌がらせ三昧だった。無論、狐はそんなのが効く相手ではないのだが。
「お前の欠点は、すぐ冷静じゃなくなるところだ」
蠍は冷静さを欠くと、無駄な殺戮をする。
ナイフが光を弾いて動くのが見えて、蠍の左腕を掴んで、体に膝蹴りを入れようとするが、蠍はすぐに掴まれた腕を振りほどく。
膝蹴りを諦め、そのままの勢いでつま先で顔面を狙う。避けようと仰け反った蠍の顔に、素早く左肘を入れる。
それでも振り下ろされたナイフは、自分の右腕を掠めていた。
蠍はそれを見ると、急に動きを止めた。
そして、ニヤリと笑いかけてくる。
「あんたは接近戦が怖いから出来ない卑怯者」
蠍を突き飛ばすようにして、お互いに一歩分ほどの距離を取る。
「当たり前だ、
ナイフで二の腕を切られたのを気にして、無意識に右手を握り締めたり、緩めたりして、状態を確認している自分がいる。
「本気でとどめを刺しに来たんじゃないなら、さっさと
本当にこの子供の行動はよくわからない。
ホテルに現れた時も今も、ちょっかいを出すだけで、本気になりやしない。
「まだ殺さないよ、今は。あんたとあのバケモノに、しっかり地獄を見てもらわないと」
自分からしたら、こんなに長々、蠍と話してる状況が、既に地獄なのだが。
それが蠍のとっておきの決め台詞だったらしく、満足げに笑うと踵を返して街に消えて行く。
その後姿を撃って殺した方がいいのはわかっていたが、サイレンサーのついていない拳銃で発砲すると、周囲に異変を察知されてしまう。
発覚までに死体を処理する手間を考えると、あまりに現実的でない。
結論、この地で暮らすのは、自分のような種類の人間には向いていない。
シャツの胸ポケットにしまっていた煙草に手を伸ばし、火をつける。その瞬間だけは、落ち着ける。
*
いかに人目につかず、防犯カメラにはっきりと映り込まずに辿り着けるか。
ルートをいくつも考えながら、セーフハウスとして借りた建物に向かった。
頭の中で想定したルートを踏破し、玄関のドアを開けると面食らう。
そこに靴が一足あったからだ。この家のスペアキーを持っているのはただ一人。
そして、その人物は何故かまだ、家にいる。
毎日何かしらのアルバイトに行っている、と言っていたはずだが、終電がなくなっている時間にも関わらず、ここにいる。
帰宅するのを諦めるような何かが起きたか。
だが、さっきの蠍の様子を思い出しても、昨日今日でフチノベ ミチルと接触したとは思えない。
自分しかいないはずの家の中に他人がいるのが、どうしようもない居心地の悪さを覚える。
明らかな気配のある空き部屋に向かうより先に、洗面所へ寄る。
洗面台の下の収納にしまってある、
そのまま鏡の前に立つ。
不機嫌そうな目つきの悪い男が、肩まで伸びたウェーブヘアをぼさぼさにして煙草を咥えている。右腕と首筋から血を流しながら。
我ながらひどい姿だと思った。故郷でこんな姿を晒していたら、敵どころか味方からも笑われながら、殺されていただろう。
首の左側、動脈にかけて表面だけ一直線に切られている。しっかり刃が入っていれば、綺麗に動脈を掻き切っていたはずだ。
右腕、二の腕部分。上腕動脈を狙ったであろう刃先は、肉を抉るだけで終わっている。傷口からは血が流れ続けている。
垂れてきた血が指先から滴り落ちるのを見て、舌打ちが出た。
空き部屋から慎重に近づいてくる気配がある。気配を消さないのはわざとなのか、忘れているのか。
あの女は何を考えているのか、いまだにわからない。
締め忘れた洗面所のドアから、黒い銃口が一番最初に現れる。それから、一歩踏み込んできたのは、黒髪の若い女。
向けられた
十中八九、ここにいるのは自分だと思ってはいたのだ。
自分の姿を確認するなり、フチノベ ミチルは拳銃を降ろし、床にしゃがみ込む。
「帰ってきたなら言ってよぉぉぉ……怖いって」
安堵の混じった、呻きのような情けない声がする。半分以上の確率で自分が現れると思って動いていた割には、大袈裟なリアクションをしている。
相手してやるほど機嫌が良くないので、黙って応急処置セットの蓋を開けて、必要な道具をいくつか洗面台に並べた。
「怪我してる」
この姿を見られたら当然の反応なのだが、改めて他人から言われると不快に思う。
「見た目は派手だが、大して切れてない」
そう言いつつ、首に消毒薬をつけたガーゼを当てると、血が滲んでいた。
「傷が深い腕から処置した方が良くないですか? それに、利き手は右でしょ?」
自分の前に差し出された女の左手に、包帯や消毒薬やガーゼを渡す。
「シャツ脱いで」
「何でこんな時間にお前が居る」
シャツを床に脱ぎ捨てると、すぐに右腕にひんやりとしたガーゼが当てられた。消毒薬をこれでもかと染み込ませてある。
「在庫を運び入れてたら、終電逃したんですよ。
ちゃんと指示通り、玖賀のお
「……そりゃご苦労だったな」
在庫を運び入れろと昨日、移動手段や手順まで指示したのは他でもない自分だった。
だが、終電を逃す時間まで作業しなくていい、とまで言わなければならなかったのか。
他人に腕を素手で触られている感触は、どうにも嫌悪感があるが、フチノベ ミチルに悪気があるわけではない。むしろ善意だ。
煙草のフィルターを噛み締めながら耐える。
「殺した?」
誰に襲撃されたかは言わずとわかっていて、結果を聞かれる。思わず鼻で笑った。
「残念だが、まだ生きてる。あれは俺にちょっかい出すのが生き甲斐らしい」
止血のために二の腕の傷口を押さえているフチノベ ミチルの左手のガーゼから、じわじわと血が伝っていく。その肘から床に血が落ちた。
フチノベ ミチルは血で染まったガーゼを見つめながら、特に反応は示さない。
「そのうちお前にもちょっかい出しに来る」
「それは楽しみ」
自嘲気味に、フチノベ ミチルは言う。
だが今は、蠍の話よりも傷口に意識が向いているように見える。
「ちょっかい出されても絶対、相手にするな。あいつは俺に用があるだけだ」
「自分の存在を相手に認識してもらえないのは、屈辱的ですね」
その言葉に対し、認識されている方がよっぽど面倒だ、と呟くと、力なく微笑まれた。
その笑みが、何を言いたいのかは読み取れなかった。
「一応、病院行った方がいいと思う。玖賀御用達の医者、紹介できますけど」
「必要ない。これくらい擦り傷と同じ」
「
フチノベ ミチルの言葉も間違ってはいない。
「クガとやらに恩を売りたくない」
だが、これに尽きる。
「渕之辺の口利きって言えばいい」
フチノベの名を出そうと出さまいと、クガの息がかかっているところはクガに嗅ぎつけられる。
煙草が燃え尽きかけていたので、蛇口から水を出して洗面台のボウルに投げ捨てた。
それから口を開こうとした瞬間、
「人間は簡単に死ぬ構造をしている、でしょう?」
昨日、この女に言った言葉が、そのまま自分に返ってくる。
「その吸い殻、後でちゃんと捨てなよ」
そして、至極真っ当な指摘もされる。
傷口を押さえていた手が離れ、ゆっくりとガーゼが剥がされる。喋っている間に、血は止まっていた。
フチノベ ミチルは濡れた吸い殻をボウルから拾い上げ、それから手を洗った。
タオルが見当たらないのに気づいて、服で大雑把に水を拭って、消毒薬を手に擦り込む。
新しいガーゼを手に取ると、再び傷口に当て、包帯を巻き始めた。
武器商人が怪我の手当てに慣れているのは少し意外な気がした。
「首は自分でやる? 私がやる?」
包帯を巻き終えたフチノベ ミチルが尋ねてくる。止血は終わったとはいえ、右腕を動かすのは億劫だった。
「頼む」
体ごとフチノベ ミチルの方に向けると、顎を上げろと言われる。
さっきと同じように傷口にガーゼを当て、押さえつけて止血する。
こうやって首を触られるのも、先ほど同様に嫌悪感があるが、奥歯を噛み締めて耐えるしかなかった。
「一つ聞いても?」
その時のフチノベ ミチルは、今までの流れとは打って変わって、神妙な口ぶりだった。
「蠍と昔、何かあったんですか?」
首筋の傷口を押さえられているだけだが、この手は、首を絞めようとしてくるかもしれない。
何の根拠もないが、そんな風にぼんやりと思った。
「お前には関係ない」
「へぇ、そうですか」
フチノベ ミチルの質問に答える気はなかった。フチノベ ミチルも自分がすんなり答えるとは思ってなかったのだろう、それ以上食いついてはこなかった。
首筋にかかる手の力が緩んで、血がついたガーゼを丁寧に剥がしている。その後、さっきと同じように、手についた血を洗い流した。
フチノベ ミチルの手が離れて、ほっとして思わず深い溜め息をついた。
だがすぐに、離れていったはずの手が、首筋に伸びてくる。その手は新しいガーゼを当て、テープで留める。テープが剥がれないように押さえてくる手の感触が、本当に苦手だ。
思わず顔を背けていると、話しかけられる。
「私について、あいつは一言も、何も、言ってなかった?」
伏し目がちになった、心なしか虚ろな黒い眼。
存在を認識してもらえないのは屈辱だと言うが、厳密に言えば認識されてはいる。
「あぁ……お前をバケモノとは呼んでいた」
あいつからしたら、この女はバケモノ扱いだが。
「あんのクソ野郎」
フチノベ ミチルは、わかりやすいほど顔をしかめ、憎々しそうに口元を歪める。
無性に煙草が吸いたくなって、いつものようにシャツに手を伸ばそうとした。
そこでやっと、上半身が裸なのを思い出す。舌打ちしながらシャツを拾い上げて、煙草の箱を取り出した。
「お前、この後どうする気だ」
咥えた煙草に火をつけ、着替えのシャツを探しに家の中をうろつきながら、大声で尋ねた。
「歩いて帰る」
フチノベ ミチルの間延びした声が、洗面所から遠ざかる。
思わず玄関の方へ向かうと、鞄を持って靴を履こうとしている後ろ姿があった。
「始発まで、ここにいても構わないが」
「好きでもない男の人の家に一晩とか、ちょっと、ねぇ?」
わざわざ「好きでもない」を強調する言い方をするのが腹立たしい。
「自意識過剰はお前の方だからな」
「ほぉ。取っ組み合いの喧嘩する? そっちが怪我してても容赦しないよ?」
「面倒くせぇヤツだな、本当に」
何故こんなウザったらしい絡み方をしてくる相手と、接点を持ち続けてしまっているのか。それは自分のせいなのは、間違いない。
かたやフチノベ ミチルはけらけらと笑っている。子供みたいに無邪気に。
*
昨夜の出来事の現実感はないが、それでも今朝捨てた真っ赤なTシャツの色は、白雪の脳裏に焼き付いている。
昨日と同じくらいの時刻よりも早い23時過ぎから、白雪は自室の出窓のカーテンを開けて外を見ている。
防犯システムがいじった本人から、業者に連絡した方がいいと言われたが、今日の時点で業者に連絡せず、少年が来るのを待っている。
今日来なければ、業者に連絡する。そして、もっと強固な警備体制にした方がいいとも考えている。
その方が安全だとわかっていながら、そこに躊躇いがあるのは、あの少年が今日現れてくれるのを、白雪が切に祈っているからなのだろう。
庭先のライトは人感センサーがついているし、ちゃんと機能すると今朝確認したはずなのに一切反応せず、庭に植えられたオリーブの木の隙間から、彼は現れた。
白雪は慌てて窓ガラスを開けて、半分身を乗り出す。
「ちゃんと来た」
「あんた、服返しにこいって言ったじゃん」
火のついた煙草を咥えた姿で現れた少年は、白雪が貸した父親のシャツとタオルを袋にも入れていない状態で手にしている。
「本当にくるとは思ってなかった」
「何だよそれ」
少年は呆れた顔で、服とタオルをどこに置けばいいか迷っているような仕草を見せる。薄暗い夜闇の中、白雪は目を凝らして少年の顔を見る。
「顔、すごいけど大丈夫?」
「顔がどうしたって?」
「殴られた?」
白雪は自分の鼻あたりを指さし、庭先で手持ち無沙汰に立っている少年に尋ねる。
「あぁ、うん。そう」
少年の言葉は妙に歯切れが悪い。ただ、昨夜のように誰かの返り血をつけていないのを見て、白雪は少しだけ安心する。
「冷やした方がいいよ」
冷凍庫の氷を詰めたビニール袋でも持って行ってあげるべきだろうか、と白雪は頭の片隅で思いながら声をかける。
「ついでにマスクも持ってきて」
少年は白雪に、殴られた顔を隠すためにマスクを要求してきた。
今日も傍若無人だった。このふてぶてしさは、何ら変わらない。
「貸すのはいいけど、明日返してよ」
「さすがにケチすぎるよ、あんた」
「そこでちょっと待ってて」
貸し借りの話で、露骨に嫌な顔を見せた少年に意地悪く微笑んだ後、白雪は階下のリビングへ駆け降りる。
この庭には、蛇口から少し離れたところにテーブルと椅子が一脚設置されている。両親が海外赴任する前から、このテーブルセットは飾りとしてしか機能していなかった。
その椅子に、少年は座っている。
「あんたさ、悪いヤツじゃないよね」
「あなたよりかは、ね」
少年は、白雪を素直にいい人だと言わない。
椅子の向かい側に立っている白雪は、氷水を入れて口を縛ったビニール袋を、少年が持ってきたタオルに包んでいるところだった。
「怖くないの?」
「怖いよ」
「そうは見えないけど」
口では怖いと言いながら、白雪は何でもない顔でタオルに包んだ氷水の袋を差し出す。それを受け取りながら少年は薄く笑った。
少年のその笑みを見て、白雪は目を細める。そしてぼそりと呟いた。
「怖いよりも、あなたがどんな人なのか知りたいと思ってるのかもしれない」
「意味がわからない」
顔にタオルを当てている少年は白雪の言葉に首を傾げる。本当に、意味がわからないと戸惑っている。
「私もわからないよ」
白雪は自嘲にも近い、困ったような笑みを浮かべた。
昨日は庭先と二階の部屋という距離があったが、今は目の前にいる。
黒っぽい髪色、黒目がちな瞳、白い肌に形の良い唇。
自分とは似て非なるものが、少年の目の前にいる。胸元まで伸びたふんわりとした髪は、少年が知る人々とは違う。
怖い、と言いながら、真摯に向き合ってくる眼差しは、他の誰とも違う。
少年の目の前にいるのは、害意のない、穏やかな存在だ。
「ね」
少年は無意識に、声をかけていた。
「また来てもいい?」
それを聞いた白雪の表情が一瞬曇ったのを見て、少年の瞳が揺れる。
白雪は一階の部屋の窓に貼ってある防犯システムのステッカーを指差した。
「それって毎回、うちの防犯システムいじる気?」
「あ、うん、そう、なる」
唐突に防犯システムの話を出されて、少年は対応できず、しどろもどろになる。
「じゃぁ、事前に連絡ほしいな。毎度毎度防犯システムいじられると、こっちも困る」
白雪は、持っていたスマートフォンをテーブルの上に置く。
「基本的に夜は家にいるよ。平日の昼間は学校」
「わかった」
お互いの連絡先をスマートフォンのトークアプリに登録すると、少年は椅子から立ち上がる。
「明日、またタオル返すよ」
結局、貸し借りは今日も続いた。
また明日、会いましょう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます